その3
地球上で格闘技というものは、どれほど役に立つ代物なのだろう。
俺が空手を習得し、上達するにしたがい、思った感覚だった。
戦うなら徒手空拳より、拳銃を手にした方がよほど強い。
それどころか、包丁を持った素人を倒すことも難しいだろう。
師にそういう話をすると、武の心得はなんだかんだと、ごまかしにしか思えないような答えが返ってきた。誰も明確な答えは持ってねえんだろう。
俺は空手を、中途であきらめた。必要ねえと思ったからだ。
だが、文明圏から切り離されたような世界に放り出されると、相手を倒す技術を持っているというだけで、なんと頼りになるものか。少なくとも、怪物と対峙したときに俺を救ってくれたのは、空手だった。
肌に粟立つ恐怖心を制御できたのは、本当に強い相手と戦った経験があるからだ。
もちろん、戦力的に怪物の方が圧倒的に上だろうが、それでもだ。
「――ねえ、この道を進んで、大丈夫なの?」
ふいに御木本かすみが、そう尋ねてきた。
俺はハッと思考の迷宮から浮上し、彼女を見やった。
俺たちは悪夢のような森から離脱し、平坦な道を歩いている。
とりあえず見晴らしはいい。敵影はねえが、人の姿もない。
「大丈夫だなんて、何一つ確証はない」
「無責任なのね、一応、リーダーなんでしょ?」
「そんなもんになった覚えはねえな」
「なった覚えはなくても、あなたが一番、このなかで強いのよ、背後を見て御覧なさい」
そういわれて、俺は背後をふりかえった。
3人の少年少女が、半ば茫然自失のていで、ふらふらと頼りない足取りでついてきている。眼には何も映ってないように見える。所謂、レイプ眼ってやつか。怪物との遭遇と、目の前で人がひとり殺されたショックが大きかったのだろう。
「――ね、みんなこんな状態なんですもの。あなたがリーダーシップを発揮しないと、私たち誰も助からないわ」
「まったく、クソみたいな世界に、クソみたいな状況だな」
俺は哀れみをこめた目で彼らを見た。
心的外傷が心配になるくらいだが、俺には、そいつをどうにかできるような心得はねえ。俺にできる事といえば、同情だけだ。
他人に関わること自体が面倒くさい。そういう人生を歩んできたのだ。
「とりあえず、町か村が見つかるまでは、俺のできる事はやる。――そこから先は知らねえが」
「いい加減なのね。あなた――」
呆れたような口ぶりで、かすみが言った。
「ボガドでいい。いい加減でけっこう。俺だって自分の身を守るだけで手一杯なんだ」
大マジの言葉だった。俺だって、いきなりわけのわからない世界に放り出され、怪物と対峙する羽目になったのだ。この世界の道理など、まるでわからねえのは他の連中と同じなのだ。
溺れる者が、溺れる者を救うことなど、できるはずがねえのさ。
道の途中で、革のバッグが落ちているのに気付いたのは、先頭を歩いてた俺だった。
最初の召還地点で「会社に遅れる」と、足早に去っていったリーマン風の男。
たしかあの男が、同じものを持っていた。
周囲を見渡したが、奴の姿はどこにもなかった。
死んだか、さらわれたか。
それとも俺たちと同じように、怪物に襲われ、パニックになってバッグだけ置き去りにしたのか。知る由もない。
とりあえず俺はバッグを開いて、中をひっくり返してみた。
サイフと小銭入れ、腕時計、何本ものペンと手帳が出てきた。タバコとライターが入っていたのは、俺としては死ぬほどありがたかった。俺は胸ポケットに、手帳とタバコ、ライターをねじりこんだ。
この場で一服したかったが、俺にも多少のエチケットというものはある。ガキ共の前でプカプカやるわけにもいかねえだろう。
他の連中にも、中身のものを持たせることにした。
「これって泥棒じゃないの……?」
と、大真面目にいってくる間抜けもいたが、俺は平坦な声で応えた。
「本人がやってきたら、返してやればいいさ」
その言葉に促されたのか、ようやく一同も手にペンや手帳を持った。
――本人が帰ってきたら。
俺は自分が発した言葉に、思わず笑っちまった。
絶対にそんな事態にはならないだろう。俺にはそんな確信があった。
再び、俺たちは道を歩みはじめ、5時間ほどかけて最初の町へと到達した。
腕時計があるのは便利だった。
こちらの世界が西暦で動いていないのだとしても。
古びた石造りの外壁で身を鎧った、質素な町だった。
名前は後で知ったが、アコラというらしい。
「おい、おまえら、入場パスは持ってるか? なければ現金だ」
門の受付所のような場所で、そんな言葉をかけられた。
俺としては、日本語が通じるというのが新鮮な驚きだった。
もっとも、ガキ共は平然たるものだった。
言語が通じるのは当たり前。そういうルールらしい。
むしろ、この世界の通貨がないことで焦っていた。
「どっちもねえなら、とっとと帰りな。通行の邪魔だ」
俺は思案した。ここで追い返されて野宿ということになれば、どうなるか。
火を見るより明らかだ。――死ぬ。確実にだ。
あんな化け物に再度遭遇して勝てる見込みなどあるはずもねえ。
いちかばちかだ。俺はリーマンのサイフから、数枚の百円玉をとりだした。
「まあ、待ってくれよ。こいつはこの国の通貨じゃねえが、銀貨だ」
きらめく銀色の光を発する百円玉は、かなりの価値のものに見えたようだ。
実際はニッケル銅貨なのだが、バレてもいいと俺は覚悟を決めていた。
逮捕され、投獄されたところで、命までは獲られまい。
外にいたら、確実に死ぬのだ。その点で俺は必死だった。
「たしかにこの表面に刻まれた文様は見たことがない」
「しかし見ろよ、並の銀よりピカピカしてやがる」
衛兵たちは並んでいる人々を無視して、協議を始めた。
この連中が怖れているのは、あくまで上司だ。上からどやされないか、それだけが心配事なのだ。俺はささやくように言った。
「なあ、俺のツレを見ろよ。女とガキだけだ。悪さするように見えるか?」
「確かにそうだが……なにしろ前例がなあ……」
「それにしても全員、見慣れない格好をしてるな。ひょっとしてお前ら、アレか」
「アレって何だ。アレとかコレとか言い出したら、ボケの始まりだぞ」
「ボケてねえ。――アレだ、思い出した。カミカクシってやつだろ」
――神隠し?
その唐突な古式ゆかしい言葉に、俺たちは互いに顔を見合わせた。




