その5
「今の俺と、仕合おうというのか」
「そうは聞こえませんでしたか――?」
神田蒼月の全身から、ゆらゆらと立ち昇るものがあった。
視覚的には捉えることはできない。
だが、暗い廃墟の空気が色を変えたように、はっきりと重くなった。
この男が殺気を開放しているのだ。
腕の立つ人間ほど、殺意を感じさせないという。
だが、この男はわざと、こうしているのだ。
傍らにいた少年の身体が、再び小刻みに慄えはじめた。
関係のない、侍従の少年すら怯えさせるほどの殺気。
――俺を挑発するのが目的なのだろう。
「お前はもう、俺と仕合っても、得るものはないだろうと先ほど言わなかったか?」
「今はありますよ。ビジネスパートナーを得る、というね――」
これは本気の眼だ。やるしかないということらしい。
皮膚の表面に、まるで毛虫が這いつくばっているかのような、ぞわぞわとした不快感があった。胃の奥から何かがこみあげてくる。俺は歯を食いしばり、それを喉のあたりでかろうじて押しとどめる。
俺は、嘔吐しかけていたのだ。
純粋なる恐怖が、ひたひたと俺の全身を押し包んでいた。
「――破アッ!!」
俺は肚の底から、大きな気合を発していた。
気圧されるな。怖じるな。下がるな。
闘う前から敗ける馬鹿がいるか。
やるなら、闘ってからだ。
「そろそろ、よろしいですか――?」
蒼月が無表情で尋ねてきた。
わざわざ律義にも、待っていてくれたらしい。
俺はかるく頷いた。ふたたびアップライトに構える。
対する蒼月は、何の構えも取ってはいない。
驚くにはあたらない。この男は、常にそうなのだ。
まるで水のように流麗な立ち姿で、相手の技をいなしてしまう。
実戦派空手を謳う、天空寺塾のやり方とは根底から違う。
俺たちの日常は、ガードの上からガツガツと削りあうのが主体のようなものだ。空手は一撃必殺などとよくいうが、実際は夢物語にすぎない。
たとえば相手が、なんの格闘経験もないド素人だったり、技量がはるかに隔絶しているような奴ならば、可能なのかもしれない。だが、ある一定のレベルにまで達している猛者が相手となれば、そうはいかない。
互いに隙を見ては撃ち、かわし、ブロックし、相手の消耗を誘う。
一本で勝敗が決しない場合が、意外なほど多い。
だから複数の審判が協議して、勝ちを決めるのが普通だ。
技あり、ダメージ、有効打、積極性などが、判定の基準となる。
俺はその中でも、屈指のKO率を誇っていた。
これは揺るぎのない事実だ。
だが、この男はそんな俺を、はるかに凌ぐ。
俺は見てしまった。この目で、この男の世界大会での圧倒的な連続KOを。
同じ人間とは思われないほどだった。
あれから10年――。この天才も3連覇達成後、カミカクシに遭ったのだ。つまり、それだけの期間、空手から遠ざかっているのだ。
腕が多少衰えていても、不思議ではない。
俺だって、この異世界で鍛えなおして、ここまで来た。
人の命が羽毛のよりも軽い、この異世界で、傭兵として今日までどうにか生き延びてきたのだ。たとえ相手がこの男だろうと、そう簡単にはいかせない。
俺はグっと両腕を顎先に持ってきて、ガードを固めた。
そこから、得意のロー・キックを放つ。
身体からは、変な力みが消えていた。
我ながらしなりの効いた、いい蹴りだった。
並みの相手なら、まず倒せるし、それなりの相手でも、牽制にはなる。そういう一撃だった。だが俺は失念していた。いや単に、考えることをやめていただけだったのかもしれない。
――この目の前の男の、天才性を。
俺の視界は、漆黒を捉えていた。
そこは真の暗黒だった。俺は月も星も、何一つ見えない闇に抱えられていた。――いや、光明がある。ランタンの灯りだ。心配そうな顔が、頭上から覗き込んでいた。
あの少年だ。つまり俺は、廃墟の床に寝転がっているのだ。
「――なにが、起こったのだ?」
「あ、あなたは、倒れたのです」
「どうやってだ――?」
「わ、わかりません。私には何が起こったか。ボガードさんが、氷の将軍さまに蹴りを放ったと見えた瞬間でした。――不意に崩れ落ちるように、あなたは倒れたのです」
俺は、敗けたのか――?
わけがわからなかった。ただ俺は、ローを放っただけだ。
それなのに、今の俺は大地から少年を見上げている。
なんてざまだ。これでは勝負にすらなっていない。この俺が、相手が何をしてきたのかすら、理解できないとは――。
「どうしたんですか、ボガードさん」
「――どうした、とは?」
「笑っていますよ。さっきから」
そうだ。俺はいつのまにか笑っていた。
だって、こんな滑稽な話があるだろうか。俺は弱かった。蒼月の技がまるで見えないほどに、弱くなっていたのだ。これほどまで弱いくせに、この異世界では徒手空拳で敗けぬ、などと考えていたのだ。俺はいままで、強い振りをしてきただけだったのだ。
そう考えると、おかしくてたまらなかった。
嗤えよ、蒼月。お前も滑稽でたまらないだろう?
そう思って、俺は上体を起こし、蒼月の姿を探した。
奴は相変わらず、両手を下に垂らして突っ立っていた。
蒼月の顔は、まるで嗤ってはいなかった。
その双眸から、すうっと流星のように美しい雫が零れ落ちた。
「よもや、ここまで――」
そういって、蒼月はしばし絶句した。
絶句したまま、しばし天をにらんでいた。
涙を堪えているらしい。だが、その雫は、あとからあとから頬をつたい、地に零れ落ちてくる。止まらなかった。
「ここまで貴方の腕が落ちていたとは、思いませんでした」
絞り出すように言った。
その声にはいささかの嘲りも含まれていなかった。ただただ、憐憫と、深い哀しみに満ちていた。その憐憫は俺に向けられたものか、それとも己に向けられたものか。両方であったかもしれない。
「心のどこかで、僕は淡い期待をしていたのですね」
どこか上の空で、ぶつぶつと呪文でも詠唱するかのように、蒼月はつぶやいている。それはまるで、己に言い聞かせるかのようだった。
「僕はあのときの続きができると、心のどこかで期待していた。だけど月日は容赦なく過ぎ去り、彼の強さを遠くへ連れ去っていってしまった。――もう、二度と、あの勝負の続きはできないのですね。ここにいるのは、もうあのときのボガド先輩ではないのだから……」
「失望させちまったとしたら、悪かったな」
「はい、失望させられました」
「それなら、俺が帝国に行くという話も、ご破算だな」
「それとこれとは、話が別です」
「おいおい、俺の実力はもう見ただろう。俺はもう、お前の技量にはついていけない。お前の言う通り、俺は老いさらばえちまったようだ。そんな俺が、お前のアシスタントなんて出来るわけがねえ。足を引っ張るのが、せいぜいさ」
「それは貴方が決めることではありません」
「お前が決めるというのか」
「それも、違います」
「では、誰が――?」
「私ですよ、ボガードさん」
いつのまにか俺のすぐ傍には、にこにこと、髭面の奥で人のいい笑みを浮かべる亜人がいた。――もちろん、フォルトワ・リバロだ。
しかと見れば、その瞳の底は、明らかに笑ってはいない。
俺を探るような光を発している。
「僕には、出来が悪いですが、弟子は幾人かいるんですよ。彼はそのひとりでね――」
「そういうことです、ボガードさん。不肖、氷の将軍さまの弟子である私が、あなたを査定します。将軍から教え込まれたカラテでね」
「ただ者ではないと思っていたが、空手を齧っていたのか」
「ええ。しかしこの分では、あなたから学ぶことなど、なさそうだ」
「ずいぶんと、面白いことをいうドワーフだな」
「あまり冗談は得意ではないんですが、まあ正直な感想ですよ」
「いいだろう。乗ってやろう、その挑発に――」
俺はゆらりと立ち上がった。俺を看ていた少年があわてて止めようとするが、怪我をするから下がっていろと、後ろへと追いやる。
身体の芯には、まだダメージが残っているようだ。
だが、このままでおくものか。
敗けたままで終わってたまるものか。
舐められたままでいるというのは、性に合わねえ――。
俺とフォルトワは、対峙した。
『運命の岐路』その5をお届けします。
次話はできれば今週中にと思っていますが、あいにくの煩雑さで
ひょっとしたら来週になってしまうかもしれません。ごめんなさい。




