その1
涼やかな風が音もなく、俺ともう一人の闘士の隙間を吹き抜けた。風鈴でも吊るしておけば、さぞかしいい音で鳴ることだろう。
風はもう一箇所で吹いている。
荒涼とした風が、俺の内部で渦を巻いていた。ちらつく少年の泣き顔を、俺は追い払うことにつとめる。ラーミアが何を企んでいるかは分からない。しかし、エルセラの言う通り、やつは再び俺に対し、なんらかのアクションを起こすはずである。
俺には待つことしかできない。
ならば、今できることをするだけだ。一歩ずつ、勝利を重ねていくだけだ。それに向こうには、メルンがいる。――メルンは強い。ともにパーティーを組んだ俺は識っている。彼女の魔法の破壊力は尋常ではない。きっと、彼女ならソルダを救ってくれるはずだ。
俺はそう信じて、視線を目の前の闘士へ向ける。
先ほど俺と熱戦をくりひろげていたローダンと、もうひとりの闘士が強制的に砂塵から退去させられ、俺とその闘士は、この広闊な砂塵におけるただふたりだけの存在となった。
「Aブロック最後の闘いは、ボガード、ケリドアン、2名の争いとなった。最後まで立っている者が、このブロックの優勝者となる。それでは、闘いをはじめよ」
俺とケリドアンは、四歩ほどの距離をおいて対峙した。
ケリドアンは、赤い長髪が印象的な男だった。
この男と俺のどちらかが勝者となり、どちらかが進行役に引きずられて無様に退場する。それだけだ。大まかな結果は決まっている。ただ、そのどちらかが勝者となるのか。それをこれから、拳と拳、脚と脚、たがいの有する武器のみで決めようというのだ。
ケリドアンが勝ち残ったのは、意外だった。
事前に、最後の相手となるだろうとエクセラから聞かされていたのは、巨漢のグリズリーという男だったからだ。予想屋の予想を裏切るダークホース、どんな技術を持っているのか、詳しくは聞いていない。そいつはこれから肉体で探っていくしかない。
対峙して実感する。――ケリドアンは、小さい。
もっとも、そいつはこの大会に出場している選手の基準でのはなしである。身長は175は超えていようから、フランデル王国の平均よりは高い。
それでも、俺と拳を交えたほとんどの闘士は、180をすこし上回るおれよりはでかかった。俺はちょっと攻め方を考え――実行した。
左ジャブからだ。そして、相手の前脚を狙ってのロー。
小兵の闘士は、総じて小回りが利く。
それは空手の世界でも同じである。だから俺は、最速のコンビネーションで様子をみるつもりだった。そして案の定、ケリドアンはそのいずれもかわした。
ローキックに至っては、右構えから、左構えにスイッチして前脚を切り替えるという小憎らしい避け方を披露して見せた。ほうと感心する暇も与えず、やつは素早く俺のふところに飛び込んできた。
拳の雨が、俺のボディへと咲き乱れる。
俺はガードを下げて、それに対応する。しかし、一撃一撃が重い。本当に小兵なのかと思われるほどの威力を秘めた連打だった。
その拳から伝わるのは、この男の限りない克己心であった。ケリドアンの日常が、俺には透けて見えるようだった。
この大会に出場している選手のほとんどが、かなりの巨漢である。この大会の問題点は、階級制というものが存在しないという点にある。俺たちの世界の闘いと、この世界の闘いのもっとも大きな相違点というのはそこだろう。
例えば、身長190以上で体重100キロの闘士と、身長170、体重70キロぐらいの闘士が闘えばどうなるか。よほどの大きな技量差がない限り、大きい方がほぼ確実に勝つだろう。体格差というのは、それだけ大きな武器なのだ。
大きな闘士が、ひたすら巨大な拳を振り回せば、ガードの上からでも効く。一方、小さな闘士は的確に急所を貫かぬかぎり効かない。
このケリドアンという男は、その体格差というものに、幾度も涙を呑んできただろう。それでもこの男はあきらめなかった。おそらくは人の数倍も、練習に打ち込んできたのだ。
自らが流した汗だまりに溺れながら、それでも立ち上がり、再び練習を繰り返す。そんな毎日をおくってきたに違いない。
拳はうそをつかない。
この男の練習量が、拳のひとつひとつに籠められている。
こんな男と道場で切磋琢磨できれば、きっと楽しかっただろう。しかし、俺とこの男は敵同士なのだ。俺はこの根性の塊のような男を倒さねば、前へ進めないのだ。
俺はケリドアンの拳の雨に押されつつ、刻を待った。
雨は永遠に降り続けることはできない。いつかはやむ時が来る。俺はそれをひたすら待った。だが、この男は生半可な鍛え方をしてはいないようだ。
呼吸を忘れたかのように、ひたすらこの男は拳を振るいつづける。まるでそれのみが、己の存在理由だといわんばかりに、ケリドアンは殴りつづける。
おそれいった奴だ。泳ぐのを止めることができぬ回遊魚のようだ。俺はこの男に、心のなかで喝采を送っていた。
ケリドアン、まちがいなくお前は強い。
だが、俺とてここで負けるわけにはいかないんだ。
俺は強硬手段に出た。ガードを解いて、無邪気に正面から組み付いたのだ。当然、がら空きの胴に何発かいいのが入ったが、めちゃくちゃ痛いだけだ。意識を刈り取られるほどの苦痛じゃない。顎先に入れば気絶していただろうが、やつの拳はそこまで機転が回らなかったようだ。
その両手を攻撃に回したために、奴は受け身をとりそこね、俺の放った払腰をもろに食った。選択を誤ったな、ケリドアン。
背中から、仰向けに堅いアリーナに叩きつけられたやつは、痛みに悶絶している。俺のにわか仕込みの投げじゃ、下手糞な一本は取れても、勝利を奪うことはできない。
投げのバランスが崩れて、おれはアリーナに両膝をついていた。この状況で、何をするのが最適か。考えるより先に、身体が動いている。
仰向けのケリドアンの左腋下に身を置くと、おれはやつの頭部と左腕を巻きこむように、両腕で締め上げる。――肩固めだ。
力任せに極めようとしても、極まらない。
隙間をなくして、首を圧迫していくのが肝だ。要領としては三角締めに近い。しかし、胴着がないと、汗で滑ってうまく極まらないな。ケリドアンの暴れ方も尋常ではない。
やつの呼吸が消えそうになった瞬間が何度かあった。
だが、この男はエビのように暴れまわり、なかなか極めさせてはくれない。このままでは、互いに力を浪費するだけだ。
俺は作戦を変更し、最小限の力で、やつの無駄なあがきを誘うことに終始する。慣れないディフェンスを強いられると、とてつもなく体力を消耗することを、俺は実体験として理解していた。
立ち技のときは、無限に思われたケリドアンの体力が、徐々に枯渇していくのがわかる。そろそろ、好機のようだ。
俺は締めを解いて、立ち上がった。
遅れてケリドアンも、ふらつきながら立ち上がった。
その、立った相手の顔面に向かって、俺はすぐさま右ストレートを延ばした。奴は当然のごとく、右手でパリングする。そのぶつかり合った腕と腕が、致命的なブラインドを形作る。
一陣の風が、俺たちの間に駆け抜けた。
奴はふたたび仰向けに倒れた。
今度は、棒きれのように、真後ろに倒れた。その後、身動きひとつしない。先ほどまで熱狂していた観客は、急速冷凍されたかのように静まり返った。
「……し、勝者、ボガード殿」
立ち上がる気配もないケリドアンを見て、遠慮がちなアナウンスが俺の勝利を告げる。数秒の時を経て、観客はふたたび爆発するような喝采をあげた。
さすがに、簾は識らなかったようだ。
――簾。伝統派空手によく見られる技だ。
最初に延ばした右腕で相手の視界を奪い、死角から右のハイキックで撃ち抜いたのだ。キックの世界でも、ランバージャック・ピーターなどが愛用している技でもある。
さすがにケリドアンは、Aブロック最後の相手にふさわしかった。強かった。本当は使いたくない技だったのだが、温存している余裕はなかった。
対アキレスのため、隠していた秘密兵器だったのだ。だが、こいつを使わなければ、このタフな男は倒れてくれなかっただろう。俺はもっと消耗を強いられていたに違いない。
これで、アキレスもこの技を識っただろう。
俺は一礼を残して、傾斜路へ向かって駆けだした。
「ボ、ボガード殿? これよりAブロック制覇を祝して、王よりねぎらいのお言葉が――」
「すまない。そいつは、優勝した後にまとめて頂戴するよ」
俺はもう一礼して詫びを入れると、アリーナを後にした。仕合に遅れてきた上に、王からのねぎらいの言葉も無視する。たぶん、俺の心証は最悪だろうな。
だが、いまの俺には、もっと大切なことがあるんだ。
傾斜路を降りると、自分たちの出番を待つ、Bブロックの闘士たちと遭遇した。耳馴染みのある声が「いい勝負だったな」と、俺をねぎらう。
アキレスだ。やはり、見られていたようだ。
俺は、「ありがとうよ」だけ応えておいた。
それよりも、探すべき人物がいる。俺は地下通路にこだまするような大声で、エルセラの名前を叫んだ。すぐに応えがあり、変な兜のような帽子をかぶった少女が駆けてくる。
「――ボガード、来たよ、二通目が」
「ああ、さっそく見せてくれ」
手渡されたその紙片に、おれが眼を落すより先に、エルセラは素早くもう一枚の紙片を差し出してきた。
「それとね、三通目も来たんだけど――」
「なんだと。小分けにするとは、随分おかしなことをする」
「それが、こっちは差出人が違うみたいなの。変な、白い鳥みたいなのが落としていったんだ」
「――メルンからか」
俺はその紙片も受け取り、ほぼ同時に両方を開いた。
そこには――
新章突入です。
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