その6
どれくらいの時間、こうしているのだろうか。
俺は安宿の薄汚れた天井を見つめたまま、微動だにしなかった。
もう目を閉じても木目の位置がわかるぐらい、じっと凝視している。
心の内側に、ちいさな棘が刺さっているような気分だった。
俺はかなり、苛立っているな、と思った。
われながら意外なことだった。大人になればなるほど、精神は磨耗していく。若い頃のように、ちょっとやそっとのことでは狼狽したり、感動したり、うろたえたりはしないものだ。
歳月というものは、偉大なる教師だ。
同じことを何度か経験してしまうと、心が順応してしまうのだ。
ああ、またこのパターンかと思う。そうするとあらかじめ心構えができて、冷静な対応ができる。いちいちみっともなく興奮して、騒ぎ立てることはしない。
――だが、いまの俺は明らかに動揺していた。
理由はこれ以上ないくらい、明確だった。
ダラムルスの話を聞いたからだ。彼の口から事件の全容を聞いた衝撃から、いまだに立ち直れてはいないのだ。
政治というものの、黒ずんだ 泥濘に足を取られたのだ。
酒でも呑んで、うさを晴らしたい気分だった。
だが、いま階下に降りる気持ちにはなれない。
他の傭兵たちと、顔を合わせたくなかったのだ。他の傭兵たちはご機嫌で一杯やっている。その騒音が、ここまで漏れ聞こえてくるほどだ。
作戦は、これ以上ないほどうまくいったといっていい。『流星』も、そのほとんどを壊滅させた。たとえ討ち漏らした残党がいようと、ごくわずかだ。もうまとまった行動など起こすことは不可能だろう。
帝国がロータス商会を利用して、水面下でどのような計画を仕掛けようとしていたのか――いまとなっては識るよしもないが――その計画は、罠を張ることで未然に封じることができた。
依頼はほぼ完璧にちかいかたちで実行されたのだ。
これで浮かれるな、という方が無理だろう。
だが、俺の気分は晴れない。まるで冬の空のように、重くどんよりとした雲が胸中に垂れこめていた。口のなかが、やけに苦かった。鬱屈したものが体内に澱のように溜まっている。これでめでたしめでたし、と呑気に笑えるほど、俺は単純な性格ではなかったのだ。
その原因は、はっきりしている気がしていた。
とても、どんちゃん騒ぎをする気分ではない。
静かに1人、酩酊していたい。そんな気持ちだった。
誰にも騙されぬよう、慎重に行動したつもりだった。
だが、俺がどんなに頭を回転させようが、関係がなかった。
俺もまんまと他人の掌で転がされる、一匹の傭兵にすぎない。
そのことが猛烈に身に染みたのだ。
あの場で「道化だ」と、俺はつぶやいた。
そのとおりだと思った。
「煙草、持ってくればよかったな……」
煙草は空手をやっていた時代には、決して吸わなかった。
身体にいいものとは、お世辞にもいいがたいからだ。
格闘技をやってるなら、なおさらだ。これはトラックの運転席に腰を降ろしてから、身につけた悪癖のようなものだった。もう空手界には、二度と戻るつもりはなかった。
もう足許に汗溜りをつくりながら、サンドバッグを蹴るつもりはなかった。血の小便を垂れ流しながら、トレーニングを続けるつもりもなかった。
俺なりの、決別のつもりで吸ったのだ。
俺は自嘲するように口許をゆがめた。おかしなものだ。決別したはずの空手が、徒手空拳の技術が、幾度となく俺を救ってくれている。
こちらの世界に落ちてから、圧倒的に吸う量は減少している。サラリーマンのバッグに入っていたほんのひと箱を、ちょっぴりずつ消費して我慢していたのだ。
だが、このときほど痛切に吸いたいと思ったことはない。
うさ晴らしに、シャドーでもやるかと思った。
しかし、村の安宿だ。ちょっと動いただけで板張りの床がきしむのだ。派手な動きをしたら、底が抜けてしまうかもしれない。俺はすぐ、その考えを手放した。
ふいに、コンコン、と部屋の扉が鳴った。
「開いているぜ」
鍵をかけられるほど、上等な施設じゃない。それにドアノブはガタがきている。力自慢がちょっとひねるだけで、簡単にこじ開けられるだろう。
「――失礼いたします」
おずおずと部屋に入ってきたのは、一輪の花を思わせる少女――セシリアだった。背後をすかし見たが、お供の者はついてきていないようだ。
「ひとりで男の部屋に入るには、無用心すぎるな」
「大丈夫です。ボガードさんはそんな人じゃありませんし――」
「ずいぶん、買いかぶられたものだな」
「だって、偽の姫である、私を見捨てて逃亡することはできたはずです。それなのに、ボガードさんは最後まで私を逃がそうと、白刃の下をかいくぐって助けてくださいました。身体が傷だらけになることも厭わずに――。私、このご恩は生涯忘れません」
「生涯とは大げさだな」
「まったく大げさではありません」
彼女は熱っぽく反論してきた。
おや、と思ったが、こんなことで議論してもしょうがない。
「……まあ、お互い無事だったんだから、良しとしようか」
俺はつくり笑いを浮かべ、妥協案を提示してみせた。
彼女もそれで納得したのか、そっと笑みで返してきた。
「で、用件はそれだけかい?」
「――い、いえ、まだあるのです」
「なら、こんなむさくるしい部屋で立ち話もなんだ。階下に降りて――」
「か、階下に行く必要はありません、ここで充分です!」
俺は思わず彼女を見返した。いつもより声が上ずっている。
気のせいか、頬が上気しているようだ。
「大丈夫か、熱でもあるのか?」
「熱はありません。ご心配には及びません」
先ほどから、セシリアの行動が不審だ。
しきりとこのせまい部屋を左右へうろうろしている。
そこで俺は、ようやく自分の不手際に気付いた。
「――すまんな、気が回らずに。女性を立たせたままってのは、よくなかった。とはいえ、ここには椅子のひとつもないな。申し訳ないが、このベッドに座ってくれ」
俺があわてて立ち上がろうとすると、彼女がそれを制し、
「いえ、あくまでこの部屋の主はボガードさまです。それほどまで気を遣わなくとも大丈夫ですよ」
「――いや、そうはいってもな」
俺がなおもいい募ると、彼女はふわりと俺の傍らに腰をおろし、
「ほら。これで、ふたりとも座れましたね」
と、にっこりと笑った。
なんの香水だろうか、花のやさしい匂いがただよった。
俺はさりげなくベッドの端のほうへケツを移動させると、
「で、さっき言った用件ってのは、なんだ?」
「ええと、ですね、たしかボガード様はおっしゃいましたね。馬車の中で。現在、お付き合いされている方はいらっしゃらないと」
「――そうだな、誰もいない」
「そ、そうですか。それはよかったです」
「なかなか痛烈な皮肉だな」
「いえ、そういう意味ではなく――」
やがて彼女は意を決したような表情で、俺のほうへと顔を向け、
「わ、私をボガード様の彼女にしていただけませんでしょうか!」
俺は、われながら怪訝な顔つきをしていたに違いない。
彼女とはどういう意味だろうか。英語ではSHEである。
いや、よく考えろ簿賀土。俺たちの世界と、こちらの世界ではカノジョという言葉の意味に微妙なニュアンスの違いがあるのかもしれない。
俺は混乱を顔に出さぬようにつとめながら、訊いた。
「すまん。彼女とは、どういうことだろうか?」
「恋人にしてほしいという意味です」
「おどろいたな」
今度は直球だった。これでは取り違えようもない。
言葉の上だけではなく、本当に驚いていた。
気持ちを鎮めるように、俺は一度、深く息を吸った。そして吐いた。十代のガキじゃないんだ。冷静に頭を働かせなければならない。これもまた、裏に政治的な意図があるのだろうか。もしかすると、あるのかもしれない。
「ひょっとしたら、誰かに言い含められて、きたのか?」
「いいえ、誰の指図でもありません。私自身の判断で参りました」
心外だといわんばかり、むっとして彼女は応えた。
深読みした俺の態度が冷淡に映ったのかもしれない。
「しかし、セシリア――正直なところ、おまえさんはまだ子供だ」
「子供ではありません。もう17になります」
「俺の同級生には、お前と同い年のガキを持つ奴もいる」
「でも、ボガードさんにはお子さんはいらっしゃらないのでしょう?」
「いないな」
「それなら、よかったですわ」
彼女は笑顔で、ぽんと両手を合わせた。
「……いや、いい悪いの話しじゃなくてな」
「あら、ではどういう話ですの?」
なんだこれは。俺は何をしゃべっているのか。
会話が成立しているのかどうかすら、怪しい。
俺がどう応えようか、返答に窮しているところだった。
「ボガード、いるか――?」
唐突に、扉が開かれた。
立っていたのは、ベテラン傭兵のシャアハだった。
「……すまんな、恋人同士の甘い語らいを邪魔して」
「いや、勘違いだ」
俺がセシリアと隣りあってベッドに腰を降ろしている姿をみて、あらぬ誤解をしたらしい。俺はあわてて弁解しようとしたが、シャアハは二の句を告げさせずに、
「言い合いはあとだ。ボガード、お前に会いたいといっている奴がいる」
「なぜ、直接そいつがここにこない?」
「本人に訊け。急げよボガード、時間がない」
『傭兵というもの』その6をお届けします。
その7は今週中にお届けする予定です。




