その4
――ちっぽけな酒場を後にした俺は、宿へと帰ってきた。
「5」と記された部屋の前で、俺は立ち止まった。扉の前で、確認することがある。
俺は闇に沈む床へ視線を這わせた。見つけにくいが、目指すものを発見し、俺はひょいとそいつをつまみあげた。
――ただの木屑だ。
他の人間には単なるゴミだが、俺には特別な意味を持っている。
扉の上のほうに、こいつを挟んでおいたのだ。
誰かが扉のなかに入れば、こいつが落ちるという仕組みだ。
この宿では、部屋の掃除やベッドメイキングのような上質なサービスはない。借りた以上、すべて自分でやれということなのだろう。
つまり、俺が出て行った後にこいつが落ちているということは――すなわち侵入者がいた。あるいは現在も潜んでいる――ということなのだ。
俺は奇襲にそなえ、剣の柄に手をかけたまま、扉を開いた。
誰もいない――?
いや、部屋の隅のベッドの上で、すやすやと寝息を立てている人物がいる。まあ、勝手に侵入しておいて、勝手に他人のベッドで寝る。そんな厚かましいやつは、見なくてもわかろうというものだ。
「――おい、メルン。起きろ」
俺はやつの耳元で呼びかけた。
「うーん、もう食べられないよ……」
「うるさい、さっさと起きろ」
彼女は唇を尖らせて、しぶしぶと起き上がった。前回はちゃんと立って待っていたのに、今回は勝手にベッドを引きずり出して寝ている。放っておくと、どんどん厚かましくなっていくな。
「――で、なにか用があるんだろう?」
「うん、いくつか警告にきた」
「そういうのはもっと、人が多いときにしろ」
こいつは俺に何かを告げると、その後の説明義務を放棄する。
翌日、みんなにいちいち通訳をするのは疲れるのだ。
「とりあえず、簡潔に用件だけを告げろ。そして去れ」
「むー、だんだん、扱いが悪くなってきてる」
そう言われても、こいつのペースに付き合わされてはたまらない。
酒も入っているし、とっとと寝たいのが本音だった。
「じゃあ、用件だけ言うね。明日は低級の呪文、1つしか使えない」
「そうか……」
何となく予想はしていたが、こいつはかなり、悪いニュースだ。今日のラルガイツの窮地を救ったのは、メルンの呪文だったという事実を、俺は忘れてはいない。
こいつの魔法は、対漆黒狼戦において、欠かすことの出来ないパーツなのだ。
俺はふと、思いついたことを尋ねてみる。
「ところで低級呪文っていうのは『怒りの火球』に限定されるのか?」
「それだけじゃない。まだある」
メルンから、ざっくりとした魔法の説明を受けた。低級呪文というのは中級と比較すると、能力は限定的であり、効果時間も短いということだった。
彼女が唱えられる呪文は3つ、
『怒りの火球』
『正体看破』
『方向感知』
この3つということだ。
このうち攻撃魔法は『怒りの火球』のみであり、『正体看破』は敵の擬態を見破り、『方向感知』は迷路に迷ったときなどに威力を発揮する呪文だという。俺はその説明を聞いて、いくつか疑問に思ったことを聞いてみる。
「その『方向感知』というのは、こちらが向かいたい場所の、東西南北の位置情報しか得られない――そういう認識でいいのか?」
「そうだよ」
「ずいぶん大雑把なカーナビもあったもんだ」
「カー、なに?」
「いや、忘れてくれ。それと『正体看破』だが、こいつはどういう状況で使う呪文なんだ?」
「敵が幻覚呪文を使っているとき、それを看破する呪文」
「メルンは、幻覚呪文そのものは使えないのか?」
「使えるけど、維持するのは困難。それは高級呪文に属する」
「ふむ、すると幻覚呪文そのものは高度なものだが、それを見破る呪文は低級で習うということか。カウンターを先に習うようなもので、かなり不思議な順番だな」
「同じ高級呪文だったら、大変」
確かにそうだろう。幻覚を仕掛けるものと、そいつを看破するもの。どちらも同じ条件で発動するのあれば、仕掛けるほうが圧倒的に有利だ。もしこの世界に魔法の神という存在がいて、見破る手段を最初に与えるというのなら、そいつはかなり公平な神といえるかもしれない。
「――で、今日忍びこんだ用件は、それだけか?」
俺はそろそろ、ベッドの上からどいて欲しかった。
いい加減、眠い。しかしそれを直接口にすれば、この変な小娘は、それならここで寝るのなんのと、面倒なことを口走りかねない。
「――もうひとつ、大事なことがある」
「なんだ。はやく言え」
彼女の口が動いた。メルンがそこで告げた内容は、うとうとしていた俺の眼を醒まさせるのに充分だった。聞いているうち、眠りかけていた俺の脳細胞は冴え、活性化してきた。
考えが徐々にまとまっていく。それにしても――
「やっぱりお前、そういうことはみんなの前で言え――」
俺は苦い顔で、そういうしかなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翌日――。俺たちは早朝から、空を見ていた。
この日、雨はなく、風も穏やかだった。おあつらえ向きの天候といえた。
村には、俺たちが昨日闘いを交えた北門のほかに、南門がある。そちらの方角から狼煙があがったのは、陽が真上に昇ったぐらいの頃だった。
――ようやく、敵が動いたのだ。
俺たちはすぐに用意を整え、そちらへと向かった。
すでに、清涼な朝の空気は溶けている。俺は鎧の下に、じんわりと汗をかいていた。雲ひとつない蒼空から降りそそぐ、きつい陽光を遮るものは、見渡す限りなにもなかった。
「相変わらず、やつは元気だな――」
アリウスが皮肉っぽく、そういった。
平原を疾駆する巨大漆黒狼の姿は、遠くからでも明瞭に見える。その歩みは重厚ではあったが、鈍重ではない。昨日、結構なダメージを与えたように見えたが、その影響は微塵も感じられなかった。
俺はゆとりを持って剣を抜いた。あれだけ硬い巨大漆黒狼の獣毛に斬りつけたというのに、剣には刃こぼれひとつなかった。こいつは拾い物だったかもしれないな。そう考えるだけの余裕があったのが、驚きだった。
『――逃げておれば、よかったものを』
巨大漆黒狼は、嘲弄するように言った。
俺たちは、無言で視線を合わせた。第2ラウンドの始まりだ。
作戦は、早朝からすでに打ち合わせ済みだ。あとはいかに計画通りに動くけるか。それだけだ。
まず、アシュターの矢が、怪物目がけて後衛から飛翔する。
こいつが闘いの開始を告げるゴングの代わりだ。
怪物は、まるで意に介す様子もない。小雨程度にしか感じていないのだろう。
前衛の俺とラルガイツ、アリウス、フォルトワは、適度な距離をおいて散開している。やつの突進を受けて、まとめてなぎ払われないようにする用心だった。
俺は細心の注意を払って、やつの動きを見ていた。そのつもりだった。
『――長進!』
短く、するどく、やつは言った。
全身に強烈な痛みが走った。
次の瞬間、俺の身体は、宙へと高く跳ね飛ばされていた。
『怪物との死闘』その4をお届けします。
次話は翌月曜にお届けします。




