その3
『あなた、有名なボガド先輩ですよね――?』
振り向いたその一瞬を、俺は今でも鮮明に覚えている。
そこに立っていたのは、一輪の白百合のような美少年だった。
学生服を着ていなければ、女の子と間違えたかもしれない。
『優勝候補の筆頭である、ボガド先輩の胸をお借りできたら――』
あのときのやりとりが、否が応でも脳裏によみがえってくる。
あれから10年――。すべては音もなく変化していった。
歳月はあっという間にあの瞬間を、遠くへ押し流してしまった。そう思っていた。だが、時は凍り付いたまま、一ミリもすすんでいなかったらしい。
何故なら俺は、こんなに怯えているじゃないか。
――神田蒼月。
身長は伸びて、ほぼ俺と同じぐらい。女性のように細かった身体は、鍛えられ確実に厚みを増している。だが、いささか精悍さを増したものの、その美貌はまるで衰えてはいない。天然のライトを浴びたこの男の神々しさは、その名を文字通り体現しているように思われた。
「……なぜ、おまえが、こんなところにいる――?」
俺は身の慄えを悟られぬよう、ぐっと足を踏みしめて尋ねた。
だが、聡いこの男のことだ。とっくに察しているだろう。
俺の怯えを、恐怖心を。
蒼月はしかし、まったく意に介してないように、
「センパイ、せっかく10年ぶりに再会したのです。久闊を叙して乾杯といきませんか?」
「お前と俺は、道場で仕合っただけだ。それもあの一日だけ――。酒を酌み交わすような仲ではなかったはずだ」
「冷たいじゃないですか、先輩。その後も、会っているでしょう?」
「――――」
「わかってましたよ。先輩があの大会を観に来ていたことぐらい」
「ちっ」
こらえきれず、思わず舌打ちしてしまった。
気付かれていたとは思わなかった。
――そう、蒼月が優勝したと、風のうわさで耳にしたというのは、嘘だ。俺は直接、千代田の日本武道館で行われた、無差別級の空手トーナメントを観戦しに行っていたのだ。
この男の強さは、圧倒的だった。
世界空手トーナメントは、外国人選手が有利だと言われている。
ごついプロレスラーのような分厚い筋肉を誇る外国人選手が出場する世界大会では、基本的に体格で劣る日本人が勝つには、技術力しかない。
技術――。簡単にいったが、容易なことではない。
生まれつき巨大な体格に生まれついたものに、そうでないものが、ただ技術と克己心で勝つのは、並大抵なことではないのだ。
事実、過去3年間、このトーナメントの優勝者は、すべて外国人選手だった。
しかし、この男は造作もなく、その難しいことを成し遂げた。
まるで舞のように、華麗に――正確に――人体の急所を撃ち抜き、巨木のような外国人選手をばったばったと薙ぎ倒していったのだ。
その様は、まさに見ものだった。
まるで時代劇の殺陣のように、華麗に相手を倒していく、うら若き美少年。
最後の相手がやつの前に沈んだとき、やつは派手なガッツポーズはおろか、微笑さえ浮かべはしなかった。
氷のように相手をみつめたまま、しっかり残身を取っていた。
一部の隙さえ与えない。
その姿を見て、俺は認めざるを得なくなったのだ。
この男には、決して勝てない――と。
「あの大会の後、お前は前人未到の3連覇を果たしたと聞いた」
「周囲は騒ぎましたが、難しいことではありませんでした」
「そしてお前は、いつしか空手界から姿を消した――」
「退屈でしたからね。空手は――」
「――退屈だと?」
「はい、僕を倒せる者がいない世界に、いつまでいても意味がないですからね。僕はキックに転向しようか、それともMMAに転向しようかと考えていました。ですが、どちらもしっくりこなかった」
「しっくりこなかった、とは――」
「そちらのほうでもね、僕の練習相手はみんな壊れてしまったのです。スパーリングパートナーには、かつてこの世界で王者だったとかいう人もいましたけど、それほどの手応えはなかった」
「お前らしい話だ」
同じ言葉を他の人間が放ったなら、誇張に聞こえたことだろう。
だが、この天才が語る言葉は、すべて真実なのだ。
「僕はそこで、失望を覚えたのです。この世界の格闘技は、あまりにもつまらない。では、もっと違う世界だとどうだろうと考えたのです――」
「すると、お前は望んで、カミカクシになったのか?」
「――そうかもしれませんね。僕はあまりにも人生に退屈しきっていた。もしかすると、心のどこかで、死をも渇望していたのかもしれません」
「お前ほどの才を持ったものがか――?」
「大きすぎる才などは、ない方がいい。そう思いませんか――? 他人と切磋琢磨することもなく、孤独に勝利だけを刻んでいく虚しさ。そこには何もないのです。僕には、勝利しかなかった。それに対する感動も、情熱も、思い入れも、何一つなかったのです――」
こいつは、これほどしゃべるやつだったのか。
もっと寡黙な男だという印象だったが、今日のこいつは柄にもなく、饒舌になってしまっているようだ。
同じカミカクシと会ったがゆえの嬉しさなのか、それとも旧知の人間である俺と再会した興奮か。こいつの心境はよくわからない。
「お前は、ここで『氷の将軍』と呼ばれているようだな」
「帝国では、そういう二つ名です。かっこいいですか?」
「いや、自分で名乗っているなら、単なる痛い奴だが、お前はそういう人種ではなさそうだからな」
蒼月は、得たりとばかりにそっと微笑し、
「そうなんですよ。僕が落ちたのはゼーヴァ帝国でした。――識っていましたか、ボガドさん。帝国には、カミカクシが多いのですよ。フランデルより、圧倒的にね」
俺はミトズンの言葉を思い返していた。彼は、俺たちがアコラの町では200年ぶりのカミカクシだというようなことを言っていた気がする。それだけフランデルには、カミカクシという存在がいないのだ。
しかし、帝国には、もっとたくさんのカミカクシが存在するらしい。
この差は何なのか。単なる国土面積の差の問題なのか。
蒼月のはなしは、続いている。
「僕は帝国にいる武の達人とやらを、片っ端から薙ぎ倒していきました」
「お前から、仕掛けたのか――?」
「――なぜです? ああ、ボガドさんのときはそうだったからですね。いえ、きっかけは、僕がカミカクシだということがばれて、帝国のお偉いさんに囲まれたときでした――カミカクシには、何か取り柄があるはずだ。お前は何ができる――? そう問われ、『僕は強いです』と言ったのですよ。すると、失笑されましてね」
「お前の見掛けでは、そうなるだろうな――」
まったく、識らぬほど幸せなことはないだろう。
この薔薇には、棘がある。いや、刃物に似た凶器が埋まっているのだ。
「それで、ただでは済ませなかったのだろう?」
「ええ、全員叩きのめしてあげました。すると、帝王ディアグル三世から呼ばれました。彼の前で、俗にいう、御前試合というやつを行いまして」
「また、勝ったんだな――」
「はい。帝国軍人といって威張っていても、所詮は人間ですからね。手もあれば、脚もある。急所もね――。最後は逆上して、腰剣を抜こうとさえしてきましたよ」
それをこの男は、遮った。
あろうことか、剣を抜く直前の男の柄頭を抑え、
「駄目ですよ、おいたは――」
と、ささやいたらしい。
かなり、ぞっとする光景だったようだ。
男は力なく片膝をつき、帝王は快哉を叫んだ。
「天晴この男こそ、帝国一の兵である」と。
「――以来、私は将軍の座を頂きましてね。まあ、特に担当のない、名ばかりの閑職ですが――太っ腹の男ですよ。ディアグル三世陛下は」
「ふうむ。するとお前は、帝国の要人ということになるな」
「一応は、そうですね」
「その要人のお前が、危険を冒して、フランデルまでお忍びでやってきた理由はなんだ――? バレたら、タダでは済まないのだろう?」
「理由ですか、もちろん、ボガド先輩に会いに来たのです」
「そこだ。お前はなぜ、俺に逢おうとしたのだ。俺には、他のカミカクシが持っている英知などはない。10年前に止めちまった、空手の技の残滓があるだけだ――」
「謙遜なさらないでください。ボガドさん」
蒼月は、妖しい笑みを貼り付けたまま、歩み寄ってくる。
俺は、反射的にアップライトスタイルに構えていた。わずかでも後退しなかったのは、奇跡というほかはねえ。
双方、打撃の射程圏内に入った。
俺の鈍った空手の腕で、この天才に勝てるのか。
そうは思えなかった。
だが、俺にはこれしかない。
俺がすがれるものは、こいつしかねえんだ。
しかし、蒼月が口にしたのは、あまりに意外な提案だった。
「ボガドさん。これは個人的にお願いするんですが――ゼーヴァ帝国に来ませんか? 僕はあなたを買っているのですよ。少なくとも、フランデルの連中より、はるかにね」
遅くなりました。『運命の岐路』その3をお届けします。
次話は土曜日を予定しております。




