その4
午後の紅は、斜めながら昏い光を大地に投げかけている。倉庫内の暗闇はうっすらと溶け、薄紅色に推移していくように感じられた。
誰ひとり、身動きはしなかった。
かぼそい少女の首を、背後からがっしりとした剛腕で捕えている筋肉質の女が、この場を支配しているといっていい。なにしろ、この正常な思考のもちぬしとはいえない筋肉女が、何をしでかすかわからないのだ。
少女の額には、苦痛の脂汗が浮いている。ラーミアがひとたび両手に力をこめれば、この少女の首は容易くヘシ折れてしまうだろう。
「――その手を離せ、ラーミア」
俺はどちらかといえば冷静な声で、そう呼びかけた。
勿論、内心はまったくそうではなかったが。
「駄目に決まってるだろう」
ラーミアは何がおかしいのか、くすくすと笑っている。正常な人間の笑いではなかった。先ほどまでゲロを吐いてのたうち回っていたくせに、随分と変わるものだ。
「こいつはお前と俺の問題だ。その少女は無関係だろう。――すぐに解放するんだ」
「そうはいかないね。このガキの代わりに、お前がその身を差し出すんだ」
「……わかった。俺をボコボコにしたいって言うなら、好きにすればいい。だが、エルセラは解放しろ」
「わかってないねえ、ダイスはオレが握っている。お前に決定権なんて何もないんだ。オレの言うとおりにするしか、道はないんだよ」
俺の額から、焦りの汗がにじんだ。俺は本気で、ラーミアに対して怒っていた。この女に大切な仲間を傷つけられたからだ。
しかし、それでもどこかに配慮があったのではないかと思う。われながら、ちょっと甘い闘いぶりだったかもしれない。
何故なら、俺はこの大女の顔面に、拳を放っていない。
打撃はボディへ集中し、頭部へは蹴りしか放っていない。完全に道場の組手のような戦闘スタイルになっちまっていた。
怒りながらも、心の奥底では、女性の顔面を陥没させるのに抵抗があったのだろう。それで、このざまだ。怒りが足りなかったのではないか。そういう疑問が鎌首をもたげる。徹底的に正拳で顔面を破壊しておけば、このような隙を与えることもなかったのではないか。
――いいや、そいつは違うと、もうひとりの俺が首を振っている。
闘士である前に、俺は武道家なのだ。
おのれの道に反する行為はできない。
俺のそうした葛藤など知らぬげに、ラーミアは愉しそうだ。苦しげなエルセラとは対照的に。
少女の両足は地から離れている。子供相手だというのに、ラーミアは容赦なく、スリーパーホールドで彼女の細首を絞めつけている。エルセラが窒息死をまぬがれるには、両手でラーミアの剛腕にぶらさがるしかない。
「ふふふ、ちょっとした絞首刑台みたいだね」
「もうやめろ。それ以上、関係ない女の子を苦しめるな」
「そうだね、それじゃ要求といこうか。――おい、そこのガキ。奥からお前を縛っていたロープを持ってきな」
「い、いやです」
ソルダが抵抗の気配を見せると、ラーミアは少女を締め上げたまま、左右に揺らした。エルセラの両足が、風に揺れるブランコのように、力なく左右に泳ぐ。選択の余地はなかった。
「ソルダ、いうとおりにしろ」
「……わかりました」
ソルダは奥へと姿を消し、やがて2本のロープを手に携えてきた。ロープの長さは中途半端だった。おそらくは、グルッグズが刃物で切断したものだろう。
次なるラーミアの要求は、ソルダにエルセラの両手両足を縛らせるというものだった。ロープの長さは、大の大人を縛るには足らないが、か細い少女の両手両足を縛るには足りそうだ。
俺はこの瞬間を待っていた。
エルセラを救出する隙はこの時しかない。だが、ラーミアは少女の首を解放しなかった。窒息死しないよう、エルセラの両足を床へ降ろすが、それだけだ。
「さあ、この状態で両手両足を縛りな」
「なぜ、子供を解放しない?」
ラーミアは嘲るように哄笑すると、
「眼を見りゃわかるよ。お前はこの両手を放したが最後、すぐさますっとんできて、オレの顔面を蹴り飛ばすつもりだろ? 奥にいるジジイも危険だ。オレとしちゃ、2対1なんて不利な状況で闘うつもりはないからな」
「さっきは、1対1だったはずだ」
「誰が口答えを許したんだい?」
ラーミアが、わずかに両手に力をこめる。それだけで、エルセラの顔が紙のように白くなっていく。わかった、もう充分だ。俺は降参するように、両手を上げてみせる。業腹だが、少女の体力が気がかりだ。いまはこの女の筋書き通りに動くしかない――。
そう、俺が考えた矢先である。
エルセラの首を締めあげるラーミアの腕に、先程まではなかった何かが生えている。なんだこれは。それは、どこかで見た短剣の柄であった。
一瞬だけそちらを見る。
そこには夕闇を撥ね返すような、メルンの笑顔があった。
「忘れたね。あたしも、いるってこと」
「て、てめえ――!」
ここでラーミアは巨大なミスを犯した。よほど慌てたのだろう。刺さった短剣を、腕から抜こうとしてしまったのだ。
つまりどうなるかというと――極まっていたスリーパーホールドのロックが外れる、ということだ。
「メルン、お前は最高だ!」
笑みとともに、俺の身は宙を舞っている。
助走をつけ、少女の頭上を超え――
ラーミアの顔面めがけ、ブルース・リーさながらの跳び蹴りを放つ。無論、こいつでラーミアをやっつけようなどとは考えていない。
俺は二者択一を迫ったのだ。
こいつを食らうか、それとも避けるか。
もしラーミアが、エルセラを盾にするという手段を採れば、俺としては楽だった。腕の刃物を引き抜いた直後、さらに少女を前面に押し出す。2アクションが必要になる。
それより、俺の飛び蹴りのほうが速い。
その選択をしてくれたなら、奴の顔面に、俺の全体重を乗せた蹴りが炸裂していただろう。そいつは最高の愚策だ。だが、ラーミアは回避した。
つまりはエルセラから距離を取ったということだ。
ふたたび少女の身体を捕えようとするラーミアだったが、時すでに遅しというやつだ。次の瞬間には、敏捷すぎる老人が、少女の安全を確保している。
さあ、またしても1対1の局面だな。ラーミア。
「ちいっ」
焦ったラーミアは、さらなる愚行を重ねた。メルンが投げた短剣を、凶器に使おうとしたのだ。おいおい、お前は自分が習得した拳法ほど、短剣術に精通しているわけじゃないだろう。慣れないことはするもんじゃない。
修練に修練を重ねた拳のほうが、俺ははるかに怖い。
お前は自ら、そのイニシアチブを放棄したんだ。
思った通り、彼女は短剣に意識を集中しすぎるあまり、他のすべてが疎かになっていた。こうなれば、もう俺の敵ではない。
不慣れな短剣の突きを手で払い、俺は水月に前蹴りを突き刺す。彼女は身体をくの字に折り曲げ、手から短剣を落とした。
俺は止まらない。両手を組み、ラーミアの首根っこを掴んだまま、膝の連打を繰り出す。狙いはボディだ。一度効かされた腹筋は、そう簡単に回復しないものだ。
そこへ、膝の連打を放つ。さらに放つ。
奴が倒れて逃れようとしても、俺の首相撲はそれを赦しはしない。強引に位置を固定したまま、膝地獄は続く。自分の犯した罪の大きさを、こいつで理解するんだな。
俺は、体力の続く限り、膝蹴り地獄を続行した。やつの顔は、もうヘドと鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。もういいだろう。
ヘドを吐きすぎて、もう胃液しか出なくなったラーミアを、俺は解放してやった。彼女はまるで根本から断ち切られた大木のごとく、ゆっくりとその身を倉庫の床へと沈めた。
俺は残身の姿勢のまま、やつの動きを観察した。
膝をあれだけ入れてやったのだ。かなりの苦しみのはずだが、ラーミアは細かく痙攣するだけで一言も発しない。死ぬ寸前まで追いこんだつもりだ。しばらくはお粥でも啜っているんだな。
「グルッグズ、エルセラの様子は――」
「だいぶ弱っておりますが、少し休めば大丈夫でしょう」
俺が安堵の吐息を漏らしたときだった。
メルンが息を呑む音が聞こえ、俺はゆっくりと振り返った。
産まれたての小鹿のように、痙攣するように身を起こすラーミアが立っている。呆れた女だ。もう、戦闘能力は皆無に等しい。ただ、木偶のように立っているだけだ。
「どうして、そこまでする?」
「駄目なんだ。オレは――」
「――――?」
「姉さんを馬鹿にされたまま、終わるわけにはいかないんだ。オレは、姉さんに恩返ししなければならないんだ……」
「どういうことだ」
「お前にはわからないだろうさ。オレたち姉妹がどれだけの泥水を啜ってきたか。姉さんはオレを食わせるため、汚い大人どもに身を売ることまでしたんだ」
「それが、今回の犯行の動機か」
「お前にはわからない――」
彼女の独白を聞きながら、おれは憂鬱だった。いくら憎い犯罪者とはいえ、これ以上、女を痛めつける気にはなれない。だが、ラーミアは止まるつもりはなさそうだ。
――死ぬまでやらねばならんのか。
そう考えていた矢先である。
倉庫内に、新たな靴音が響き渡った。また誰かがやってきたのだ。
「もう止めるんだ――ラミ」
ラーミアの両眼が、驚愕に見開かれる。
そしてこの俺も、驚かざるを得ない。
「姉さん。なぜ、ここに――?」
俺たちの傍に歩み寄ってきたのは、ここにいるはずがない人物。『白い牙』の幹部のひとり、レミリア・ロックアイだった。
かなり遅くなってしまい申し訳ありません。
その4をお届けします。
次話は月曜を予定しております。




