その8
「てめえ、よくもやりやがったな!」
もうひとりの男が激高し、月並みなセリフととも殴りかかってきた。
だが遅い。
やつの拳が届くより先に、俺は鳩尾に前蹴りをお見舞いしていた。
「くかっ」
怪鳥のような声をあげて、男が床にのたうち回る。
俺はそいつに見向きもせず、残る最後のひとりを睨めつけた。
「さあ、残るはおまえだけだぜ」
「な、何者だ、てめえは――?」
「おまえの最初の対戦相手さ、いや、だったというべきか」
男はトーナメント表にあわてて眼をやった。おいおい、お前の隙だらけの側頭部が、俺には丸見えだぜ。だが、俺は自制し、男が俺の名を確認するのを待ってやった。
「てめえがコネのボガードって野郎か」
「ああ、だがその対戦表を見ても無駄だぜ」
「どういう意味だ」
「お前はここで再起不能になって、仕合には出場できないからだよ」
俺の胸中には怒りの感情が渦を巻いていた。だが、どこか冷静な自分が、慎重に、冷静に男との間合いを詰めている。
すでに男は俺の間合いに立っている。
一触即発の気配を察したのか、男は怒鳴った。
「俺の名はグアラン、ちゃんと王国から招待を受けてこの場に立っている」
「——奇遇だな。俺もだ」
「忘れたか、出場選手同士の仕合前の騒動はご法度だと」
「そういえば、そういう話だったな」
「わかったか、お互い出場停止にはなりたくないだろう」
「俺はかまわない」
「なんだと――?」
「俺は一向にかまわないと言ったんだ」
男は愕然とした表情で俺を見た。
「馬鹿じゃねえのか、てめえ。ガキをひとり小突いただけで、王国1になるチャンスをふいにするつもりだってのか?」
「俺の言葉は同じだ。俺は構わねえってな」
そうだ。一時の感情で、この男をぶっとばせば、せっかくの好機が無駄になってしまう。俺に期待を寄せて送り出してくれた『白い牙』の連中にも、恥をかかせることになる。
だが、それがどうしたというのだ。
あんな純真な子供を殴るような奴は赦せねえ。
俺を支配している感情は、ただそれだけだった。
「そこまでにしておくんだな――」
向かい合った俺たちの側面から、ぬっと巨大な岩が出現した。
スキンヘッドの壮漢、アキレスだった。
気配は一切感じなかった。これほどの距離の接近を許しながらも、だ。こういうことができる男は、俺の知っている限りは神田蒼月以外はいない。
この男は、蒼月なみの実力の持ち主なのだろうか。
俺はいったん、グアランとかいう男への打擲をあきらめ、ふたりに向かい合うように距離をとった。もっとも、無言で優位な場所に突っ立っていたアキレスが本気になっていれば、俺は致命的な打撃を受けていた可能性が濃い。見逃されたと思うべきだった。
「お前らのやりとりは、遠くからでも聞こえていたよ」
アキレスは呆れたように、ぼりぼりと頭をかく。
わざと隙を見せている。敵意がないということを示すためだろう。
「――話は大体のところは聞かせてもらったよ。グアランとやら、これはお前が悪いな」
「な、なぜだアキレスさん、殴りかかってきたのは――」
「殴りかかられたとはいえ、相手は子供だ。お前もこの大会に召集されるぐらいの実力者なんだろう? ブン殴る以外の対処法はあったはずだ」
「そ、それはまあ……」
うまいな、この大男。俺は素直に感心した。
巧みに相手の自尊心をくすぐって、会話を優位に進めている。
「ならばこの諍いは見なかったことにしよう。ボガードとやらもそれでいいな」
「俺はまだ、納得してはいない」
「トーナメント表を見ると、お前たちは一回戦であたるようじゃないか」
「そうだ」
「ならば、答えは簡単じゃないか。一回戦で、互いの怒りをぶつけろ。こんな観客がひとりのホールでし合うより、大観衆の前で答えを出せ。それが闘士というものだろう」
アキレスの言うことは、正論だ。どこまでも正しい。
だが、俺の怒りはまだ、完全に鎮まってはいない。
俺はこの自分のなかに生じた抑えがたい感情を、うまく乗りこなせずにもがいていた。アキレスはただ、冷徹な目で俺を見つめている。
俺が暴発した瞬間に、取り押さえる気でいるのかもしれない。
「止めて下さい――」
そんな俺の足元に、すがりついてきた者がいる。
「僕のために出場機会を失うようなこと、だめです」
ソルダ少年だった。殴られた張本人に懇願されては、俺もこれ以上、意地の張りようがない。彼の登場とともに、場に満ちていた緊張感は、嘘のように溶けてしまった。
「いい弟子をもったな」
アキレスの厳めしい顔が、ゆるやかに崩れた。
笑ったのだ。笑うと、この男の印象はぐっと変わる。酒でも飲み交わせば、よき友になれるかもしれない――そんな雰囲気さえ感じさせる貌である。
一方のグアランは、倒れたふたりの男――おそらくは弟子だろう――そいつらの気付けをしながら、俺の顔をじっと睨みつけている。
「仕合で地獄を見せてやる。ただですむと思うなよ」
「奇遇だな。俺も色々と馳走してやるつもりだ」
互いに社交辞令をかわしあい、俺は目線を切った。
こいつは一回戦から、退屈せずには済みそうだ。
自分のあてがわれた部屋へと昇る途中、ソルダはずっと目から涙を零していた。俺はそれが気になって、遅れがちな彼の手を引いて歩いた。まるで保父さんといったところだ。
部屋に戻ると、メルンはすでにそこにいて、にこにことこちらを見つめている。その目つきが気にくわなかったが、それよりも、もっと気になることがあった。
俺は膝を折って少年の顔に目線を合わせると、
「どうしたさっきから? 痛むのか?」
心配になるくらい、少年の眼から涙があふれている。
俺の問いに、少年はかぶりを振り、
「違います、痛いんじゃなくて、うれしいんです」
「うれしい――?」
「だって、僕のことを弟子と認めて下さいました」
ああ、そのことか。確かに場の勢いで、おれはそう口走ってしまった。だが、一度吐いた言葉は飲み込めないし、そのつもりもなかった。
——もういいじゃないか、ボガード。
そういう感情が、自然と俺の中に生じていたからだ。
俺が意固地になっていたのは、ひとえに俺のこだわりのせいだった。
もう神田蒼月も、フォルトワも関係ない。
俺がただ、この少年を迎えてやれば、いいだけの話だったのだ。
だから俺は、まっすぐに少年の眼を見つめたまま、こういった。
「ソルダ・スラン——」
「は、はい?」
「お前はきょうから、俺の一番弟子となった。だから、命令する。―—もう泣くな」
「は……はい」
「返事は押忍だ」
「お……おしゅ……」
それがソルダの、精いっぱいだったようだ。
俺は、彼が素直ないい子だと思っていたが、ソルダはいきなり、俺の命令に背いた。
弟子だと俺が告げた瞬間、ますます涙の勢いが増したのだ。
俺はどうしたらいいのか、しばらく戸惑ってしまった。
「やれやれ。だから、子供は苦手なんだ……」
『押しかけ弟子』その8をお届けします。
次話は、翌月曜を予定しております。




