その5
館の内部は簡素だが、それなりに頑丈な造りとなっていた。
男爵ともなれば、立派な城塞に住んでいるものだと思いこんでいた俺だったが、それは単なる固定観念にすぎなかったようだ。
後で聞いたところ、城を築くには莫大な費用が必要になるらしく、広大な領地を持つ上位の貴族しか城持ちはいないらしい。
窮屈な階段を抜けると、おどろくほど広闊な空間が開けた。
ここがホールらしい。城でいう謁見の間というやつだ。
「ようこそ参られました。傭兵の皆様がた――」
そこで俺たちを待ち受けていたのは、意外な人物だった。
白く上品なドレスを着た、小柄で清楚な女性がひとり。周囲には、警護の騎士らしき男が佇立しているだけで、他に人の気配はない。
俺は心のなかで小首をひねっていた。男爵というからには、男がなるものではないのか。それともこれも、俺の固定観念に過ぎないのか。
その疑問の回答は、当人からもたらされた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。父ジョン・ガルシャハは現在、病床に伏しておりまして、人と面会できる状態ではないのです。ひとり娘であるわたくしフローラが、代理として家のすべてを取り仕切っております」
「立ち入ったことをお聞きしますが、父君のお加減は――?」
一同を代表するようなかたちで、アリウスが尋ねる。
女性――フローラ・ガルシャハは、白皙の顔を憂いに沈ませると、
「あまりよくありません。ただでさえ、父は病弱な体質なのですが、そこへ怪物襲来の報せです。心労ですっかり参ってしまって、いまはもう、ベッドから降りることさえままなりませんの」
「それで契約のほうは、ちゃんと履行されるのだろうか?」
「無論です。怪物の脅威が払拭されないかぎり、父の病状も快方へは向かわないでしょう」
「その、怪物のことだが、詳しい話をお聞きしたい。襲来した怪物とは、いったいどのようなやつなんです――?」
「現れた怪物は、漆黒狼と聞いております」
「漆黒狼ですか、なかなか厄介な相手ですな。――して、敵はその1体のみですか?」
「いいえ。およそ10体ほどと聞き及んでおります」
「馬鹿な、そんな数で行動する漆黒狼など、聞いたことがない」
「しかし、まぎれもなく事実なのです。これは被害に遭った村人たちから、騎士たちが聞き取り調査をした結果なのですから」
「……わかりました。いずれにせよ、現場に赴くしかありますまい」
重々しい、というより、なにやら思案しているような顔つきで、アリウスは言った。その後、他のメンバーも発言を許されたが、誰ひとり質問を発することはなかった。すべては現場で――というのが全員の共通認識のようだった。
もちろん、俺だけは別だ。
まず、漆黒狼という怪物が、何なのかすらわからない。
そのことを問おうと声をあげかけた俺だったが、ふと考え直し、質問することは避けた。これはあとで他の傭兵に聞いたほうがいい、と判断したのだ。
どうもこの様子から察するに、漆黒狼という怪物は、広く一般的に識られている怪物のようだ。
そんな一般常識すら識らぬぼんくらを雇ったとなると、依頼主の面目も丸つぶれだろう。信用にも関わってくる。俺だけがマヌケ扱いされるのは構わないが、他の連中までぼんくらと思われては、さすがに気の毒というものだ。
俺たちはさっそく、村人が漆黒狼に襲撃された場所へと向かった。フローラ嬢は騎士のひとりを道案内につけてくれた。全身鎧の騎士はかなりの老齢に見えたが、背筋は時計の針のようにぴんと伸びている。自然と彼が部隊の先頭に立ち、俺たちが後を従うかたちになる。
殿をつとめているのは、フォルトワだ。
俺はわざと速度を落とし、するすると最後尾へ下がっていく。
「おい、漆黒狼とは、なんだ?」
俺は声をひそめて、フォルトワに尋ねた。
さすがにフォルトワは驚いた表情を浮かべたが、すぐにそれを鎮め、同じような小声で応えてくれた。
「漆黒狼とは、子牛ほどの大きさの黒い狼です。獰猛で人や家畜を襲います。群れをなさない怪物としても識られております」
「――群れをなさない? そいつはおかしいな」
「だからこそ、アリウス殿は不審そうな顔をしたのです。群れをなさぬはずの漆黒狼が集団行動をとっている。しかも10体という大群です」
「ふむ、なるほどな――」
フォルトワのおかげで、怪物については理解できた。
だが、やつらがなぜ群れで現れたのか、その原因については謎のままだ。移動中、誰も言葉を発しないのは、それぞれがその理由を探しているのだろう。
ともあれ俺は、怪物の特長さえわかればそれでよかった。敢えて、深く考えることはしない。動画でもあれば、敵の戦力を想定してシミュレーションすることもできただろうが、この世界にそんなものはない。
この両眼で確認するしか、道はねえんだ。
俺たちは来た道をもどり、ふたたび村の門の前に立った。
同道している騎士が、村人に門を開けと命じる。彼が閂を抜き、扉がゆっくりと開かれていく途中だった。
「――ひいッッ! た、助けてくれえッッ!!!」
悲痛な叫び声が、大気を引き裂いて、俺たちの耳まで届いた。
外にいる誰かが、襲撃を受けているのだ。
門を開きかけていた村人は、ぴたりと動きを止めた。
怪物が内部に侵入してくるのを怖れているのだ。
「――馬鹿もんが! 領民の危機ぞ、さっさと開かぬかっ!!」
その躊躇を、老騎士が一喝した。
さすがにこれを拒むわけにはいかない。恐怖に顔を引きつらせながら、村人が門扉を開いた。それとほぼ同時、老騎士は先頭きって駆けだした。
俺たちは見た。緑の草むらの一部分だけが、どす黒い紅に覆われているのを。さらに、その上にぐったりと倒れ伏している男の姿を。
その男の胴体めがけ、漆黒が覆いかぶさった。
俺は一瞬、そいつと眼が合った。
そいつは、狼というにはあまりに大きかった。
夜の闇を切りとったような黒い体毛。口は耳まで裂け、両眼は燃えさかる炎のように、紅くきらめいている。
その巨大な口が、男の胴をくわえているのだ。
ちょっとした悪夢のような光景だ。つかのま、俺は身動きがとれなくなっていた。
俺は自分の口のなかに、苦い味が広がるのを感じていた。この味の正体を、俺は識っている。恐怖というやつだ。
もしこの瞬間、この黒いやつが、俺に向かって突進してきたら、どうにもできはしなかっただろう。俺は小鹿のように慄えていた。
俺の脳裏には、あの光景――人喰虎が、少年の脳天を噛み砕いた瞬間――がよみがえっていた。あのとき抱いた恐怖を、俺は払拭できてはいなかったのだ。
「ええい、この怪物め! わが領民を放さぬか!!」
俺の恐怖は、勇敢な老騎士の声によって破られた。
老騎士は、すらりと腰の剣を抜きはなつや、漆黒狼へと臆することなく突進した。愚直なまでに、直線的な動きだった。
それを黙って待っているほど、敵は簡単な相手ではない。
口を開き、咥えていた男の身体を離して身軽になると、怪物は跳躍した。
瞬きをする暇もなかった。
老騎士は、あっという間に漆黒狼の下に組み伏せられていた。老騎士は倒れた衝撃にうめき声をあげつつも、下から反撃の機会を窺っているようだった。
全身鎧のおかげで、急所は守られている。
さすがの怪物も、この重装備にはお手上げかと思われた。
いや、そうではなかった。大きく広げたその顎の上下には、大型のナイフのような牙がぎっしりと並んでいた。
これでは、鉄の装甲すら貫いてしまうのではないか。
――くそ。俺は何をしているんだ。
心はすでに、怪物へ向かって走っている。だが、現実はどうだ。膝のやつが、まるで言うことを聞きやしねえ。
俺の焦りを切り裂くように、一条の閃光が空を駆けた。
「ギャゲエエエエッッッ!!!」
そいつは狙いあやまたず、怪物の口中に突き立った。
俺は反射的に、射た男を見やった。アシュターだ。
彼が放った矢が、正確に怪物の舌を射抜いたのだ。
この偏屈なエルフは、凄腕の弓手ということなのだろう。
怪物はその衝撃に耐えかね、老騎士の上から後方へ飛びすさった。
その瞬間、俺の呪縛も解けた。
怪物の苦悶が、はっきりと伝わったからだ。
血も流れれば、苦しみもする、ただの生物だとわかったからだ。
他の4人も、それぞれの得物を手に、臨戦態勢に入っている。
俺もあわてて、腰の剣を抜いた。
「さあ、楽しいダンスの始まりだ――!」
陽気に、アリウスが叫んだ。
遅くなりました。『新たなる任務』その5をお届けします。
次話は金曜日を予定しております。




