その4
一瞬の出来事だった。
握手した手首を両手でねじられ、そこを起点に、腕全体をスクリューのように逆側に巻き込むように極められている。微動だにできない。全身から苦痛の汗がにじむ。バーダックは巻き込んだ肘へと全体重をあずけ、俺の腕を逆方向へねじりつづける。
——こいつは、腋固めだ。
プロレスで有名な技だが、合気では六教、柔道では腕挫腋固と同じような技がある。こいつのルーツはどこだ。やはりカミカクシから伝授されたものだろうか。
そんな暢気なことを考えている暇はなかった。
腕を逆にねじられた今の俺は、完全に死に体だ。
このまま痛みに引きずられて、アリーナに接吻してしまえば、こいつは完成してしまう。この状態から逃れるには、ひとつしか方法がない。
俺は前転して、苦痛から逃れた。
だが、バーダックは笑みを浮かべて、仰向けに伸びた俺の腕を、腕ひしぎ逆十字固めに切ってとった。セオリー通りの連続技である。
この流れは、俺も識っている。
だから俺は、すぐに自身で握手するように両手をフックし、腕を延ばされないように防御する。そのフックを、強引にパワーで伸ばそうとするバーダック。
この攻防は、俺の方がはるかに劣勢だ。
俺は両腕だけでこの状態を維持しているのに対し、バーダックは体重を後ろへあずけることで、何倍もの負荷をかけることができる。じりじりと手のフックが、汗で滑りはじめる。
このままじゃ、ジリ貧だ。
いや、負ける——
こんな処で。
全身が総毛だつような恐怖が俺を掴んだ。
腕がへし折れても、闘い続けることはできよう。
そいつがいかに無意味なことか、俺は本能で理解していた。そこいらのチンピラ相手なら、利き腕を殺された状態でも、勝つことは不可能ではない。
だが、王国最強を決めるトーナメントに出場するような男を相手に、片手で勝つことができるだろうか。無理だ。
「くううっ——」
俺は、イチかバチかの賭けに出た。
バーダックは仰向けの俺の腕を引き延ばさんと、フックした腕を両手でつかんでいる。やつの足は自然と、俺の喉元と、胴へ投げ出すような格好になっていた。
その、胴へと投げ出された足へ、膝蹴りをぶちこむ。
ただの悪あがきの膝ではない。長年鍛えに鍛えぬいた、凶器ともいえる硬さを誇る膝蹴りだ。こいつを食らって平気な顔のできる男などいないはずだ。
俺は、バーダックの顔を見た。
案の定、やつの表情は苦悶に歪んでいる。
ずるっと、手のフックが滑った。
膝蹴りに神経を集中すると、どうしても手のフックが緩まってしまう。だが、ほかに俺には方法がない。こいつは我慢比べだ。どちらが先に屈するか、勝負だ。
ぐいぐいと腕を延ばそうとするバーダック、やつの足をへし折らんばかりに膝を連打する俺。傍から見れば地味で滑稽で、その実、深刻な攻防がつづいた。
「クソがあっ!」
先にしびれを切らしたのは、果たしてバーダックの方だった。
やつは去り際の駄賃とばかり、俺の顔面を蹴り飛ばして立ち上がった。俺は横へ転がるように距離をとって立ち上がる。
蹴りで口の中が切れ、口の端から血がしたたる。
だが、腕が折れる代償としては、遥かにマシな方だ。
俺たちが同時に立ち上がったことで、観客がどっと沸いた。
一般人は訳の分からない地味な関節の攻防より、はるかに立ち技の方を好む傾向がある。この世界の観客も、どうやら例外ではなさそうだ。
バーダックは、今度は両拳を持ち上げ、でかい図体を揺らしはじめた。やつのたるんだ腹が上下に踊っている。フットワークを使っているのだ。
この男、ボクシングもできるのか。
奴の左ジャブが、風を切って俺の顔面に迫る。
俺も同じように、軽いステップでやつのジャブをかわす。
バーダックは追ってきた。執拗なジャブからの右ストレート。
俺はスウェーバックでそれを見切り、反撃に転じようとした。その瞬間、いやな予感がして、俺は首をひねった。
俺の顔面スレスレを、やつの肘が通り抜ける。
右ストレートから腕を折り畳んで、エルボー。
ボクシングではない。ムエタイか。
いや、そうでもないようだ。俺がそう判断したのは、奴がパンチと肘を多用するにも関わらず、蹴りを一発も放たないからだ。
ムエタイは多彩な蹴りが主体だ。それを用いないなどということはありえない。ためしに俺は、ローキックを放つ。
この男は当たり前のように、脚を上げてブロックする。
蹴りの技術はないが、ディフェンスは識っているというわけだ。
俺は先ほどから、この男の技術系統を調べようとしていた。だが、この男にはそういうものなどないのかもしれない。そういう奴は、俺たちの世界にも存在していた。
ひとつの道場へ通って、ある程度技術を学んだら、また別の道場へ移って、別の技術を学ぶ。そういう連中はMMA選手などに多い。
むろん、この世界にMMAはない。無手の大会など、今回が初めてなのだから。
だが、この男の技術は高い。とても付け焼刃で身に着けたと思えない。
そんな俺の観察するような態度に業を煮やしたのか、バーダックは構えを解いた。くいくいと指先で俺を煽っている。
「こいよ、大将、ハデにやろうぜ」
「――そうだな、観察はここまでだ」
ここは俺とこいつと、どっちが強いかを決める場だ。
つまんねえ詮索はする必要がないのかもしれない。
俺はアップライトに構え、ジャブからのストレートを放つ。
バーダックも太い肉体を揺らして、それを華麗にかわしていく。
バーダックはパンチと肘の連続技を放ってくる。
そいつをかわし、俺は至近距離でのアッパーをくりだす。
当たらない。ぎりぎりでそいつをかわしたバーダックは、回転肘打ちを放ってくる。おいおい、そいつは俺の十八番だぜ。
俺は両腕でそいつをガードすると、返す刀でローキックを放つ。
当然のように、やつはそれを膝でブロックする。
俺とバーダックの拳が空を切り、ときに交錯する。俺たちの至近距離でのバチバチは続く。熱狂した観衆が拳を振り上げ、足を踏み鳴らしてアリーナを揺らす。
俺たちには、そんなことはどうでもよかった。
この男は間違いなく、強い。
グアランなどとは比較しようがない。
「愉しいよな、大将?」
バーダックが弾んだ息で、そう尋ねてくる。
「そうだな」
俺は短く応える。
ヒリヒリするような緊張感が俺を包んでいた。
久しく忘れていた感覚だった。おれはこの世界に落ちてきたことを、今ほど楽しんでいる瞬間はなかったかもしれない。
勝負の行方は混迷を極め、どちらか勝つかわからない。そう思っていたのも、中盤までのことだった。徐々にバーダックに、序盤ほどの拳のキレが失われていったからだ。
やはり、あの腹だ。いかにも不摂生な身体をしているバーダックは、長期戦を闘うスタミナが欠如しているのだ。
やつの息が上がっているのがわかる。
好機だ。弱点は、あのたるんだ腹しかない。
俺は奴の隙を窺っていた。その機は、すぐに訪れた。
バーダックが、俺の頭部への回し蹴りを、両腕で防いだからだ。ガードが上がり、隙だらけの胴がそこにある。
俺の右拳が、やつの胴を叩いた。
決まった。俺は勝利を確信した。幾人もの道場の後輩たちが、畳にヘドをぶちまけてきた俺の正拳が入ったのだ。悶絶するのは必至だった。
だが、奴は倒れない。
ぶよぶよで完全に弱点だと思っていたそこは、案に相違して、蚊ほどのダメージも与えていないようだった。
馬鹿な―—。おれは唖然とした。
それが隙につながった。奴はすかさず反撃に転じてくる。
拳か、肘か——
どっちでもなかった。
奴は、俺が思ってもいない反撃を見舞ってきた。
砂だ。やつめ、先ほどのグラウンドの攻防の最中に、拳に砂を握りこんでいたのだ。予想だにしていない展開に、俺は完全に視界を塞がれた。
すかさず、バーダックは俺の股間に手を回してきた。
しまった、金的か——
俺の全身が恐怖に膨れ上がった。だが、奴は俺の股間を握りつぶすつもりはなかったようだ。そのまま、股から片手で俺の身体を持ち上げ、もう片手で俺の後頭部を捕えた。
「食らいやがれ——」
俺の身体は、垂直に砂上へ叩きつけられた。
アリーナの歓声が津波のように空を満たしていた。
誰もが、この勝負の終わりを予感したことだろう。だが、そうはならなかった。
「やりやがったな……」
バーダックが、額から血を流しながら、ぼそりとつぶやいた。
「ああ、やったさ——」
どういうことか、観衆にはわからなかっただろう。
俺は投げ飛ばされる寸前に、頭上で、膝をバーダックの後頭部に突き刺したのだ。全神経をその攻撃に費やしたため、受け身は上手くとれたとは言い難い。
したたかに背をうちつけて、吐きそうなほど苦しかった。
バーダックは、まだ拳を構えて向かってくる。
だが、ダメージはかなり深刻なようだ。ふらふらだ。
俺はやつに敬意を表し、得意の大技を持って応えた。
胴廻し回転蹴り——。それは、後から聞いたところ、アリーナの観衆からは死神の鎌のように見えたという。
そいつが確実に、やつの顎先を捉え、平衡感覚を失わせた。
バーダックは、意識を手放すその瞬間も、数発、空へ拳を放っていた。
残身の姿勢をとりつつも、おそるべき闘争本能だと、俺は思った。
「勝者、ボガード殿——!」
俺は嘔吐をこらえて、片手を頭上へと掲げた。そんな俺の足元で、ささやくような声が聞こえた。幻聴かと思ったが、間違いない。バーダックの声だった。
「なあ、ボガード……」
「――もう、回復したのか」
呆れるほどタフな男だ。
俺が視線を落とすと、奴は悪ガキのような笑顔を向けてきて、こういった。
「どうだい、愉しかっただろう……?」
俺も同じような笑顔で、こう答えてやった。
「訊くまでもないことだろ、大将?」
『トーナメント開始』その4をお届けします。
次話は翌月曜を予定しております。




