その8
こじんまりとした、しかし落ち着いた感じを受けるいい部屋だった。ベッドは清潔そうだし、部屋には塵ひとつ落ちてなさそうなほど、しっかり掃除されている。
俺は噛みしめるようにゆっくりと、着ている装備品を外して身軽になると、軽く両肩を鳴らして柔軟運動をはじめた。しっかり身体をほぐすと、床に手をついて腕立て伏せをはじめる。
さらに腹筋、スクワットをそれぞれ50回×3セットほどこなすと、しだいに身体から蒸気のような熱がたちのぼってくる。蒸すような室内を換気するべく、俺は窓を開け放った。
雑然とした町の外気が、室内に浸透していく。
俺はごく自然に、窓の外の景色を眺めた。アコラの町並みが、俺の眼下にひろがっている。異国情緒ただよう幾何学模様の石畳の上を、亜人を含めたさまざまな人種が行きかっている。やがてその往来の中央をかきわけるように、騎馬の警邏隊が堂々と闊歩する。
馬蹄のひびきがここまで届いてくるようだ。
三体の馬上、甲冑に身をつつんだ騎士たちが周囲を圧するように睥睨する。彼らの頭上、オレンジ色の残照が、騎士たちの、あるいは通りを歩く戦士たちの装甲に最後の一滴を投げはなった。反射を受け、かれらの装甲は幻想的な光彩を放っている。
俺は荷物のなかからライターと煙草の箱を取り出すと、そいつに火をつけた。
この味だ。不思議と懐かしいような、妙な感覚が俺の内部に浸透していく。
向こうの世界を実感させるのは、もう、この煙しかないのかもしれねえ。
ふーっと俺の唇から、紫煙が勢いよく噴出する。そいつは戸惑うようにゆらゆらとたちのぼり、窓の外へと散っていく。
――異世界。
まったく、怒涛というべき、目まぐるしいほどの一日だった。
突如として平凡な日常からこの異界にほうりこまれたのが、もう、遠い昔のように感じてしまう。知る辺もない土地を放浪したあげく、怪物と対峙し、危機一髪でその牙にかかるのを逃れた。ひとりの仲間を失い、かろうじて、このアコラの町に到着した。
そこで、つかの間だけ仲間だった連中と決別したのだ。
傭兵ギルドに所属し、そこでガラの悪い連中に絡まれ、空手で撃退した。
そして。突如として彼らの頭目と名乗る男、ダラムルスから勧誘を受けたのだ。
大きな男だった。その体格もさることながら、懐も深そうだ。
短く刈り込んだ、金色の頭髪が特徴的だった。分厚い装甲の下には、これまた分厚そうな筋肉が押しこまれているようであった。間違いなく、強い。
初対面だったが、その事実が大気に伝播するようにひりひりと感じられた。
だが、対照的にその双眸に宿る光の、優しそうな色はどうだ。
「俺を、あんたの傭兵団に勧誘しようっていうのか」
「そうだ。見たところ、お前さんは文字を知らぬし、ギルド内のルールも知らない。まったくの無知のようだ」
「…………」
「俺の団に所属すれば、様々な恩恵が受けられる。俺の知っていることは教えてやれるし、危険な任務も分担して受けることができる。悪い話じゃないと思うが」
「ダ、ダラムルスのだんな! こいつは俺たちをぶっ飛ばしたんですぜ!」
「あれはお前らが悪いよ。キケロ、ズイーガ、彼に謝罪するんだ」
俺がのしてやった荒くれどもも、ダラムルスにたしなめられると、借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。あれだけ敵意むき出しだった彼らが「すまなかった」と、頭を下げてきたのは驚いた。
ダラムルスの部下らしき連中は他にもいたが、彼の発言に異議を唱えるものは誰もいないようだった。
だが、俺は「すこし、考えさせてくれないか」と、即断を避けた。
あまりにもこの世界での知識が不足してるのが、その理由だ。
その旨を告げると、ギルド内の空気が一変した。
なんて愚かな男なのだという、そういう眼が俺に向けられるのがわかった。
どうやらダラムルスの傭兵団は、厳選されたごく一部の傭兵のみが所属を許される、ハイレベルな傭兵集団らしい。これは後で聞いた話だが、俺がぶっとばしたふたりも、素手の喧嘩でこそ俺に負けたが、剣を握らせたら相当の実力者であるらしい。
そんな連中ばかりが所属する団に、あろうことかダラムルス団長が、じきじきにスカウトをしたのである。それも、剣を抜いたこともない、得体の知れぬ中年のルーキーを。
「まあ、いいさ。ボガード、ムイムイ草採取のクエストを受けたのだから、明日もまた、ここへ来るのだろう?」
「それは、まちがいないな」
「なら、返事は明日聞かせてくれ」
「――わかった。明日、返事を持ってくる」
そういう話をして、その場は別れた。
俺が受けたクエストは緊急の仕事ではない、との事だったので、採取は明日にまわすことにし、とりあえず今晩のねぐらを探すことにした。何も知らない俺に、宿の場所を教えてくれたのも、ダラムルスだ。それがこの『太陽と真珠亭』である。
ここは料金も良心的で、サービスもいいし食事もうまい。これほどまで好条件が揃いながら、予約なしで泊まれるという。そんなことがあるのだろうか。半信半疑で俺は彼が教えてくれた道順をたどり、この店にたどりついたのだ。
それほど大きくはない宿屋だったが、俺は好印象を持った。外観は他の宿ほどの派手さはないものの、手入れをしっかりとやっているようで、ぴかぴかだ。
こんなよさそうな店に、何故客が入らないのか。
扉を開いた瞬間、俺はそれを理解したような気がした。傭兵ギルドで俺に因縁をふっかけた二人のごろつきよりも、はるかに人相の凶悪な男が、カウンターの向こうからむき出しの刃物の眼光で俺を睨めつけてきた。
右目が潰れており、黒い髑髏マークの眼帯でその部分を覆っている。
「てめえ、何の、用だ――?」
「宿屋のセリフじゃねえな。もちろん、泊まりに来たんだよ」
すると、たちまち男が、口の端を引きつらせて笑った。
悪魔のようなアルカイック・スマイルだった。
「泊まり、客か。そいつは、嬉しい、ぜえ」
「その顔で言われると、悪い事でも企んでいるように見えるな」
「メイ! メイはいるか!」
男が二階のほうを見上げて叫んだ。
一階は宿泊客が飲食できるように、酒場になっている。二階から上が、ベッドの置いてある部屋のようだった。そこから女の声が降りそそいでくる。
「いるに決まってるでしょ! 仕事ないんだから!」
「泊まり、客だ。客室に、案内して、やれ」
するとすごい勢いで木製の階段が鳴り響き、独りの女性が転がるように俺のもとへと走り寄ってきた。すぐに距離を詰めると、ぎゅっと俺の両手を握りしめた。
「お客! もう出て行くっていったって遅いからね!」
「いや、逃げないから離してくれねえか」
「まずは宿帳に名前を記入してね。こっちこっち」
明るくてハキハキした声が、俺をカウンターへといざなった。年のころは20台なかば、というところだろうか。清潔な香気が俺の鼻孔をくすぐる。香水ではない――石鹸のようないい香りだ。この世界に石鹸があるかどうかはわからないが。
長い髪を頭上でまとめ、それをターバンのような布で覆っている。笑顔が魅力的だ。俺はますますわからなくなった。こんな美人の看板娘がいて、なぜこの店は繁盛していないのか。
首を傾げたままカウンターへ引っ張られる俺を、悪意の塊のような眼で、じっと見つめる影がある。むろん、さっきの眼帯の男だ。あんな眼光で射すくめられると、俺ならずとも反射的にファイティング・ポーズを取ってしまうのではなかろうか。
その眼光に気づいた女は、じろっと眼帯を男に目線を返すと、
「ちょっとおじさん、いい加減にして! そんな顔つきだからお客さんが逃げちゃうのよ」
「こ、こういう、貌だ。簡単に、すげかえられる、もんじゃ、ねえ」
メイと呼ばれた娘は、さっとカウンターの奥にある扉を指差して、
「なら、とっとと厨房に行く。そろそろ飯どきでしょ!」
男は不機嫌そうな顔をして、すごすごと奥へと姿を消した。すべての美点を総合しても、あの親父の悪相のほうが勝る、というところなのだろうか。
「飯の時間はあと半刻後だからね。遅れずに階下まで降りてきてよ。それまでは、お部屋でゆっくりしていきなよ。疲れたでしょ?」
きびきびとした口調で、俺に二階の部屋を案内し、宿代の交渉をして、彼女は風のように去った。まったく、嵐のような娘っこだ。俺は知らず、頬にかるい笑みを浮かべている自分を発見した。
「太陽と真珠亭か。長い付き合いになるかもしれねえな……」
その一言は単なる予感であったが、後にそれは真実となる。
今の俺には、知る由もないことなのだが。
その8をお届けします。
9は来週中にはお届けできると思います。