その7
相手の男どもは、怒りの形相で腰剣の柄に手をやった。
おいおい、こんなガキのやるような喧嘩で、真剣を抜こうっていうのか。命のやりとりをしようっていうのか。俺の皮膚の毛が、ぞわりと自然に逆立った。
喧嘩は今まで、さんざんやってきた。複数の相手にも逃げたことはない。
空手や柔道、剣道有段者と喧嘩したことだってある。だが、どんなに竹刀が痛かろうと、命を獲られることはない。なぜなら、奴らの側にも人の命を奪う、という覚悟がないからだ。
――人を殺す。
その一線を越えることは、容易ではない。
その一線を越えたら、もはや後戻りなどできはしない。
人間としての道理を外れてしまう。獣と同じだ。
それが、俺たちの世界の暗黙のルールという奴だった。
だが、ここの闘いは違う。その道理が通じない。ごくあたりまえに平然と命のやりとりするのだ。
なるほど、確かにここは異世界だ。命の価値がまるで違う。
こちらも応戦のために買ったばかりの腰剣へと手を伸ばした。むろん、剣の扱いなどまるで知らない。まったくのど素人だが、黙って殺されてやるほど、俺は人格者ではないつもりだ。
すると機先を制するように、奥の受付嬢が良く通る声で、こう告げた。
「ギルド内での刃傷沙汰はご法度です。剣を抜いた方は、1年間の出入り禁止となります」
「え、そ、そいつはないぜ!」
しかし、受付嬢の目つきは険しく、揺るぎなかった。ギルドの掟を破ることはできない。これにはさすがにガラの悪いふたりも、従うしか法がない。抜きかけた剣を再び鞘におさめると、男たちは素手で俺に向かってきた。
ありがたい。俺には願ってもない展開だ。
素手での喧嘩なら慣れている。
俺は顔を護るように両手をアップライトに構えると、小刻みにステップを踏んだ。相手は戦闘に慣れた傭兵ふたり。不利な状況だが、闘う術はある。
相手は体格こそ俺と大差がないが、胸甲が鉄製だ。
敵が怪物相手なら、充分にその性能を発揮しただろうが、残念だが徒手空拳の世界ではちいとばかり、重装甲すぎる。
まずスキンヘッドの男が、問答無用で俺に殴りかかってきた。
俺は充分な余裕を持って、それをバックステップでかわす。
やはりこの世界の徒手空拳の技術は、俺たちの世界ほど洗練されてはいないようだ。威力を出そうと、拳を大きく振りかぶってしまっている。俗に言うテレフォンパンチ――モシモシ、今から殴りますよ――ってなもんだ。当然ながら武道経験者なら、見切るのは容易い。
当らないパンチに業を煮やしたか、頬に傷の走った男のほうが、蹴りを放ってきた。足の裏をこちらに向けてのビッグブーツ。空手でいう前蹴りだ。
俺はこれを待っていた。
前蹴りを軽いステップでかわすと同時、ローキックを放った。
相手の軸足――膝の裏にピンポイントで、俺の足の甲が炸裂する。
「うぐあぁっっ!!」
頬傷の男はうめき声をあげて、その場に崩れ落ちた。
やつらの下半身にも当然、革製の装甲がある。
だが、基本的に膝の裏や肘の内側といった関節部分は、装甲が甘い。そうしないと、関節がうまく稼動しせずに、動けなくなるからだ。
その隙間に、寸分の狂いなく蹴りを炸裂させる。
俺には、それができる。
その練習を、その動作を、どれだけ積み重ねてきたか。
向こうの世界での鍛錬が、俺を救っている。
そうだ。俺には何もないわけではない。この空手の技術があるじゃないか。
これまで培ってきた喧嘩の業があるじゃないか。
知らず知らずのうちに、俺の頬にふとい笑みが浮いていた。
「このオッサンが! 調子に乗りやがって」
ふたたび、スキンヘッドの男が、大振りのパンチを放ってきた。
怒りのためか、かわされるためか、さっきよりも踏みこみが深い。
俺は下がらず、冷静にその拳を左拳で弾いた。
無防備な顎が、俺の目の前にある。
俺は体をねじり、右肘をコンパクトに畳むと、その顎先に下から拳をねじりこんだ。右のショート・アッパー。
相手の脳を揺らすには、充分な一撃だ。
カウンター気味に炸裂したそれは、スキンヘッドの男の意識を刈り取るのには充分だったようだ。やつは白目をむいて、大きく仰向けに吹っ飛んだ。
残るはひとりだ。俺は顔をしかめながら立ち上がる、頬傷の男へと向きなおる。かなりの痛手を負わせたつもりだが、まだやつの戦意は喪失していないようだ。
「この野郎おおぉぉぉっっ!!」
距離をとっての闘いは不利と見たか、相手は組み付こうと突進してきた。さすがに闘いに身を置く連中だけはあるようだ。その判断は間違ってはいない。
いないが、俺は柔道経験者とも闘った経験がある。
柔道の黒帯クラスともなれば、間合いに入った瞬間、すぐさま雷光のような速さで、投げを放ってくる。それを防ぐことは容易なことではない。
ただしそれは、柔道の間合いに入った場合である。
空手の攻撃範囲のほうが広い。相手が掴むより先に、俺の蹴りや突きが着弾する。
それは相手のほうも理解している。先に一撃入れられても、懐に入れば勝てる。そう思って突進してくるのだ。俺は向こうの世界で、そういう投げの猛者たちを相手に闘ってきた。
それが俺に、相手の動きを冷静に見る沈着さをもたらした。
この頬傷の男にどういう組み技の技術があろうが、俺の攻撃が先に当る。
それで充分だ。
俺はふたたび、ローキックを放った。先程と寸分違わぬ位置に。
頬傷の男は突進の途中で、悲鳴とともに大きく体勢を崩した。
掴むというよりは、すがりつくように、やつは俺の革鎧に手を触れた。
男の脳裏には、かすかにおのれの勝機というものが見えただろうか。
俺の技術は空手が主体だが、それ以外を練習しなかったわけではない。
ボクシングの練習もしたし、柔道も、一通りはやっている。どちらかといえば、組まれた場合の対処法のためであるが、投げの技術も身につけている。
残念ながらこの男は、俺が闘ってきた柔道経験者のやつらより、はるかに技術面で劣るようだ。眼もあてられぬほど隙だらけだ。
俺は男の腋下に手を差し入れて、男の背後のベルトをつかみ、もう片手で袖をつかんだ。相手の身体を後ろ腰に乗せて、大きく前方へと投げ落とす。
ズシン、と派手な音を立てて、男は床に真っ逆さまに落下した。
すかさず俺は大の字になった男の腕を取り、関節技に入ろうとした。
「そこまでだ!!」
雷鳴が落ちたかと思われるような、大きな声が俺の耳朶をうった。
思わず俺は、握っていたその手を離してしまった。
声のしたほうへと向きなおった。
無論、両腕はすかさずアップライトの構えに戻している。
やつらの仲間が、報復に向かってこないとも限らないからだ。
「見事な体術だ。今まで見た、どの体術よりも完成されている――」
男は笑みを浮かべ、両手を拍って、俺を称えた。
攻撃の意思はない、といいたげに、そのまま近づいてくる。
巨躯の男であった。俺も体格には自信のあるほうであるが、この男はさらに大きい。ざっと見たところ、2メートルはあるのではないか。
あきらかに、床に伸びているふたりとは格が違う。
その巨躯の男は、俺の目の前に立つと、すっと片手を差し出してきた。
俺は臨戦態勢であったにも関わらず、自然とその手を握っていた。
その巨躯の男の放つ笑みに、それだけの魅力があったのだ。
「俺の名はダラムルス。こいつらの隊長だ。部下の失礼は詫びよう」
「そうか。喧嘩の続きをするつもりがないのなら、それでいい」
「名前を聞かせてもらえるかな、オールドルーキー」
「俺の名は、海道簿賀土という」
「――そうか、では言いやすく、ボガードと呼ぼうか」
男はふたたび、にっとあの魅力的な笑みを放った。
「なあボガード、唐突で悪いが、ウチの傭兵団に所属しないか?」
久々の執筆です。
もうちょっと頻度を上げていきたいと思います。