その8
広い酒場に満ちていた喧騒は、凪のごとく静まっていた。店の者が制止に訪れないのはなぜだろう。俺は不思議だったが、闘士どうしの戦闘に巻き込まれたくないのが本音なのかもしれない。
そうだ、こいつはただの荒くれ者同士の喧嘩ではない。
一級の技術をもったファイター同士の争いなのだ。
バーダックとラーミア。両者の間に満ちた剣呑たる空気は膨張するがごとく大きくなっていく。それはもはや、収束不可能な地点にまで高まっているようであった。
最初に沈黙を破ったのは、ラーミアの右拳であった。
閃光のように最短距離で放たれた右ストレートは、真っすぐバーダックの顔面に向かっている。それをバーダックは容易く左のパリングで外へはじく。
バーダックはそのままパリングの左拳を戻すことなく、延ばした。
カウンターの左ストレートだ。
基本に忠実で、奇麗なボクテクだ。背後でその攻防を見ていた俺は、思わず感嘆の声を漏らしていた。予期していなかったのだろう。ラーミアはかろうじて首をひねり紙一重でかわす。
好機だったが、バーダックは深追いしない。
剣を鞘に納めるがごとく、左拳を戻し、ガードを固めている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ――」
「どうした、アンちゃん。腹でも痛えかい?」
バーダックは目線を切らずに、洒落た言葉を返してきた。
俺は正直に言って、困惑していた。せっかくこのバーダックという強敵を倒し、勝ち残ったのだ。できることなら、彼の分までトーナメントを勝ち上がりたい。
ならば、ご法度という、闘技場以外の場所で私闘を行うわけにはいかないだろう。グアランと揉めていた時と事情が異なる。
しかし、バーダックは、俺とラーミアの因縁には、まるで無関係なのだ。そんな彼に護ってもらうというのが、どうにも落ち着かなかった。
「関係ねえことはないさ」
と、バーダックは当然のような顔つきで応じる。
「関係ないだろうが!」と爆発するラーミアの声など、意にも介していない。
「アンちゃんが勝ち上がれば勝ち上がるほど、いい勝負を演じた俺の株も上がるってなもんさ。だからこそ、アンちゃんはこんな詰まらない処で失格になっちゃ駄目なんだよ」
「詰まらない、だと?」
すうっとラーミアの顔色が変わった。陽に灼けた、浅黒い顔の表面から血の気が引いたように見える。
「オレの姉を侮辱したな……」
「いつ、ネエちゃんのネエちゃんが登場したんだ?」
「いまつまらないと言っただろう? オレの姉レミリアを侮辱しただろう?」
狂人の理屈は論理がぶっとんでいて、よくわからない。わからないが、バーダックがラーミアの地雷を踏んづけた事実だけは間違いなさそうだ。
「許せないよ、オレの姉を侮辱したことは――」
ラーミアの構えが変わった。それまで、バーダックのスタイルに合わせるように、両拳を自分の目線の高さにまで上げた、オーソドックスなスタイルであったものが、大きく変貌した。
半身になり、右足を前に、左足を後ろに下げている。
姿勢も低い。ぐっと前傾姿勢になり、両腕を前に突き出した格好だ。それにしても異形の構えだった。突き出した上下の拳は、まるで獅子の顎のように見える。あまりに独特な構えに俺は首をひねった。もしかして、中国拳法の十二形意拳の亜種だろうか。
「本当なら、コネ野郎の目の前で見せたくはなかった構えだが、そうも言ってはいられないようだからね――」
俺なら、念のために距離をとって様子を見るところだ。だが、バーダックにその選択肢はない。俺たちを背後にかばっているためである。
ならばと、バーダックは前に出た。
後ろへ下がれないならば前に――。実に、奴らしい選択だ。
バーダックが牽制のジャブを入れようとした瞬間である。ラーミアの貌に笑みが浮いた。かかったという笑みだ。彼女の両拳が意思をもったかのように動き、その拳を弾いたと見た瞬間である。
「そこまでにしてくれないか」
静かな、それでいて威厳のある重い声である。
声をかけるには、これ以上ないタイミングだったかもしれない。俺たちは、声の主を探した。そいつは酒場の入り口付近に立っていた。見間違えるはずもないスキンヘッドの壮漢。
優勝候補筆頭、アキレス・ギデオンだ。
「これから祝杯をあげるところだ。食事の席で、埃っぽいのは嫌いでな」
「あんたまで、オレの邪魔をしようってのかい?」
「あなたの事情など知らぬ。だが、俺の食事の邪魔をするなら、骨の一本、二本は外させてもらう」
「……そいつは、脅しかい?」
「脅しなどではない――」
アキレスは静かに首をふり、
「確実に訪れる未来だ」
はっきりと言い切った。
これには流石のラーミアも鼻白んだようで、例の不可思議な構えを解きつつ、
「さすがに邪魔が多すぎるな……」
と言い捨て、靴音荒く去っていった。
バーダックはひょうとかすれた口笛を吹き、俺の横で震えているソルダを安心させるように、愛嬌たっぷりにウィンクをひとつ投げてよこした。まったく、先ほどまで切れるような殺気を放っていた男とは思えない豹変ぶりだ。
「バーダック、感謝する。お前には借りを作ったな」
「なあに、イッシュクイッパンの恩だ」
「酒をおごっただけだ」
「なら、また逢う度に一杯おごってくれ。それでチャラだ」
「アキレス、あんたにも感謝する。ありがとうよ」
すでにそのとき、アキレスは杯を片手に、もう片手にトレイを持っていた。トレイには美味そうな食事が並んでいる。真の闘士たるもの、両手をふさぐような事態は避けなければいけないのだが、この男にはそんなセオリーは関係がないのかもしれなかった。
「なに、食事は静かに、が俺のルールだ」
彼はそのまま、手近の丸テーブルに腰を降ろすと、静かに瞬く一等星のような眼で俺を見返して、こう警告してきた。
「せいぜい、気を付けることだ」
「――何のことだ?」
「あの手の人間は、常識というタガをいともたやすく外してしまう。そうなると、誰も手が付けられなくなる――」
「そうだな」
「風呂だろうが、トイレだろうが、独りになることは避けるべきだ。どのような凶行に及ぶか、知れたものではない」
「こう見えても、俺は足が速いほうなんだ」
「――――?」
「奴の姿が見えたら、脱兎のごとく逃げだすさ」
「それが賢明だ」
アキレスは爽やかに笑い、食事に没頭し始めた。俺たちはすみやかに自室へと戻り、しっかりと鍵を降ろした。心配ではあったが、翌日の仕合のコンディションは造らなければならない。俺たちは、交代制で番をすることにし、俺は割り当てられた睡眠時間をしっかりと消化した。結局、ドアが突き破られるということはなかった。
それが、油断に繋がってしまったのかもしれない。
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翌日、俺は馬車に迎えられて闘技場入りした。前日は1ブロックに16人もの闘士がいたから、結構な馬車の列になっていたものだが、今やわずか4人である。
これが、今日で各ブロック1人になる。
それぞれの馬車から降り立った顔には、ある種の同じ決意がみなぎっている。「最後に立っているのは俺だ」という、強い決意である。
俺の貌にも、それは浮かんでいるのだろう。地下へ降り、いくつもの部屋をくぐりぬけて、俺は闘士の衣装に着替えた。その際、軽く身体を動かして、全身の状態をチェックする。
身体には軽い疲労があるが、ファイトに影響するというほどのものではない。緊張感はあるが、高揚感もある。
俺はAブロックの仕合だから、すぐに出番がある。
対戦相手はすでに決まっている。名はモーリー・ローダン。同じブロックの選手は、ほぼ同時進行で仕合が行われていたので、技はほぼ、見てはいない。
だが、そこまでの強敵ではないと、すでに前日の雑談のなかで、情報屋エルセラから聞き出している。ローダンは、帝国から来た傭兵ではない。生粋のフランデル王国の闘士であるという。
徒手空拳がさかんではないというフランデル。いってみれば、カミカクシを経由していない、この国独自の技術を体感する好機でもある。
俺が出番を待つあいだ、柔軟をして緊張をほぐしていると、一風変わった帽子をかぶった少女――エルセラが向こうから血相を変えてすっ飛んできた。
「た、大変だよ、ボガード」
「どうした、大変なのはこれからだろう」
「仕合のことじゃないよ、これを見て!!」
そう言って彼女は一枚の紙片を俺へとよこしてきた。たった一行。この国の文字で殴り書きにされている。メイにつきっきりで教えてもらって、俺にもある程度の文字は読める。
紙片には、こう書かれてあった。
『――少年はあずかった――』
「な、なんだと――!」
俺は思わず、声を荒げていた。これだけでは、何のことかわからない。いや、先程『水を汲んでくる』と駆けて行ったソルダが、一向に戻ってこないことに遅ればせながら気づいた。
「ソルダを見なかったか?」
エルセラは首を横に振った。「ただ」と前置きを添え、
「この紙片は、さっき見知らぬ男の子から手渡されたの。誰からだと訊くと、筋肉質の女の人からだって。男の子は『文章の内容は知らない。ただ、小銭を渡されて引き受けただけ』だって」
「……ラーミアか」
ここまでやるか、という思いだった。
俺への復讐で、何の罪もない少年を巻き込むのか。俺は怒っていた。いま俺の腸を裂いてみれば、怒りでぐつぐつに煮えたマグマがあふれ出すだろう。
「ボガード選手、出番です――!!」
進行係の声が、苛立ったような声で俺を呼んだ。傾斜路に、人の姿はすでにない。他の3闘士は、すでにアリーナへと昇って行ったようだ。
俺は、怒りと同時に、また戸惑っていた。
少年がどこに拉致されたのか、その行方もわからぬのに、呑気に仕合などしてていいのか。今すぐ捜索へ出向くべきじゃないのか。
その葛藤で、俺は揺れていた――。
『トーナメント開始』その8をお届けします。
次話は翌月曜日を予定しております。




