その5
黒曜石の間を、白けた沈黙が支配していた。
風はなく、よどんだ空気だけが澱のように漂っている。
ラーラとメルンは、互いの瞳を見つめあい、ジュラギは怒ったように中空を睨んでいる。グルッグズは静かに笑みを浮かべたまま佇立し、場の雰囲気を壊すまいとつとめているようだ。
ゾンバイスの姿はない。気を利かせたつもりか、人間体に戻りにいったのか、おそらくその両方だろう。
それぞれに、それぞれの複雑な人間関係がある。一言では言い表せない感情が、水面下で行き交っているのだろう。そんなしがらみとは、一切無縁なのが俺だ。
俺は肉体が弛緩するのを恐れ、静かに呼吸を整えている。
呼吸を整えつつも、俺の意識はここになかった。
俺はしばらく、この漆黒の城の住人となっている。その間、外の風景を見ていない。外に月が出ているのかどうか、ふと気になっていた。
呆然と突っ立っているメルンを見ていると、こいつが勝手に俺の部屋に侵入していた晩のことを思い出す。あのときのこの女は、月の光を存分に浴び、まるで妖精のような、摩訶不思議な存在に見えたものだ。
今は、随分とちっぽけに見える。
――まあ、仕方のないことかもしれない。
彼女にとってこの3人は、仇敵といっても過言ではない。恩知らずにも師ヴェルダを裏切り、何も語ることなく出て行った連中なのだ。
ラーラのことをメルンは「お姉さん」と呼んだ。
種族が違うにも関わらず。
推察するに、昔は姉妹のように、とても仲の良いふたりだったのだろう。その誤解が、ふたりの住んでいる距離のみならず、心の距離をも大きく遠ざけた。
ラーラは、積極的に語るタイプではない。
メルンも、どちらかといえば変人タイプだ。言葉が足らず、誤解を受けることも多い。そんなふたりが言葉で互いの行き違いを埋めるのは、不可能に近い事だっただろう。
交差する互いの瞳に、敵対の色はない。
誤解がとけたとはいえ、すぐさま心の距離が埋まるとは思えない。だが、お互いを隔てていたものは撤去されたのだ。これからもう一度、良好な関係を築いていけばいいのさ。
「それでは若、ワシはこれにて失礼しますぞ」
重い沈黙を破ったのは、グルッグズの一言だった。
「若だと? 俺はどこぞの殿様か?」
「ボガド殿の名前は、ワシの舌では結構発音しにくくてのう。若のほうが、よく似合っておるかと思いましてな」
「よくコロコロと、人の呼び名を変える男だな。最初に出会ったときは若いので、次はボガド殿、今度は若か」
グルッグズは愉しそうに、ニッと笑うと、
「短くて、一番呼びやすいかと」
「――もういい、勝手にしてくれ」
「はっ、勝手にします。――若」
グルッグズは恭しく頭を下げ、
「次に会う時まで、ご壮健なれ」
と、一言告げた。
『待て、勝手は許さんぞ――!』
ジュラギの叫び声も、この男の動きを止める役には立たたなかった。彼はこの部屋の唯一の風となり、消えた。次に会うときは、敵か味方か――。
味方のほうが、楽しいよな、やはり。
俺がそう考えていた時、ジュラギは激高した叫び声をあげて、俺にひとさし指を突き付けた。
『――ふざけるな。ふざけるなよ、貴様。あの男を生かしておくなという言葉が聞こえなかったのか?』
「聞こえていたが、俺はお前の部下ではない。従う義理は微塵もない」
『もはやこのジュラギ、赦さぬ。今思い知った。貴様はやはり倒すべき敵だ、とな』
「ほう、ではどうする?」
『――先ほどの勝負の続きをするぞ』
「まだ、そんなことを言っているのか」
『ジュラギと貴様の勝負は、まだ決着が着いておらぬ』
「胴廻し回転蹴りという技はな、縦回転と横回転がある」
『――――?』
「俺が得意としていたのは縦回転のほうでな」
『待て、なんの話だ』
「先輩からは、床に落ちたコインを拾うような要領で回転しろと教わったよ」
『貴様、このジュラギの問いに答え――』
――こんなふうにな。
俺は後輩に指導をつけるように、いま語ったような要領で、ジュラギの顎先目がけ、縦の胴廻し回転蹴りを見舞った。
いい足ごたえを感じた。
ジュラギは、グルッグズにすくい蹴りを食らったとき同様、ひっくり返されたカエルのように、無様に仰向けになった。
こいつがいかに、高性能の装甲を身に着けていようが、こいつを見切るには並の反射神経では無理だ。これまでそれを可能にしていたのは、あのヘルメットに秘められた機能のお陰だということが、グルッグズとの一戦でおおよそわかった。
あとは、実践だ。
ジュラギが、グルッグズの一件を不満に思っていたことは理解していた。だから、俺はひたすら呼吸を整えていたのだ。こいつが激高し、襲い掛かってくる瞬間、対応できる自分であるように。
そして、哀しいほど、この男は隙だらけだった。
魔法使いとしての力量は、この男はずば抜けているに違いない。だが、ひとりの闘士として、ジュラギは並の人間の身体能力しかもっていないということだ。
彼がヘルメットを装備するのを悠長に待っているほど、俺はお人よしではない。俺たちがやっているのは、競技ではなく、仕合だからだ。
だから一瞬で斬って落としたのだ。
ジュラギは、立ち上がろうともがいているが、俺の一撃をもろに食らって、簡単に立ち上がれると思わない方がいい。手加減はしたが、本来なら気絶していてもおかしくはない。
だが、ジュラギは懸命に立ち上がろうとしている。
なにが、この男にここまでさせるのか。
わからない。
わからないが、相手に闘う意思がある以上、俺は手を止めるわけにはいかない。おれはゆるりとジュラギへ向かい、一歩を踏み出した。
その間に、立ちふさがる人物がいる。
獣族の美女、ラーラだ。
相変わらず表情の読めない顔で、俺の前に立っている。
「そこをどけ――」
「どきません」
「これは、男と男の勝負だ。邪魔をするな」
「勝負はつきました。これ以上の蹂躙は無意味です」
『ラーラ、そこをどけ。このジュラギの勝負の邪魔をするな』
ラーラは静かに、だが確実に固い意志を持って首を左右に振った。
「いいえ、どきません」
『なっ、貴様――? このジュラギの命令に背くというのか』
ラーラは無言で、ぐっと唇を噛みしめている。
ようやく彼女の鋼鉄の仮面が砕けたな。
『もういい、貴様はクビだ。どこへなりと行くがいい――』
「ジュラギ、おまえ――」
俺がラーラの脇をすり抜けようとすると、彼女はなおもすがりつくように、俺を制止してきた。けなげだな、この娘は。
必死になって、この俺を止めようとしている。
彼女がどんな想いで、俺の前に立っているか、鈍い男と言われている俺でもわかる。俺は彼女の手を、できるだけやさしく解いていく。
ジュラギを殺すつもりはない。
それをできるだけ、瞳で伝えたつもりだ。
彼女は理解を示したようだった。
ラーラは頷き、おとなしく俺を通してくれた。
俺は大股で、倒れているジュラギのそばに近寄った。
『そうだ、殺るなら、とっとと殺ればよい』
俺はジュラギの頭をつかんで上体を起こすと、軽く頬を張った。
あくまで軽くだったが、音は黒曜石の間に響き渡った。
『――なんのつもりだ?』
「いい加減、眼を醒ませ。彼女がどんな想いで、俺の前に立ちふさがったと思っている」
『このジュラギ、師のヴェルダに命じられ、幼少期からラーラに魔法のなんたるかを叩き込んだ。言ってみれば、彼女の師はヴェルダではなく、このジュラギだ。だから、師の危機を弟子が救うのは当然――』
それでラーラは、ヴェルダのことをおお師匠様と呼び、ジュラギのことはマスターと呼ぶわけだ。なかなか面倒な人間関係だ。
だが、この際、それは関係ない。
俺はもう一度、この男の頬を張った。
「不正解だ。彼女はお前のことを師として護ったわけじゃない」
『――なに!? では他に何があるというのだ』
「愛しているからです」
『なんだ、と――?』
「愛しているから、お護りするのです」
『い、いつからだ、貴様――?』
「ずっと前からです。ええ、ずっと前から――」
このとき。初めて俺は、ラーラの笑顔を見た。
重い、10月の空のような曇天から覗く、月の光。
それは月光のような、美しい笑顔だった。
遅くなりましたが、『剣は鞘に』その5をお届けします。
次話は、木曜日を予定しています。




