故郷
「スン、明日はお昼に帰ってくるけれど、もしかしたらダド王子がお客さんを連れてくるかもしれない。会いたくなければ隠れていても良いとおっしゃってたよ。」
「お客さん? 畑を見に来るの? 」
おばあちゃんはうなづいた。
「庭を作るのが好きな人でね、ここにもいつか来たいとおっしゃっていた。」
「わかったわ。私隠れてる。」
翌朝スンはいつものように窓からおばあちゃんを見送って、洗濯物を干した。双葉にも水をあげて、太陽の光がたくさん当たる窓際に置いた。それからスグリのそばに布を敷き、一つ一つ熟れているか確かめながらもいだ。昼には布いっぱいになった。
満足してカゴにいれようとした時、門の向こうから足音がした。スンは慌てて水くみ場の梯子に向かって駆けて行った。スンはなんとか窓から部屋の中にもぐりこんだ。
白いドレスの女性がひっそりとした表情で庭を見ている。とてもきれいな人だけど、なんだか元気がない。花も実もない葉だけの茎に手を伸ばし、葉の表面や裏側をしげしげと見ていた。
窓に近づいている。スンはカーテンの間に隠れた。女性はぴたっと足を止めた。そして、眼を丸くした。
スンの仕事着だった。靴下も一緒に並んで干してある。急に注意深く庭を見る。目線は下の方を見ていて、耳をたてて用心深く足元を探る。小さな生物を捕まえようとする時の仕草だ。
白いドレスの女性は考えを巡らせるように口を閉じたまま目線を動かしていた。
「エーミア、勝手に入っては困る。」
ダドの声がした。垣根をくぐって駆け込んできた。後ろにはおばあちゃんがいた。
おばあちゃんはスンを探すように目線を動かす。カーテンの中に潜り込んで、ほんの少しだけ頭を出しているスンにすぐ気づいた。
「誓ってお庭を荒らすような真似はしていません。」
まっすぐにおばあちゃんを見つめる。おばあちゃんは白いドレスの女性に微笑んだ。
「存じています。エーミリアーナ殿。貴方は庭造りにたけている。」
「だから教えてください。」
ダド王子はスンがどこにいるのか、目線だけで探していたがやめた。
「ここには、いるのですか? この小さな服の持ち主が。」
おばあちゃんはなにも言わなかった。
白いドレスの女性、エーミアはダド王子を振り返った。
「先日家に帰って初めて知ったのです。私に妹がいるということを。」
スンはドキンとしてぎゅっとカーテンを握った。
「妹を見たのは、仕立屋の主人と執事、父と数人の従女です。従女達は小さすぎてなんだかよくわからなかったと言っていました。執事も、夢だったのではないかと言います。仕立屋の主人もひどく気落ちしていて、はっきりとは言いませんでした。父だけはいた、とはっきり言いました。」
スンはエーミアの顔をよく見ようとした。今は強いまなざしをしているけれど、優しそうな面立ちは、見れば見るほど見覚えがあった。
「父は妹のために財産を残すと言いました。彼女を今も探し続けています。私たちには、妹の話は夢のようで、幻でも見たのではないかと思えました。妹は、黒い髪に黒い目に、紅をさしたような赤みのある頬をした……。」
エーミアはきっぱりと言った。
「愛らしい、縫い針ほどの大きさの娘だったというのです。」
エーミアの顔はバンデラさんにそっくりだった。スンは震えるてでカーテンにしがみついていた。
「執事のマフは、こんなことが知れたら、世間は我が一族を呪われていると思い、家名を汚すことになると心配しています。何か悪いことをした因果が巡ってきたと、囁かれると。だから、父には探しているふりをしているのです。噂話を集める以外、懸賞金をかけることもあちこちに触れ回ることもできません。」
エーミアの肩が震えていた。
「私達が見捨ててしまったばっかりに妹がつらい目に遭ってしまったなら、私はその償いを一生かけてもします。」
エーミアは自分の言葉をスンがどこかで聞いていると気付いている。この庭のどこかにスンがいると確信していた。もいだばっかりのスグリや、風も無いのに揺れているカーテンを見ていた。
「父は、妹を愛しているんです、彼女を。彼女は、私達の大切な人の娘だから。」
風も無いのにカーテンが揺れた。エーミアはカーテンの裾の端に、小さくうずくまっている女の子の背中を見つけた。
スンは胸が痛くて悲しかった。自分を愛していると言ってくれたのに、大事にしてくれようとしたのに、バンデラさんのことを信じようとしなかった。おばあちゃんのように信頼して、心を寄り添わせることはできなかった。自分が本当はどうして欲しいのか、伝えることもしなかった。
バンデラさんは優しかったのに。お母さんを大事に想って自分を受け入れてくれたのに。
エーミアは窓にゆっくり近づき、丸く縮こまるようにして泣いている背中に手を伸ばしかけて、ぎゅっと拳を握った。
「スン? 貴方が、私の妹のスン? 」
エーミアが優しく尋ねると、小さく頭が動いた。目に涙をいっぱいためた幼い顔に、エーミアは涙を滲ませた。
「それとも、あなたはこの庭に住む妖精? 」
スンはふるふる、と首を横に振って言った。
「私、スン。」
小さな声でやっと、スンは言った。
エーミアはつぶしてしまわないように優しくそっと、スンの涙を指先で拭いた。
「私はエーミア、貴方のお姉さんよ。」
涙の滲んだエーミアの顔は、スンを見つめるお父さんと同じだった。
森の中にいたときは森の向こうに何があるか、考えてはいつもわくわくしていた。おばあちゃんにいつか連れてってもらえる。その日を考えるのが楽しかった。
でも森の外は恐くて不安で楽しいことばかりじゃない。ずっとあの家にいたほうが良かったと、何度も思った。
けれどそうしたらお母さんのことも分からなかった。お母さんを大切に思ってくれた人がいることも。
「セリマさんそっくりね。」
エーミアがスンを両手に乗せて目線の高さに上げる。スンも掌から頭を伸ばしてエーミアを見つめる。
「スン、会いたかった。セリマさんは、私と父にとって家族だったもの。」
エーミアの眼は優しかった。
「あなたが小さいことを悪く思う人がいても、私たちそんな人に負けないわ。私も。マフだって……お父様や私達の一番の味方だもの。」
スンは少し喉から出かけていた言葉をごくんっと飲んだ。もう何も言えなくなってしまった。エーミアの顔が悲しそうになると、スンの胸もぎゅうっと痛く、悲しくなる。
「スン、父はあなたがいなくなってから急に容態が悪くなったわ。セリマさんがいなくなった時みたいに、毎晩うなされてるの。だから、あなたの気持ちが決まったら一度でいいから、父に会ってあげて。」
エーミアは微笑んだけれど、それはとても悲しい笑顔だった。
その夜スンはちっとも夕食が食べられなくて、すぐ眠った。双葉をベッドのすぐそばに置いて、頭からシーツをかぶった。おばあちゃんのキスも待たずに、身体を丸めて横になったスンを、おばあちゃんは優しく撫でてから、シーツの上からキスをした。
スンの泣き声が、シーツの中からでもおばあちゃんに聞こえた。
バンデラさんのことが悲しい。でも怖い。バンデラさんが、自分が作ったドレスを見て、あんなに怖い顔をしていた。おばあちゃんを捕まえようとした、町の人達と重なる。バンデラさんがもし、自分を突然捕まえようとしたら。怖くて、悲しくて、頭の中がちっとも整理しなかった。声を押し殺して泣いているうちに、スンは眠ってしまった。
スンは木の根に生えたコケやキノコ、青い若葉の上を歩いていた。あちこち懐かしそうに歩く。スンはここを知っている。ここはスンが生まれた場所だ。おばあちゃんと過ごしたあの森だ。
草の間を抜けると、小川が見える。そこを抜ければ、家はすぐそこ。
「おばあちゃん、もうすぐよ。」
スンが振り返ったとき、誰もいなかった。
はぐれてしまったのだろう。でも、おばあちゃんはすぐ来る。スンよりもずっと長くこの森にいたのだ。スンは草の間を抜けた。
スンは立ち止まった。
小川はなかった。緑色の、木の葉やつるを巻きつけたような服を着た、黒髪の人がいた。格好も不思議だが、もっと不思議なことがあった。その人はスンと同じ大きさだった。
黒い髪の細い眼をした、皺だらけの顔。何百年も生きてきた大木のような肌だ。その人は手を振った。
「セリマの授かった贈り物だね。」
子供のようで、大人のようで、男のようで、女のようで、一人でも大勢いるような声だった。
「お母さんを知ってるの? 」
その人の言葉には、雨降りの森の匂いがあった。
「セリマは変わり者だったけれど、良い子だったよ。人間の土地で死ねば消えてしまうと知っていたのに、行ってしまった。悲しかったよ。」
声が頭の上でした。
「でもあの子は見つけた。」
スンは目を閉じた。はっきりと、抱きしめられているのを感じた。手じゃない。腕だ。そして身体いっぱいで温かさを感じる。ほおずりがそっとした。温かくて優しい、でもおばあちゃんとは違う、別のにおいがした。
「あの子は人に寄り添うことを選んだ。いつか悲しい別れがくることも覚悟して。」
スンはたくさんの光を浴びていた。森の真ん中で空を見上げたような、たくさんの温かく優しい光が降り注いでいる。
「あなた、だれ? 」
スンの問いかけにたくさんの笑い声がした。
「私達はギリー・ドゥー。森の人。森は私達の家で、私達の身体で、私達の心。」
光が遠ざかっていくのを感じる。
笑い声が段々消えていく。スンはその中で、はっきりとお母さんの笑った顔を見た気がした。
スンが跳ね起きた時、おばあちゃんも起きたばかりで、スンの様子をうかがっているところだった。
「ここは? ここはどこ? 」
スンが驚いていたので、おばあちゃんはそっと顔を覗きこむ。スンの眼からはぼろぼろ涙がこぼれ、顔中が濡れていた。スンはここが森ではないことに気付いた。おばあちゃんがそっと、スンの頬を指でなでた。
「怖い夢を見たのかい? 」
スンはぶんぶんと首を横に振る。
怖いのとは違う。叫びたい気持ちでいっぱいだけれど、怖いのではなくて、もっと熱くて、もっと爆発しそうな気持ちだ。
「おばあちゃん、私、お父さんに会わなきゃ。」
おばあちゃんの指にしがみついて、スンは言った。
「スン。」
おばあちゃんが優しくスンを抱きしめる。
「そうしてあげなさい。あの人は大切なものを二度も失う苦しみで弱ってしまったんだよ。」
スンは顔を上げておばあちゃんを見た。
「一度目はお前のお母さん。二度目はスン、お前だよ。私にもわかる。王子たちを置いていった時とはまったく違った。お前はこんなに小さくて、守ってくれる人も安らげる場所もない。お前がひどい目に遭ってないか考える時は、棒でぶたれるよりつらかった。」
胸の中がいっぱいで、スンの眼から涙が溢れた。
スンはおばあちゃんの手に抱きついて泣いた。おばあちゃんはスンを胸に抱いてくれた。
翌日、スンはエーミアに連れられて城から出て行った。おばあちゃんはスンの着替えやベッドの入ったバスケットをエーミアに渡した。
二人が出て行ってしばらくして、おばあちゃんの部屋の戸を誰かが叩いた。おばあちゃんが窓を開けると王様が立っていた。おばあちゃんは言葉もなく、王様を見つめる。
王様はどう切り出して良いかわからない顔をして黙っていたが、口を開いた。
「先日、私に花を届けてくれた者がいた。礼が言いたいのだが、名前を残していない。豆ほどの、足跡のようなものがあったのだが存じないだろうか。」
おばあちゃんは驚いて開いた眼を細めて笑った。
「私の知っている娘かもしれません。ついさっき出て行きましたが、靴があるので、確認なさってください。」
王様がうなづいたので、おばあちゃんは後ろにいた二人の護衛兵士と一緒に小屋に招きいれた。




