その2
俺たちは半ば、茫然自失の態でやつを見つめていた。
なにもかもが予想外の展開だといえた。
この馬鹿げたサイズの漆黒狼も俺の想像を超えていたが、言葉を発するほどの知力を持った個体がいるという事実も、かなりの衝撃だ。
『どいつから、死にたいのだ』
声はやけに明瞭に響いた。そこらで死骸と化している普通の漆黒狼が漏らす、重低音の響きとはかなりの落差がある。
俺たちは誰ひとり動けなかった。
この怪物から生じる威圧感は並大抵のものではなかった。
剣を抜かなければ、と思うのだが、身体が動いてくれない。
ガラスの表面を引っかいたような、耳障りな悲鳴が上がった。背後にいた村人たちの誰かが発したのだろう。
それが合図となった。
誰もが必死になって、村のほうへと駆け出した。
『馬鹿めが、逃がすと思うてか――』
巨大漆黒狼の大きな紅い眼が、逃げ惑う人々の背を捉えた。彼らに戦闘能力はない。こいつを放っておけば、たちまち無残な虐殺がはじまるだろう。
こうなれば、やるしかない。
いや、どのみち俺たちが防波堤になるしかないのだ。
「やれやれ、困ったことになったな」
ラルガイツがゆっくりと槍を構えた。
その顔が昨日の月よりも蒼白に見えたのは、あながち緊張によるものだけではないだろう。すでに奥義を放ち、体力は底を突いている。
彼を戦力のうちに数えることはできないだろう。
そうなると、迎え撃つのは、アリウス、フォルトワ、そして俺だ。
「穏便に済みそうもないな」
アリウスがラウンド・シールドを前方にかざす、先ほどと同じ戦闘スタイルで、巨大怪物の前に立った。フォルトワ、ラルガイツも武器を構えている。
俺も覚悟の臍を固めねばならない。
無言のまま、俺は先ほど怪物の血を吸ったばかりの剣を抜いた。村へ戻ったら、すぐに手入れをするつもりだったが、この状況だ。そいつが可能になる日が来るのか、わからねえ。
『どいつから先に喰ろうてやるか』
鮮血よりも紅い目玉が、ぎろりと俺たちを見下ろしている。
これだけの巨体だ。目玉の大きさも尋常ではない。俺は呑気なことに、ある夏の日の光景を思い出していた。幼いころ爺さんの家で食べた、四分の一に綺麗に切り分けられた西瓜の列。そのうちのひとつを手に取ったとき、まるで笑った人の口のようだと言って、俺は爺さんを笑わせたものだ。
そのときの西瓜が俺を見つめて、笑っている。
「――おい、ボガード! ぼけっとするな!!」
その声で、俺は現実に引き戻された。
巨大な怪物は、どうやら俺を標的に選んだようだ。
気がつけば巨大な口腔が、俺の目の前に広がっている。こいつは西瓜どころの騒ぎじゃなかった。天地すべてが朱に染まったかと思われるほどだ。
「ぬうう――っ!!」
俺は危機一髪で、怪物の噛み付きをかわしていた。
どうやって回避したのか、まるでおぼえていない。習いおぼえた剣の歩法だったか、それとも身体に染み付いた空手の足捌きだったか。ともあれこの瞬間は命がつながった。
恐怖のあまり、俺はやってはいけない居着きをしてしまっていたようだ。
「油断するな、全員で一斉にかかるんだ――」
アリウスがひそひそと小声で指示を出す。こんな状況だ、さすがにラルガイツも不平を漏らす余裕はないようだ。だが、これほどの化け物相手に、こんなものが役に立つのか。
俺はちらりと、自分の手許の剣を見つめた。
この剣が、これほど頼りなげに見えるのは初めてだった。
もはや、購入した時の無敵感は、どこかへ飛んでいってしまっていた。
「いまだ、行くぞ――っ!!」
巨大漆黒狼の巨大な瞳が、ほんの一瞬、俺たちから離れた。大きな紅が、村人を物色するように宙を泳いだとき、アリウスの号令が響いた。
俺たちは得物を手に、一斉に踊りかかった。
しかし、どこを斬ればいいというのか。弱点がわからない。メルンから、腹が急所だと聞かされていたものの、こいつの下敷きになるのはまっぴら御免だった。
そんなことをすれば、たちまち内臓破裂で死んでしまうだろう。
とりあえず、上段から思い切り真っ向に斬りつけたが、硬い。
獣毛が、装甲のように分厚く、まるで刃を通さない。
なにしろ手が痺れるほどの硬さなのだ。この新しい剣ではなく、以前のなまくら剣だったなら、間違いなくぼろぼろにヘシ折れていただろう。
他の連中も、同じ思いをしたようだ。一様にしかめっ面が浮いている。
アリウスは、それでもあきらめない。執拗に剣で攻撃を加えている。
フォルトワは先ほどまでの戦法は棄てたようだ。まるで大木を伐り倒す要領で、大きく斧を振りかぶり、全体重を乗せて打ち下ろす。
がちんと石と石がぶつかりあうような、硬質の音がこだました。
どうやら、攻撃が通った気配はない。
ラルガイツは青息吐息だった。なにしろ出せば終わりという奥義を放ったばかりなのだ。立って槍を繰り出すだけで精一杯と言った有様だった。
こんな化け物相手に、どう戦えばいいというのか。おれにはまるで打開策が見出せなかった。
『児戯は終わりか? そろそろ、こちらから行くぞ』
巨大漆黒狼が、ふたたび動き出した。
俺は盾を構えた。しかし、手にしたバックラーのなんと頼りないことか。こんなもので、化け物の一撃を防げるとは到底思えない。
『――短進!』
宣言のとおり、怪物は短く前進した。予備動作が少ない分、回避ができなかった。
一瞬で、俺の身体は宙に浮いていた。
すさまじい衝撃だった。まるで乗用車にぶつけられたようだ。
俺は受身を取って衝撃を最大限にやわらげたが、全身が分厚い甲冑で覆われているラルガイツのやつは、どうしようもなかったようだ。まるで潰れたヒキガエルのように、無様に仰向けにひっくりかえっている。
「――うがあああああっっ!!」
ラルガイツが悲鳴をあげた。怪物がやつに狙いを定めたのだ。
巨大漆黒狼の超巨体が、奴の上にのしかかっている。
あれが俺だったら、即座に圧死しているだろう。
いまだ生きているのは、あの頑丈な重装備のお陰といっていい。
矢がパラパラと怪物の顔面に飛んだ。
アシュターが後方から、援護射撃を加えているのだ。
だが、まるで痛痒を感じていないのは、俺の眼からもはっきりとわかる。
『なんだそれは? 小雨でも降っているのか』
怪物は余裕しゃくしゃくだ。俺も、アリウスもフォルトワも、ラルガイツを救出しようと武器を振るうが、硬い毛皮に阻止され、何一つ痛撃を与えられない。
「――ぐはああっ!!」
ラルガイツはいよいよ苦しそうだ。いくら頑丈な甲冑を着ているとはいえ、こんな巨大な怪物にのしかかられて、いつまでも持ち堪えられるわけがない。
このときほど、俺は自分の無力さを呪ったことはなかった。
俺は素手でレンガを砕くことができるし、蹴りでバットを折ることもできる。だが、この化け物に対して、そんなものが何の役に立つのだろうか。
武神流空手の開祖、大岩武神は若かりしころ、素手で牛を殺したことがあるという。だが、こんな象のような巨大な化け物を、素手で殺せる武道家など、この世には存在しないだろう。
猟銃を持ってきたとて、倒せるかどうかわからない。
この戦闘は絶望的だ。俺の戦意は、すでに挫かれかけていた。
そのときだ。ごうと一陣の風が、俺たちの頭上を駆け抜けた。
この日、朝から風は穏やかだった。
不自然なまでのタイミングだった。
すると、怪物の口から重低音のうめき声が漏れた。
怪物の硬い獣毛の一部分から、矢羽が2本ほど生えている。
アシュターの矢が、硬い装甲をぶち抜いて、肉をえぐったのだ。
先ほどの突風といい、おそらくはアシュターがなにかしたのだ。もしかすると、エルフという種族固有の秘技なのかもしれない。
怪物はぐらついた。が、まだラルガイツの上からは動かない。
しかし、これは好機ととらえるべきだ。俺は剣を振りかぶった。
「――なっ!?」
次の瞬間、俺は眼を疑うような光景を見た。
さっきまで後衛にいたはずのメルンのやつが、ここまで駆けてきている。
「馬鹿野郎! 何しに来た――!」
俺はあわてて制止の声をあげた。
だが、彼女はまるで聞く耳を持たない。熱に浮かされたように、臆することなく巨大漆黒狼へと突進していく。
手間が省けたといわんばかり、怪物はその巨大な顎を広げて、彼女の到来を待ち受けていた――
『怪物との死闘』その2をお届けします。
次話は来週の月曜を予定しています。




