その9
強い風が、俺の顔を叩いている。
俺はいま、バイコーンとかいう化け物の背に揺られている。
行く先は告げられていないが、この馬がまるで導かれるように、まっすぐに旧街道を疾っている。周囲の景色がちぎれ飛ぶように背後へ消えていく。
俺には、ゆっくり風景を眺めている余裕はない。
乗馬経験の乏しい俺には、現在の位置を保つのが難しいのだ。
俺の前には、メルンが乗っている。
そのメルンの細腰に手を回すように、いや、ほとんどすがるようにして、俺はバイコーンに跨っている。この馬もどきは休息を必要としないのだろうか、周囲の景色が闇色に溶けてもなお、その勢いを止めようとはしない。
暗澹たる空間に身を包んでいても、バイコーンには道が見えているのだろうか、わずかな失速すらしないのだ。気が付けば、この馬もどきはなんと街道を突っ切り、森林を駆け抜けているようである。
蔦や、灌木に足を取られれば、命がない。
まったく、正気の沙汰じゃねえな。
まるで平地を疾るがごとく、バイコーンの勢いは止まらない。
俺はもう、好きにすればいいと半ばあきらめ、己の態勢を維持することにつとめた。まるで樹々のほうが避けてくれているかように、この馬もどきは矢のようにまっすぐに突きすすんでいる。
俺はすこし、考え事をする余裕が出てきた。
考えることはひとつ、神田蒼月のことである。
蒼月の姿は微塵もなかった。あの古城には、おそらく、どこか遠くの位置まで脱出できる秘密の経路があったのだろう。昔のお城には、そうした偉い人だけを落ち延びさせる装置が、ひとつぐらい備わっていると聞いたことがある。
しかし、あんなペテンに、あの蒼月が引っかかってくれたのだろうか。
いや、あいつはわかっていて見逃してくれた節がある。
そもそも、あいつが本気を出せば、俺を失神させて帝国へと強引に連れて行くことだって可能だったはずだ。俺たちには、それだけの実力差が大きく横たわっている。
それを奴は、敢えてしなかった。
(そこには、どういう意図がある――?)
俺は考えてみた。まず、あいつが去り際に放った一言、
『あなたは、近い将来、結局は帝国に来ることとなります――』
その予言めいた一言が気にかかっていた。
あいつには、強引に拉致しなくとも、俺がゼーヴァに来てくれるという確信があるのだ。
まず今のままでは、到底行く気にはなれない。
あの男との実力差は、過去と比較にならぬほど、ますます広がっていた。俺の実力が、10年の歳月を経て鈍ってしまったというのもあるだろう。少なくとも、蒼月はそう思い込んでいる。
だが、俺は闘ってみて、違うと思った。
おそらく、蒼月の全盛期は、今なのだ。
やつは、俺と闘った当時はまだ、高校生だった。
あれから10年の歳月が経ち、俺は37歳になった。奴のトシは27ぐらいだろう。つまり、全盛期だった俺とほぼ、同じぐらいの年齢である。
俺はさんざん叩きのめされた当時のことを、想い返していた。
まるで勝てなかったが、まだ、あのときの蒼月の動きは見えていた。一応、空手の試合にはなっていたのだ。しかし、先ほど見た、蒼月の技の冴えはどうだろう。あの時よりも、動きがキレているし、技が見えない。日本刀の達人に斬られたかのように、ただ、据え物斬りにされただけだ。
俺の劣化うんぬんの話ではない。
やつがさらに上の次元に行ってしまったのだ。
蒼月は俺のことを、高く評価しすぎている。
だから、俺がこの屈辱を晴らしに来るとでも思っているのだろう。やつには残念なことだが、そいつは無理な相談だ。俺にはそんな気概すらない。
動物園で飼い慣らされた、牙の抜けた老いぼれライオン。
そいつが俺だ。
「なにニヤついてるの?」
背後も見ずに、無機質な声でメルンが訊いてきた。
「別に、ニヤついてなどいない」
俺は憮然と応じた。我ながら、疾走中の馬上でこういう会話をして、よく舌を噛まぬものだ。魔岩とか、バイコーンとか、先ほどから異常な状況が続いている。考えるだけ無意味なことかもしれなかった。
「そう、そろそろ到着するから、準備して」
「準備って、なんだ――――」
そこから先は、俺は言葉にならない雄叫びを上げていた。
疾走する緑が切れ、地上が消失していたのだ。
バイコーンは、崖から飛び降りた。
この状況は、これまで起こったどんな出来事よりもばかげていた。
メルンはバイコーンの鞍に跨ったまま、微動だにしていない。俺は身が中空に投げ出されぬよう、その安定した細腰に摑まっているしか術がない。
やがて信じられぬことに、バイコーンはふわりと下草へ着地した。
俺は頭上を見上げた。俺たちが落ちた崖は、霧に煙って見えない。
ざっと100メートルは落下したのではないか。命が無事な理由がよくわからなかった。だけどいちいち驚いていちゃ、このトンチキ集団にはついていけねえ。
バイコーンはここで静止し、身を屈めた。
降りろということらしい。俺はだまって叢に足をうずめ、メルンの杖に灯った明りを頼りに暗闇を進んだ。やがておぼろげな灯りが遠くに見えた。近寄ると、ほぼ垂直な崖の側面に、ランタンのような光が灯った、アーチ状の木製の扉を発見した。
メルンはその扉を乱暴にどんどんと叩き、
「来たよ――!」
と、幼児まるだしの言葉を叫んだ。
おれが呆れて何か言おうとすると、メルンは背後の俺を突き飛ばすかの勢いで後方へと下がった。なんだなんだと言おうとした矢先、すごい勢いで扉が外側に開いていた。
扉は樫で作られているのか、頑丈で重そうだ。
まともに食らっていたら危なかったな。そう考える暇もなく、
『さあさ、ふたりとも、こっちへいらっしゃい――』
老婆の声が部屋の中から聞こえた。
もとより、ここまで来て引き返す道はない。
俺はずかずかと扉をくぐった。
『靴の泥はよく落として入ってきなさいね』
俺は黙って言うとおりにした。玄関の石畳で靴の泥を落とすと、すぐ目の前に部屋があった。廊下はない。部屋のなかは外とはうってかわって明るかった。
想像よりも広いが、どこにでもある普通の木造りの部屋だ。どうやらここが応接間なのだろう。しゃれた細長いテーブルがあり、奥の椅子に老婆が腰を降ろして、何やら忙しく指先を動かしている。細かい手作業のようだった。
長いテーブルの両脇に、空いた椅子がふたつ用意してある。老婆はこちらも見ずに、指先だけで、その椅子に座るように指示する。俺が無言でその席に腰を下ろすと、目の前にお茶の入ったティーカップがあった。最初からあったのか、それとも突然降ってわいたのか、よくわからなかった。
やがて作業が一段落したのか、老婆は顔をあげた。
俺は魔女の師匠というからには、腰が曲がって、鷲鼻でしわくちゃで、いつも得体のしれないドロドロの液体をかき混ぜているようなイメージしかなかった。
しかし目の前にいる老女は、背筋は伸び、眼鏡をかけ、優しい微笑みを浮かべた貴婦人だった。彫りの深い顔立ちは整っていて、さぞかし昔は美人だったのだだろうと思わざるを得ない。
服は魔女らしく、黒マントというわけでもない。緑のカートルの上にケープをまとった、まるで自然と一体化を図っているかのようなスタイルである。
『逢うのにかなり時間がかかったわね、カミカクシ?』
その声で、俺は我に返った。
「ああ、あんたには聞きたいことが山ほどある」
『では、何を最初にききたいのかしら――?』
おれは、こう応えた――。
『運命の岐路』その9をお届けします。
次話は土曜日を予定しています。




