その4
重苦しい漆黒の内部に、一条の光が差し込んでいる。
その光は、たったひとりの長身痩躯の男を照らし出していた。
それはちょっとした、幻想的な光景だった。陽の光が、蒼月のつややかな黒髪に反射している。それは、あたかもこの男が、光の王冠を頭上に戴いているかのようだった。
まるでこの廃墟の城そのものが、彼のために用意された舞台装置のようだ。
俺は、すでにアップライトの構えを解き、奴を呆然と見つめていた。
蒼月の意外な申し出に、困惑していたのだ。
こいつは、俺の宿敵とも呼べるような男だ。
だが、この男にとって俺は、どんな存在なのか――?
考えてみたことはなかった。
まず、とても障害とすら呼べるものではないだろう。何しろ、俺はこの男に勝ったことがない。それどころか、幾度も無様なダウンを喫している。
それも道場の練習中――大勢の後輩が見守る中で。
あまりにも、惨めだった。俺は自分を恥じた。
誰だって、自分の価値を見出そうとする時期がある。俺は何者なのだろうかと、俺に何ができるのかと、自問自答するときがくる。
学校の勉強はついていけず、早々にドロップアウトした。運動は得意な方だったが、どうにも団体競技というものが、性に合わなかった。孤高といえば聞こえがいいが、俺は集団生活に馴染めない男なのだ。
空手の強さだけが、取り柄だった。
それを一蹴された。この男に、全否定されたのだ。
おのれに、何の価値もないと思って当然だろう。
だからこそ、蒼月が俺をスカウトする理由がわからない。
しかし、やつの口元には微笑がはりついているものの、眼差しは嗤ってはいない。冗談で口にしていることとは思えなかった。
「どういう意図で、俺を勧誘する。俺は、お前に手も足も出なかった男だ。お前にとっては、路傍に転がる石ころに過ぎないんじゃないのか――?」
「――だから、ボガド先輩は自己評価が低いと言っているのですよ」
「どういう意味だ」
「僕はね、あなたとの勝負で、大変な感銘を受けたのですよ」
「感銘――?」
「ええ。あなたは僕との勝負から逃げなかった」
「いいや、俺は逃げた。――負けたまま、逃げた」
「それは違います。僕に負けた相手は、まず一度はリベンジしようとしてきます。――こんな優男に、俺が負けるわけがない――そうつぶやいてね」
「ふん――」
俺は鼻を鳴らしていた。
多少は身に覚えのあることだったからだ。
「そして二度目――。再度倒してあげた相手は、もう僕に逆らおうとはしてきません。それは世界大会でも同様でした。連覇がかかった翌年の大会は、まだよかった。前回、僕に負けた連中は、死に物狂いで向かってきたものです。もうこいつに負けはしないと――」
「だが、それでもお前は、またも優勝をかっさらった」
「はい。前回同様にね。すると、もう次の大会からは無残なものでした。誰もかれも、僕を恐れて、本気で仕掛けるのをためらうのです」
「そうか、それでお前は――」
「ええ、3回目で、僕はすっかり白けてしまったのです。これ以上、この世界に留まるのは無意味だと、絶望を抱いてしまったのです」
「それでお前は、この異世界へとやってきた――」
「はい。僕は運がよかった――。ですが、その運も急速に失われつつあります」
「どういうことだ」
「これは、先ほどの話とつながるのですが、僕は致命的に、人にものを教えるということに向いてない人間なのです――」
「そうなのか」
「はい。僕はどんな技も、一度見れば充分です。それだけで覚えてしまいます。――ですが、それは感覚的なものに過ぎません。その感覚を、誰かに教えようとしても、無理なのです」
「いかにも、天才らしい話だな」
「僕には、優秀なサポートが必要なのです。それがボガド先輩、あなたなのです」
「また、振り出しにもどったな」
「ふりだしとは――?」
「お前がものを教えるのが下手なことは、よくわかった。――だが、俺との勝負で、お前が感銘を受けたという理由がわからない。俺はお前の才能の前に、膝を屈しただけだ」
「――違います。あなたは、何度も僕に向かってきました。幾度叩きのめされようが、あなたは立ち上がってきた。倒しても、倒しても、あなたはこう言った。『もう一度だ』と」
「たんに、頭に血が登っていただけさ」
「僕は、あのとき初めて、空手が楽しいと思ったのです」
「俺を叩きのめすことで、変な感情が目覚めたのか?」
「そうではありません。どんなスポーツも、僕にとってはつまらなかった。みんな、取るに足らない腰抜けばかりでした。――ですが、あなたは違った。空手にはなんてすごい男がいるのだと、心からそう思ったのですよ。僕はあのとき、血液が泡立つような感覚に包まれていた――」
「褒められているのか、けなされているのか、よくわからんな」
「だから僕は、この道を歩む決心をした。空手が楽しいと思ったからです――ところが、この世界の先には、何もなかった。あなたより闘って楽しい相手など、存在しなかったのです」
「そいつは残念だったな」
「はい。無念でした。今思えば僕はどこかで、あなたを待っていたような気がします。あなたがいつか、『もう一度だ』と言って、向かってくることを期待していたのです」
「そいつは、悪かったな。俺はトラックの運転席に収まっていたんだ」
「識っています。実に、無念でした――。そうでなければ」
「そうでなければ、なんだ――?」
「僕があなたの許に行って、勝負を仕掛けていたかもしれなかった」
俺はぎょっとして眼をむいた。だが、蒼月の表情に変化はない。
――本気で、そう思っていたということか。
怖ろしい男だ。美しいが、どこか頭のネジがぶっとんでいる。もし職場に、この男が現れていたなら、俺は卒倒する自信があるぜ。
「ですが、あなたは多忙で、しかも長距離のドライバーだ。とても捕まえられるものではなかった。それに僕が、この異世界に落ちてから、およそ6年は経過しています」
「なるほどな。3連覇から、それほど経たずに落ちたということか」
「そうです。それにしても、あれから10年――。10年はあまりに長過ぎた」
つぶやいて、蒼月は長い睫毛を閉じた。
どこか悔しそうな感情が垣間見えるのは、気のせいだろうか。
「もう、今のあなたを倒しても、得るものはないでしょう。ですが、老いたとはいえ、あなたの技術は確かです。だからこそのお願いなのです――」
「ようやく、話がつながったようだな」
「はい。繰り返しになりますが、僕とともに、帝国へ来てください。あなたの空手術は、若い才能へと伝えるべきです」
いつの間にか、津波のような動悸が収まっていた。
不思議と心は清明さを取り戻している。
俺の答えは、ひとつしかない――。
「――断る」
声は漆黒の廃墟の隙間へと、吸い込まれていった。
蒼月は、特に動じた色もない。
ただ、不思議そうに首をかしげている。
「にべもありませんね。――でも、なぜです。この国には、誰ひとりとして、あなたの空手を評価する者など、いないではないですか。今のあなたは、ただの傭兵の一技術として、その腕を腐らせているだけです。こんなちっぽけな王国にいても、あなたの先は知れていますよ」
「やはりな――」
「やはり、とは――?」
「お前はまるで、誰よりも俺のことを理解しているようなことをいう。だが、やっぱりお前も、他の連中と一緒さ」
「どういうことでしょう」
「俺は所詮、野良犬さ。だがな。野良犬には、野良犬のプライドがある」
「――――」
「野良犬は、野垂れ死んでも、誰も恨まない。それは、自分で選んだ孤独だからだ。首輪につながれて肥るより、野垂れ死ぬ方が幸福な人種もいるんだよ」
「それが、あなたの選んだ答えですか――」
「そうだ。遠路はるばる、悪かったな」
「いいえ、僕はまだ、諦めたとは言っていませんよ」
「――どういう意味だ」
「僕には、力があります」
「ああ。なにしろ氷の将軍さまだからな――」
「いいえ。権力ではありません。純粋な、暴力です」
蒼月の顔から、ふと、感情が消えている。
俺の全身は総毛だった。先ほどまでかろうじて踏みとどまっていた足が、わずかに後退していた。この男の無言の圧力に、押されたのだ。
「僕はあなたを、帝国へと連れて行きたい。しかし、あなたは、行きたくないという。――それならば、こういう決着方法はどうです?」
蒼月は優美なしぐさで、人差し指を立てた。
「なんだ――?」
「空手家らしく、拳で。そう、言っているのです――」
『運命の岐路』その4をお届けします。
次話は、翌火曜日を予定しています。




