その1
「おれが今より強くなれる――だとっ!?」
衝動的に大声を発してしまったのは、実に俺らしくなかった。
しかし、仕方がないことだ。その言葉はどんな打撃よりも強烈に、俺の耳朶を貫いたのだ。
だからこそ、自然と言葉が大きくなっちまったんだ。
しかし、ヴェルダはそう思わなかったようだ。
いかにも不愉快そうに眉間に皺を寄せて、
『もう少し、声のトーンを抑えてくれないかね。トシはとっても、それほど耳は遠くないんだ』
「悪かった。しかし、それは本当のことなのか?」
『こういうことで嘘を言ったって仕方ないさ』
ヴェルダはこともなげに語る。
だが、これが普通のことではないというのは、誰でもわかることだ。
人間の一生とは、山のようなものだと俺は考えている。
山を登っていくうちはいい。登るという行為は辛いことだが、確実に自身の成長が感じられるものだ。しかし、やがて峠を越してしまうと、あとはひたすら下るしかない。
俺はとうの昔に、山頂を超えてしまっていた。
俺はもう、これから先は、衰えるしかないのだ。
技術を磨き、ある高みに到達するという手段もあるだろう。技術は歳をとっても失われないものだからだ。
だが、人間が強い時期というのは、刹那だ。
いくら技術を磨きぬいたところで、最盛期のボクサーのジャブを見切れるかといえば、そいつは不可能としかいいようがない。技の起こりが分かったとしても、肉体がついていかなくなるのだ。
達人の域に達した老人が、肉体と技を磨きぬいたバリバリのMMA選手に勝つ。物語ではたびたびお目にかかる光景だが、実戦でそれが実現するかといえば、まず不可能だ。
現実は残酷で、わずかな幻想すら許してはくれない。
それを肌で感じている俺だからこそ、その言葉の重みは誰よりも理解ができる。――だが、ちょっと待て。浮かれる俺の心のなかの何かが、警鐘を鳴らしている。
それは俺にとって、本当にいいことなのか。
嫌な予感がして、俺はヴェルダに尋ねた。
「ヴェルダ。ひとつ聞きたいが、俺が強くなれるというのは、まさか、ドーピング的なことではあるまいな?」
『なんだい、ドーピングってのは?』
「ああ、すまない。簡単に言うならば、違法な薬物を摂取することにより、肉体を強化するということだ」
『ふうん、あんたの世界ではそういうのは禁止なんだね。それにしたって、この世界と、あんたの世界の法が同じなわけがないし、違法薬物なんて一言で片づけられる問題なのかね?』
彼女の言葉は一理も二理もある。ここは異世界なのだ。
依頼のためとあらば、相手を斬殺しても許される世界なのだ。俺が住んでいた世界の法律とは、まるで違う。だが、世界がどう変わろうと、俺には譲れないものがある。
「――あんたのいうとおり、ドーピングはこの世界の法には触れないかもしれない。だが、これは俺の矜持の問題でね」
『格闘家としての意地ということかね』
「平たく言えば、そういうことだ」
『安心しな。あんたの想像してるような薬物は使わないよ。むしろ、肉体の一部を最盛期に戻すという感じかね』
「肉体の一部とは――?」
『動体視力といえば、あんたにはわかるだろう』
「馬鹿な――。そんなことが可能なのか?」
近年のスポーツ医学は、どんどんと発展している。ビジョン・トレーニングという、動体視力を向上させる取り組みも確立されてきている。
しかしそれにも限界がある。ビジョン・トレーニングは動体視力の低下をある程度、抑えることができるが、加齢による衰えを完全に防ぐことは不可能なのだ。
でなければ、引退などという概念は存在しないだろう。
『あんたの世界じゃ不可能かもね。だけど、私には可能だよ』
「どうすれば、それが可能なんだ? どこかに若返りの泉でも湧いているのか?」
『せっかちだね。そう結論を急ぐもんじゃないよ』
優しく諭すように、ヴェルダは微笑んだ。そして指先をすっとこちらへ向ける。すると、ひらりと一枚の紙きれが俺の手元に落ちてきた。
手書きの地図のようだ。
とすると、先ほどまでヴェルダが忙しく指を動かしていたのは、この地図を記していたためだろうか。地図へ眼を落すと、そこにはこの森を抜けた先の道筋が、克明に記されている。
「この地図は――?」
『行けばわかるよ。そこに、ジュラギという名前の魔法使いがいる。私よりもはるかに偏屈な奴さ。そいつから、アクマヤナギの粉末をもらってきな。ヴェルダから頼まれたといえば、すぐに通じるはずさ』
「ここから歩いて、どれくらいかかる?」
『そうさね、4か月で着けばいいほうかね』
「おいおい、ヴェルダ。たしかに俺は強くなりたい。だが、そんなにながいこと旅している時間は――」
『安心しな。外にいるあたしの馬を貸してあげるよ』
「あの、バイコーンとかいうやつか」
『あの馬の脚なら、あっという間さ。ただ、その地図に記している場所はちょっとした迷路みたいなもんでね。馬じゃ無理なんだ。だから途中からは、自らの足で歩くんだよ』
「――わかった。感謝する、ヴェルダ」
俺は彼女に向って、深く頭を下げた。
『おやおや、えらく素直になったじゃないか』
「俺にこんなチャンスをくれたからな、下げる頭が必要なら、いくらでも下げるさ」
――俺にはまだ、強くなるチャンスがある。
それだけで、俺の胸のなかの希望の炎も灯ろうというものだ。
フォルトワと闘ってわかったが、俺の肉体はほぼ、10年前のあの頃と同等の動きを取り戻しつつある。これで動体視力も戻ってくるというのなら、ほぼ、全盛期の俺に近い。
俺はテーブルの下で、両の拳を握りしめていた自分に気付いた。
こんなにも俺のなかに、まだ、熱いものが滾っていたのか。
俺はまだ、こんなに強さに飢えていたのだ。
そうだ。
このまま、尻尾を垂れた敗け犬で終われるものか。
神田蒼月のやつに、思い知らせてやるんだ。
やつに敗北の二文字をプレゼントしてやるんだ。
そのためなら、どんな努力も惜しまない。
「さっそくで悪いが、俺はこの地図の場所へ向かいたい」
『落ち着きのない男だね。まあ、気持ちはわからんでもないよ。それなら道案内に、そこの不肖の弟子を連れて行きな。――ああ、そんな露骨に嫌な顔をするもんじゃないよ』
「む、そうか。気を付けよう」
俺は思わず、つるりと自分の顔を撫でた。どうも俺は、自分で思っているほどのポーカー・フェイスではないようだ。
「そうそう。ボガードは、失礼だよ」
メルンが不機嫌そうに、こちらをにらんでいる。
気付かずにしていた事とはいえ、確かにこいつは俺が悪い。
「悪かったな、メルン。詫びの代わりに、何かしてほしい事でもあるか?」
メルンは一瞬だけ考え、にっこりと笑みを浮かべて、
「それなら、今度デートしよう」
その言葉に対し、俺は無言だった。
メルンは俺の表情を見て、再び不機嫌になった。
さぞかし俺の貌には、露骨に嫌なものが浮いていたんだろうぜ。
『強さを求めて』その1をお届けします。
次話は土曜日を予定しております。




