その4
泥のように眠る、とはこういうことをいうのだろうか。
この部屋は窓らしきものがなく、陽の明りが差さない。
人為的な暗闇のなかで、俺は目を覚ました。夢の中で、人喰虎となにやら対話したような気もするが、ほとんど記憶にはなかった。
それほど疲れ切っていたし、また熟睡していたのだろう。
まったく、武道家としては最低だ。
ジュラギが寝首を掻こうと思えば、楽々とそれは果たせただろう。
ベッドから起き上がると、いい匂いが室内を満たしている。
もう部屋の様子は陽光により、しだいに輪郭が明確になりはじめている。しょせん、人間が作り出した闇は、自然の光を完全に駆逐することはできないのだ。
見ると、朝食が部屋に運び込まれていた。木製の二段カートのようなものが、部屋のドア辺りに置かれている。上の棚には、盆のようなものが置かれ、うまそうな食事が載っている。下の棚にはワインのような飲み物が積まれていた。
――毒は盛っているだろうか?
はたと考えたが、ジュラギのやつは、俺があのワン公にぶっ倒される処を観たがっている。第一、俺を殺すことだけが目的なら、昨日の疲労困憊のときを狙えば、楽勝だったはずだ。
「まず、ないだろう――」
そう判断し、俺は食事に手を延ばした。
麦飯と、様々な豆が入ったスープ。そして鹿肉の骨付き肉だ。
スープの味見をしてみたが、どうやら鹿肉でダシをとっているらしい。つまりこのあたりでは、野生のシカが獲れやすいということだろう。塩味の加減がいい。豆との相性もバッチリだった。メイの料理ほどのレベルではないが、充分だ。ここ最近ずっと食っていた、干し肉の携帯食よりは、はるかにマシというものだ。
素直に料理を味わう状況であればよかった。
それが残念だった。
せっかくの料理を堪能する余裕は、俺にはなかった。
何故なら、ひたすら、ある考え事に没頭していたからだ。
俺は肉を咀嚼するときも、スープをすするときも、ひたすらその考えのみに埋没しつづけている。
あいつを、どうしたらいいのか。
あいつを、どうやったら倒せる?
勝ち目の薄い闘いだというのは、うすうす感じている。
だが、闘う前からまいったをするほど、俺は人間ができていないんだ。
そんな奴は、布団から出る必要もない。
ずっと家の中にいれば、悪いことも起きないだろう。
だけど一生、こそこそと隠れ続けることはできない。
俺はお天道様の下を、大手を振って歩きたいのだ。
食事を終え、俺は簡単な柔軟をはじめた。いつのまにかメルンが部屋に入ってきていたが、俺は無視して、軽く腕立て、腹筋、スクワットを100回ほどこなし、身体を温める。
メルンも気を利かせたのか、一言も発せずに俺の部屋のベッドに腰を下ろし、こちらを見つめている。俺は次に型の練習をこなす。だいぶうろ覚えだが、まだ平安ぐらいは肉体が記憶していた。それからジャブ、ストレート、ローキックなどを織り交ぜて、シャドー・トレーニングを行う。
むろん、敵はあの人狼だ。
だが、どんな手段をもってしても、奴を倒せない。
空手にせよ、キックにせよ、MMAにせよ、対人専用の格闘術だ。
あいつに、人間用に作られた武道が役に立つのか。
まず、骨格が違う。人体とは急所の位置が違う。そんなやつに、いつも通りの戦法で立ち向かって、勝てるのだろうか。
焦りと疑念だけが、汗とともに立ち昇ってくる。
「お忙しいところ、失礼します――」
ノックとともに入室してきたのは、猫耳少女のラーラだった。
「そろそろ出て来いと、マスターがおっしゃっておりますが…」
「――わかった」
そう応えざるをえない。
俺は身支度を始めた。ベルトを締め、腰に剣をぶらさげた。
腕には愛用のバックラーを握る。
そんな俺の様子を、ラーラの緑の瞳が不思議そうに見つめていた。むろん、俺はなにもしゃべるつもりはなかったし、相手も深く詮索はしてこなかった。
「では、案内してくれ――」
俺は、一言だけ告げた。
ラーラは、一礼をもって応じた。
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『――よく逃げずに来たな、ボガード』
俺がラーラ、メルンと共に謁見の間に姿を現すと、つやつやとした黒曜石の椅子に腰を下ろしたジュラギが、陽気な口調で語りかけてきた。目つきは相変わらず悪いが、上機嫌な様子はここからでも見て取れる。
「せっかく食事までごちそうになったんだ。宿泊代ぐらいは払って帰ろうと思ってな」
『それは謙虚な心掛けだ。では、さっそく始めてもらおうか』
いつからそこに存在していたのだろう。人狼はすでに、ジュラギの玉座の近くまで接近し、片膝をついた。主人にうやうやしい礼をほどこすと、ゾンバイスはこちらを見て立ち上がった。
そして、俺の目の前に立った。
奴の両眼に、どこか哀しみに似た光が宿っていると感じたのは、俺の思い違いだろうか。いや――
「なぜ、にげながっだ――?」
ゾンバイスは、はっきりと言った。
こいつは、俺のコンディションが最悪だからといって、闘いを今日へ延ばした。それはアンフェアな闘いだからという意図があってそうしたのだと、俺は解釈していた。
だが、真意は違ったようだ。
「まるで、夜逃げしてほしかったような口ぶりだな」
「ぎのうの立ち合いで、結果は見えでいる。ぞれは、お前がよく、わがっているだろう?」
「笑わせるな、ワン公。その眼をやめろ」
俺の心は、ジュラギの機嫌とは対極の位置にあった。
怒りで全身が沸騰しそうだった。憐憫の眼差しだと――
そんな眼をしていい奴は、俺の前に居ちゃいけねえんだ。
俺は視線を外し、玉座の男へと目を向けた。
「ジュラギよ、ひとつ提案がある」
『なんだ、この期に及んで――?』
「剣と盾を、使わせてほしい」
俺の言葉に、ゾンバイスの両眼は驚きに見開かれた。
「な、何をいっでいるんだ。おでの戦力は、お前がいぢばん――」
『ふむ。そうすると、ゾンバイスの方は、爪と牙を使用していいということになるが、このルールだと、お前は死ぬかもしれないぞ――?』
「――もちろん、覚悟の上だ」
「ボガード、だめ。格好つけてる場合じゃない」
メルンも、蒼い顔をして俺をなだめる。
だが、男が一度覚悟したことを、容易く変えるわけがねえんだ。少なくとも、海道簿賀土という男はそうなんだ。
『よし、よし。これは、最高のショーになりそうだ』
ジュラギのニタニタ笑いが、全身に広がっていくようだ。
俺は剣を構えた。右手で握った剣の中ほどを、左手で握る。
ロームからは、ハーフソードの構えと教えられた形だ。
ゾンバイスは深い吐息をひとつ漏らすと、まるで人間のようなファイティング・ポーズをとった。その構えそのものは、昨日も見ている。ただ、やつの巨大な掌のような前脚は、昨日とは違う形態をしている。
指球のなかに埋没していた、鋭い爪がずるりと伸びている。
そいつは残忍な光を放って、俺の喉首へと向けられている。
その大きさ、鋭さはどうだ。
俺の頸椎など、一撃で粉砕してしまうだろう。
ジュラギの『はじめ――』の言葉が轟くや否――
ゾンバイスの姿は、俺の視界から消えていた。
『強さを求めて』その4をお届けします。
次話は火曜日を予定しています。




