その6
『俺の位置を見破ったのは、褒めてやろう――』
やつの言葉が、脳内に響きわたる。
『だが、それがどうした。状況が覆ったわけではない』
残念だが、そのとおりだ。
やつの隠形を暴いたのはいいが、立場が変わったわけではない。こちらは2人が武器を失い、1人は魔力切れ。もう1人は体力が底を尽いている。
一方の巨大漆黒狼のほうは、まるでダメージを負っていない。当初の計画とは、あまりに大きな狂いが生じていた。
なぜ、急所への攻撃が通らなかったのか。
その疑問が、俺の脳内を占めていた。
漆黒狼の弱点は、確かに腹部だった。しかし巨大漆黒狼の場合は違うのだろうか。それとも、もっと攻撃の威力が必要だったのか。
「――やつが動き出したぞ、気をつけろ!」
アリウスが俺に声を投げかけてきた。
確かに、いつまでも呆然としてはいられない。敵の攻撃がくる。
あらためて敵を真正面から見る。眼前に広がる黒々とした巨体の質量たるや、圧倒的だった。まるで毛皮の海だ。
こんなどでかい怪物を相手に、ひとりで何ができるのか。
「――せいっ!!」
考えていても仕方がない。俺は全力で剣を振るった。
鼻先に命中したそれは、案の定、硬質の感触に弾き返された。舌打ちしたい気分だった。急所を狙っても効果がないなら、どこを斬りつけても意味などないではないか。
しかし、俺の傍らでは、虫の息のラルガイツが片膝を突いている。
無意味な行為でも、続けざるを得ない。
『もう気が済んだか――?』
乗り手のダークエルフは、俺を見下ろして勝ち誇ったように言った。
この野郎――。
俺の胸中に渦巻いているのは、名状しがたい、どす黒い怒りだった。勝ち誇るこいつの顔面に、跳びあがって、全力の正拳突きをぶちこんでやりたかった。
この怪物が、邪魔だ。
俺が苛立ちを剣に乗せたところで、この怪物を斃す決定打にはならない。もどかしい気持ちで一杯だった。そのときだ。
「えいっ」
気の抜けるような掛け声が背後で響いた。
何かが放たれる気配を感じて、俺は一瞬身をすくめた。
『――むうっ!』
ダークエルフの胸元あたりで、金属のぶつかり合う耳障りな音がこだました。メルンのやつが、ダークエルフ目がけて短剣を放ったのだ。
それを寸前で防いだのは、不思議な形の武器だった。
男は先端が牙のように鋭角な、刃物のようなものを握りしめている。サイズ的に短剣のようだが、あれでは切り裂くことはできまい。いや、先端が奇妙に湾曲し、突き刺すことすら容易ではなさそうだ。
一体、なんの用途で創られた武器なのか。
そういう疑問を浮かべるいとまもない。
「あれだよ」
メルンが指示した。背後の男に向かって。
アシュターは、その言葉にいささかの逡巡も見せることなく、最後の一矢を放った。
『黎明の突風』が、大気を割ってやつに肉薄する。
かわしようがない一撃だった。
男は当然、手に持ったそいつで対処するしかない。
鉄板すら貫通する矢だ。並の武器では太刀打ちできるわけがない。
だが、おどろくべきことにその不思議な得物は、『黎明の突風』の直撃を耐えた。
「なんだと――?」
俺は意外な顛末に、眼をまるくした。
ダークエルフの口許に、一瞬だけ笑みが閃いた。
しかし、そいつは次の瞬間に、たちまち消滅した。
やつが手に持った得物が、砕け散ったのだ。
俺はむしろ、そんな短剣みたいな形状で、よくアシュターの特殊矢を耐え切ったものだと思ったが、当の本人はそう思ってはいなかったようだ。
『うぐあああ、あの方から授かった、盾の護符があ!』
やつは頭をかきむしらんばかりに狼狽した。声には、今まで聴いたこともない、悲痛な響きがこもっている。
それまで浮いていた皮肉げな笑みは、手中の得物とともに砕け散ってしまったかのようだった。メルンがすかさず、やつを指差して告げた。
「――今! 護符の加護は消えた!」
何がなんだか、よくわからない。わからないが、この機を逃してはならないということだけは理解できた。
俺が行動を開始するより先――。突如として怪物が咆哮した。
いや、苦痛のあまりに叫んだのだ。
フォルトワが、砕けた斧刃を振るい、脾腹に突きたてたのだ。
それは、面白いように怪物の体内に埋没していく。
アリウスも同じだった。
折れた剣の残った部分を、気合もろとも怪物の腹部へめりこませる。おびただしい量の血があふれ、あたり一面の草をどす黒い紅に染め上げた。
俺は先ほどの流れを、ようやく脳内で咀嚼した。
メルンが指示し、アシュターが砕いたあれは、ダークエルフの防御手段だったのだ。考えてみれば、アシュターは今まで幾度となく巨大漆黒狼に対し、矢の雨を見舞っている。
騎乗しているダークエルフにのみ、その矢が当たらないという筈はない。
何らかの手段で、それを防いでいると考えるべきだったのだ。
そして今、その鉄壁の防御に穴が開いた。
――この好機を逃す手はない。
俺は苦悶に開かれた、やつの口腔に剣を突きたてた。
ずぶり、という、確かな感触があった。ごぼごぼと血が口からしたたり落ちる。やつが痛みに口を閉じるより先に、俺は身体を引き剥がした。きわどいタイミングだったが、辛うじて回避に成功した。
やれる。もう少しで、こいつにとどめを刺せる。
アリウスも、フォルトワも、俺も、必死に武器を振るっている。
だが、足りない。決定打が。
致命傷に足る、痛烈な一撃が必要だった。
「ラルガイツ、手伝え――」
俺が傍らをふりかえると、そこにいたはずのラルガイツの姿が消えている。驚いたことに、やつは車の点検をするディーラーよろしく、仰向けの状態で怪物の下へと潜りこんでいくではないか。
「ラルガイツ、危険だ。死ぬ気か――?」
「うるせえ、誰かがやるしかねえだろうが」
やつの身体は見る見るうちに怪物の下へと吸い込まれ、足先しか見えなくなった。こうなれば仕方ない。俺は真正面から怪物へ剣を振るった。牽制ぐらいしか、俺ができることはない。
俺が何度か剣を振るうと、突然、びくんと怪物が立ちすくんだ。
全身がぶるぶると小刻みに慄えている。
「グギャアアアアアアアアアアアアッ!!」
巨大漆黒狼の悲鳴が漏れた。
こいつは、脳内に響くダークエルフの声ではない。まぎれもなく、この怪物自身が放った断末魔だ。巨大漆黒狼は数度、同じような悲鳴をこぼした。2度、3度――。そのたび、その声は弱々しくなり、ついに呼吸音しか発しなくなった。
やがて、ついに山が崩れた。やつの四肢が、巨体を支えることに耐えられなくなったのだ。黒い山脈は、その場にひざまずくようにして崩落した。
「い、いかん――!」
俺はあわてて、ラルガイツの両脚を引っぱった。
ほんの一瞬、遅かった。
ラルガイツの胴から上は、巨大漆黒狼の屍の下敷きになった。やつの足は、びーんと宙に向かって浮き上がり、硬直したまま動かない。
俺は全身の力をこめて、やつの両脚をひっぱるが、微動だにしない。
アリウスとフォルトワは、横から怪物の身体を押して動かそうとしているが、梃子でも持ってこない限り無理だ。
『無駄だよ、無駄。――愚かなことをするやつらだ』
怪物の巨体から、ひらりと舞い降りたのは、例のダークエルフだった。
追いつめられているというのに、随分と余裕じゃねえか。
俺の腸は溶岩のように、ぐつぐつ煮えたぎっていた。
「アリウス、フォルトワ。こっちへ来て、手伝ってくれ」
ふたりは、素直に俺の頼みに応じ、ラルガイツの両脚を引っぱってくれた。
3人がかりで引きずって、ようやくやつの上半身が出てきた。
ラルガイツの上半身は、巨大漆黒狼の血にまみれていた。表情もよくわからないほどだ。呼吸をしているようには見えなかった。
「――すまんが、介抱を頼む」
俺は、立ち去ろうとするダークエルフの背中に声をかけた。
「どこへ逃げようってんだ、腰抜け――?」
『――たかだか人間風情が、この俺を、腰抜けだと?』
「そうだ、お前は腰抜けだ。透明化の魔法を使い、防御の護符を使い、巨大漆黒狼を使って、村を荒らした。おまえが何をしたというんだ?」
『なめたことを言ってくれる。武器を持っているからと、大きく出るじゃないか』
「武器とは、こいつのことか?」
俺は、剣を大地に投げ捨てた。できるだけ、遠くへ。
バックラーも同様だ。俺は素手で、やつと向いあった。
『――貴様、正気か?』
「もともと、こっちのほうが本業でな」
『なめられたものだ。たかだか人間が、膂力のみで勝とうなどと』
「能書きはいい――」
俺は、両の拳をゆっくりと顎の高さまで持ち上げた。
身体に馴染んだ、アップライトスタイルだ。
「――こいつで、語ろうじゃねえか」
『怪物との死闘』その6をお届けします。
その7は、できれば年内にはお届けしたいと思っております。




