その5
大理石でできたアリーナの壁面の上に、たくさんの観客の笑顔が並んでいる。この鮮血に彩られた心おどる見世物を、心の底から満喫している笑顔だ。俺はそれを、気味が悪い思いで逆に眺めかえした。
『アリーナの清掃人』の仕事ぶりは迅速だった。倒れている男たちは砂塵の海わたる船のように、両手両足を持って引きずられていく。
当然、それはバーダックもそうだった。このタフガイは、一瞬立つそぶりを見せたが、結局は清掃人に運ばれる道を選んだ。
敗者は立って出ていくことも認められないらしい。
他の観客席より一段高い、王の座る席には、傲然とした厳めしい双眸が、残った俺たちを見つめている。その眼は、まるで活きのいい魚を値踏みする仲買人のようだ。
熾烈な闘争を勝ち抜いた、俺を含めた4つの顔に緊張が走る。
王が再び争えと命じれば、俺たちに断る理由は何もないからだ。
とはいえ、インターバルなしで3連戦は、さすがの俺も辛い。組手と違って、実戦の消耗度たるや半端ではない。緊張感による精神的、肉体的疲労がまるで違うのだ。
「戦士たちよ、実に天晴な闘いぶりであった」
王がねぎらいの言葉を述べる。しかし、油断は大敵だ。
「諸君の次の試合であるが――」
息を呑む音がした。
「……明日、2連戦を行って、Aブロック代表者を決める。それまで、心身を休めておくがいい——」
王の寛大なる措置に、3人の男たちは片膝をついて礼をほどこす。おれは半瞬だけ遅れて、彼らの真似をした。動きが遅れたのは理由がある。古代の闘士ではなく、現代のファイターである俺には、この措置が当然の判断のように思えたからだ。
そもそも、空手の試合時間は基本が3分なのだ。俺たちはあんまり長時間連続で闘うようにはできていない。――にも関わらず、俺がこのように長時間闘えたのは、傭兵という仕事に就いたのが大きいだろう。
俺はグアラン、バーダックとの連戦で、少なくとも20分を超える闘いを演じてきている。これ以上の闘いができないなどと弱音を吐くつもりはないが、はっきりと全身の倦怠感は感じていた。
連戦で、疲労の蓄積した身体で行う闘いなど、両者ヘロヘロのつまらない泥仕合になる可能性の方が高い。見世物としても退屈なものになるだろう。休息を与えるのは妥当な判断だと、俺は思った。
「居並ぶ4名の闘士に、喝采を——」
進行係の一声で、万雷の拍手が俺たちを包んだ。
まんざらでもない気分だ。全員の表情も緩もうというものだ。
それは俺も同じだった。なにより戻って、水が呑めるという点が最大にありがたい。20分も頭上から熱射を浴びたまま、屈強な男どもとくんずほぐれつの死闘を演じれば、自然とそうなるというものだ。
俺たち4人が傾斜路を通って地下へ降りると、武装控え室で待機していたBブロックの闘士たちが、入れ違うように傾斜路をゆっくりと駆け上がっていく。そのうちの1人、ただならぬ雰囲気をまとった壮漢が、俺の耳にだけ届くように小さな声で「いい仕合だった」と、ねぎらいの言葉を置いていった。
アキレスだ。やはり、風格が違う。
「――お疲れ様でした、師匠!」
俺は少しの間、呆然としていたようだ。
いつのまにか足元にいたソルダのきびきびした声で、ハッと我に返る。俺は少年から革水筒を受け取ると、そいつの中身を一気に飲み干した。
うまい。
ただの水が、これほどのうまさを感じる瞬間はない。俺はソルダのやわらかな髪の毛を撫でて礼を言うと、こう付け足すことも忘れない。
「しっかり、仕合は見ていたか?」
「はい、この眼でしかと。――やっぱり、師匠が最強です」
「そいつを決めるのは、これからさ」
この少年の声——。俺が初戦で狼狽えていたとき、ソルダが俺の目を醒まさせてくれたことを忘れてはいない。どうやら、俺はいい弟子を持ったようだ。今はあいにくと立て込んでいるが、アコラの町へ戻ったら、ちゃんと稽古をつけてやらなければならないな。
「師匠、これから宿へ戻りますか?」
「いや、この眼で見ておきたいものがある」
当然ながら、アキレスの闘いぶりだ。優勝候補筆頭と言われているが、俺はやつの会得している技術を、なにひとつ目にはしていない。
対するやつは、俺の技をじっくりと観察できただろう。
研究を怠ったやつが、勝つなんて道理はない。しっかり見て学ぶことだ。そう思い、俺は地下を走りまわる裏方をひとり捕まえると、もっとよく闘士が見える場所がないか問うた。
「教えられません――」
返事はにべもなかった。とはいえ、ここからの限定的な眺めだと、どうしても遠くの動きが見えない。俺がさらに言葉を重ねようと口を開きかけたときだった。
「無駄だよ、そいつ。下っ端だもん」
「なんだ——?」
若い女性の声に、俺はおどろいた。
ラーミアという女性ファイターが招聘されているのだ。アリーナが女人禁制というわけではないが、こんな薄暗い地下室に、女性が働いているなんて思いもよらなかったのだ。
声の方角を見ると、背の低い女性が俺を見上げていた。身長はソルダより少し高いぐらいだろうか。女性というよりは女の子だ。怪我予防のためだろうか、兜のような見た目の帽子を頭にかぶり、その隙間からアリーナの黄砂のような、くるくるとした髪の毛がのぞいている。
「あー、予想屋、また勝手に入ってきて!」
「うるさいよ、下っ端。こっちはちゃんとゼニは払ってるんだ」
小さな舌が、下っ端と呼ばれた男を嘲弄するように踊る。
俺は予想屋と言われた少女に向き直り、
「どこか、いい場所があるのか?」
と、訊いてみた。
「んー、本来なら、金をとるところなんだけど」
少女は意味ありげに含み笑いをすると、
「いいや、あんたには結構稼がせてもらったし」
と笑みを浮かべて、素早く背中を向けて歩き始めた。
「はやく来なよ、気が変わらないうちにさ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
円形闘技場は複雑であり、様々な仕掛けが存在する。地下のエレベーターであったり、壁面から猛獣が飛び出す仕組みだったりと、観衆を退屈させないための、王国の叡智があらゆる場所に詰まっている。
俺たちはアリーナの壁面に設置された仕掛け扉の一部に陣取り、その窓からアリーナの様子を眺めている。
「この仕掛け扉は今日は使われない。だから隠れることができるってわけ」
「ほう、そうか、お前は情報通なんだな」
「お前じゃないよ、エルセラって名前があるんだから」
「悪かったな、エルセラ。助かる」
少女は誇らしげに胸をそらせた。この歳で「予想屋」と呼ばれる仕事をしているのだから、さぞかし大変な境遇にあるのだろうに、少女はそんなことをおくびにもださない。俺のガキの頃に比べりゃ、立派なものだ。
「戦闘、はじまってるよ」
おっといかん、そんなことを考えている時間はない。俺はすぐに目でアキレスの姿を探した。果たして奴の巨きな背中はすぐに捉えることができたが、わずかに遅かったようだ。
「終わっているね」
「そのようだ」
奴の足元には、耳障りな声を上げて悶絶する男が砂にまみれ、苦しんでいた。他の連中はまだ闘っているところを見ると、勝負はわずかな時間でついたと考えるべきだろう。
相手の男が弱すぎたのか、それともアキレスの実力が抜きんでているのか——考えるだけ無意味だ。王は次の仕合も命じるはずだから、そいつを確実に視るしかない。
それから体感にして10分ほどの時間が流れ、すべての仕合の決着がついた。あとは、同じ流れである。王が命じるまま、次の組み合わせが進行係の口から発せられる。
「アキレス対ガレンザイル――」
声と同時に、両雄は向き合った。
両者とも、身長はほぼ変わらない。身体の厚みもそれほど差がないように見える。先に動いたのは、ガレンザイルと呼ばれた男だった。やつはアキレスの顔を目掛け、牽制のジャブを放った。
その刹那だった。
ガレンザイルの腕に、何かが巻き付いている。
と思う間もなく、ガレンザイルの巨体はまるで竜巻に巻き込まれた小枝のごとく旋回し、もう次の瞬間には、背をアリーナに接している。
俺は眼を瞠った。
すでに、アキレスは腕ひしぎ逆十字に男を捕えていた。
その流れの俊敏さたるや、バーダックとは比較にもならぬ。
「降参するか?」
冷静に、しかし冷酷に、アキレスは訊いた。
ガレンザイルは無言のまま、必死にその状態から逃れようと暴れはじめた。だが、関節が完全に伸び切った状態での脱出は、ほとんど不可能に近い。
パキッと手羽先を折るような音がした。
むろん、幻聴だ。この距離、大観衆の声援、ここまでその音が響くとは思えない。だが、俺の耳には確実に聴こえた。その残酷な音が――。
「――うぎゃあああああああああああっっ」
今度は確実に、ガレンザイルの悲鳴がアリーナの大気を裂いた。
俺は悪夢を見ているのかと思った。
先ほどと寸分変わらぬ光景が、俺の目の前にあった。
またしても奴の足元に、砂にまみれた男が苦悶にのたうっている。
アキレスには、何の表情も浮かんではいない。まるで冷徹な殺人マシンのように、奴は泰然と空を眺めていた。
『トーナメント開始』その5をお届けします。
その6は木曜日を予定しております。




