その3
「……どういうことだ?」
俺の反応は、ごく常識的なものだったといえるだろう。
こちらはただ、アクマヤナギとやらの粉末をもらいに参上しただけだ。そしてそれは、ヴェルダからの指示でもあった。彼女からは、闘って勝ち取れなどとは、一言も告げられてはいない。
俺の意思を無視して話を進めるのは、こいつら魔術師の得意技のようなものだが、それにしたってこの野獣と闘えだと? さすがに今回は度を越している。
『不審な顔をしているな、ボガードとやら』
「当然だろう。俺たちはお前の大師匠とやらから、粉末を譲ってもらえと指示を受けただけだ。なのに、藪から棒に、その魔物と闘えとは、気にくわねえな」
『なにごとにも対価、というものが必要だよ。たとえば君は他人から食料を求めるのに、タダで物乞いをするのかね? その場合、金銭という対価を渡すのではないかな?』
「ふん、だから対価をよこせ、か。随分と気前がいいじゃないか」
『この漆黒の魔術師ジュラギに向かって、挑発的な言動は慎んだ方がいいな』
「漆黒か――。俺はちょっと前に、遠い昔に朽ち果てたという廃城にお邪魔したがな。そこの内部は、亡霊が漂っているように不気味な、真の暗黒だったよ」
『――何が言いたい?』
「別に。ただ俺からすれば、お前の城は、上っ面だけペンキをぶっかけて塗装しただけの、チープなもんにしか見えないってことさ――」
『なかなか、雄弁じゃないか――』
やつの険しい眼光と、俺の眼が正面衝突した。
さっきまでは穏便に済ませようと考えていたが、やめだ。こちとら、右の頬を打たれて、左の頬を差し出すようなタマじゃない。
この睨み合いから、先に降りたのはジュラギのほうだった。
ふん、と鼻を鳴らして獣人の方へ視線を移し、
『まあ、相手がこのゾンバイスだ。万が一にも君に勝機はないだろうが。あのババアがはるばるよこしてきた人物だ。それなりに腕は立つのだろう。好勝負を期待しているよ』
ゾンバイスとやらは、俺の背後に立った。
当然、俺は振り返り、対峙せざるを得ない。
やれやれ。どうやら闘いを避けることはできなそうだ。
俺はかつて、空手で飯を食おうと考えていた男だ。闘うこと自体が嫌なわけではない。
ただ、俺は昔の剣闘士なんかじゃねえ。
頭ごなしにやらされるのは、正直、業腹なだけだ。
それに、おれは何となく身体に違和感を覚えていた。
その違和感の正体がつかめないのは、若干、不安だった。
ゾンバイスという人狼は、無造作にそこに立っている。
でかい。俺の第一印象は、それだった。
身長そのものは俺より、5、6センチほど大きいだけだが、威圧感が半端ではない。狼が直立して、真正面から相対していると考えてみればわかりやすい。涎が牙の隙間から、ぼたぼたと床に滴っている。
鋭い獣臭が、俺の鼻腔を焼いている。
ゾンバイスは、ふいに鋭い牙を上下に開くや、
「ざあ、やろうか――?」
と、言った。
「ほう、しゃべれるのか、ワン公」
「人狼っでのは、いづもこの姿ってわけじゃない。人間のずがたもあるんだ」
「自分の意思で、好きな形態が選べるというわけか」
「ぞういうこと、だ――」
何かが、硬質の床を蹴りつけるような音がした。
ジュラギがまた、床を踏み鳴らしているのだ。
『――ええい、いつまでくっちゃべっておる! さっさと闘わぬか』
「やれやれ。いづもながら、ご主人ざまは、ぜっかちだ」
「あんなのに、こき使われているのか?」
「いどいどと、事情があっでな。で、どうする?」
「どうするとは?」
「ルールだよ。あんだが、剣を使うなら、おでもこの牙と爪を使う。あんだが素手でやるというなら、おでもこの武器を使わない」
「随分と、気前がいいじゃないか」
「どうぜんだ。人間とげものじゃ、それだけ戦力が違う。あんだもじってるだろ?」
そう、俺はそいつを識っている。嫌というほどな。
間近で首をもがれた男の姿は、いつでも鮮明に思いだせる。
「俺は剣の扱いは、それほどうまくない。武器はナシでやろうか――?」
「わがった。ぞうじよう――」
闘いが始まった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
『おやおや、偉そうな口を利いていたくせに、もう終わりかね――?』
黒曜石の天地に、ジュラギの尊大な声が響き渡った。
俺はその声を、黒い床に這いつくばりながら聞いていた。
そうだ。俺はダウンを奪われていた。
「まだカウントは5ってところだろ。ちょっと休憩をしていただけだ」
『ふん、憎まれ口だけは達者だな』
俺はゾンバイスを睨みながら立ち上がった。
奴の動きが、まるで見えなかったわけではない。
やつの動きが変則的であり、さらに俺の反射速度を、大きく上回っていたのだ。この人狼は、立ったり四つん這いになったりと姿勢を変え、俺の視点を幻惑してくる。
俺はどう対処していいか、戸惑った。
惑いは迷いになり、動きを硬直化させる。
その惑いが、動きの鈍さになったのだ。
一瞬のスキを突かれ、俺は顎先に蹴りをもろに食らった。
こんな無様をさらしたのは、蒼月と仕合ったとき以来だ。
すると、この人狼は蒼月と同じぐらいの実力だろうか。
俺は心の中で首を振った。いいや、そこまでではない。
動きが途轍もなく速い。それは認めざるをえない。
だが、獣らしく直線的な動きだ。
俺の周囲を、軽快に飛び回ったり、立ったり座ったりと幻惑してくるが、攻撃に移った時の動きは直線的だ。矢のように一直線に、俺の身体を撃ち抜こうとしてくる。
俺はそれを分かっていながら、受けるしかない。
俺の反応速度を、上回っているのだ。
ならば、カウンターか。
奴が仕掛けてくる際に、カウンターを合わせる。
動きの速い人間なら、これでいい。
しかし獣は獣だ。人間とはわけがちがう。
奴の姿が一瞬消え、攻撃に移ったと思ったら、もう手遅れだ。俺が瞬きするよりも速く、奴は俺のガードした腕を弾き飛ばしている。カウンターに用意した蹴りも拳も、むなしく空を切るばかりだ。
逆にこちらが攻めていっても、追いつかない。
ゾンバイスの俊敏な動きは、二足歩行の人間の及ぶところではない。俺が間合いを詰めようと駆けると、奴はもう、その場からはるか遠くに離れている。逆もまたしかりだ。奴が攻勢に回っても、俺には何もできない。
こいつは勝ち目のない戦じゃねえのか、ボガド。
もうひとりの俺が、そうささやく。
俺にはもう、この獣に勝てる武器がないんじゃないか。
絶望的な気分が、俺の内面をひたひたと満たしつつあった。
すると、ゾンバイスが突然、戦闘態勢を解いた。
俺との間合いを大きく開くと、はるかに離れた位置にあったジュラギの玉座まで、ゆっくりと歩き始めたではないか。
「おい、待て。まだ勝負はついてないぞ――」
俺はあわててやつの背に追いすがり、一撃を加えようとしたが、やめた。
ゾンバイスの奴が、すっと片膝をついて、主君にこう報告したのだ。
「ごの勝負は、お預けにいたじましょう」
『なんだと、ゾンバイス。主命に逆らうというのか』
「ぞうではありまぜん。この男は疲労の極にいまず。とでも、まっとうな勝負になりまぜん」
言われてようやく、俺は全身を襲う激しい疲労感に気付いた。なにしろ、ここまでバイコーンの背にまたがり、ほぼろくな睡眠もとらず、ひたすら駆けてきたのだ。
俺が、先ほどから感じていた違和感の正体は、疲労だったのだ。
アドレナリンのおかげで、それを忘れていただけだったのだ。
『フン、よかろう。ゾンバイス、貴様に免じて、この勝負はいったん預けよう。ボガードよ、一夜、ゆっくり休むがいい。再戦は翌日、この場にて行う――』
正直、その言葉は虚ろに俺の耳に響いていて、まともには理解できていなかった。疲労のあまり、俺は意識が朦朧としていたようだ。
あとで割り当てられた部屋で、俺はその言葉をメルンの口から聞かされた。わかったと、俺は応えただろうか。もう立っていられる限界だった。部屋に置いてあるベッドに転がり込み、俺はぐっすりと眠った。夢も見ずに寝た――といいたいところだが、しっかりと夢は見た。
夢には、見覚えのある化け物が現れた。
そいつは、俺を嘲るようににたにたと笑っていた。
忘れもしない、そいつはあの人喰虎だった。
かなり遅くなりましたが、『強さを求めて』その3をお届けします。
次話は土曜日を予定しています。




