その3
――俺は、勝った。
それは間違いない。『流星』の頭目はぐったりと地面にその身を横たえ、微動だにしない。俺はというと、それを醒めた眼で見つめたまま、動かなかった。
正確にいえば、動けなかった、といっていい。
MMAの選手のように、金網によじ登って歓喜の雄叫びをあげたい気分ではあったが、そんな肉体的な余裕はなかった。
無気力に地べたに座ったまま、うなだれていた。
そこから立ち上がる気力もないぐらい、くたくただった。
手強い相手だった。技術的には特筆すべき点はなかったが、それでも2メートル近い巨漢を相手取って気絶させるというのは、このトシじゃ相当な重労働だ。
まったく、よく身体が動いてくれたものだ。
これも、日々の鍛錬の成果だろう。3ヶ月もの間、ひさすら身体をいじめぬいた成果が現れたとしかいいようがない。
野盗どもはといえば、寂として声もない。
先ほどまでの罵声や歓声が、まるで嘘のようだ。
耳が痛いほどの沈黙が、周囲をおおっていた。
――やがて、男たちの口から、慟哭のような声が漏れはじめた。
「こっ、こんな馬鹿なあっ……!」
「お、お頭が死んだ……」
「こんなちび野郎に、殺されちまった……」
無論、本当に死んだわけはない。失神しているだけだ。
活を入れてやれば意識を回復するだろうが、また襲い掛かられる危険性があるのに、親切丁寧にそんなことをやってやる義理もない。
『流星』の配下どもは、今起こったことがまるで理解できなかったようだ。
寝技の攻防など、この世界で発展しているとは思えない。
剣と魔法が日常化している世界で、泥臭く寝技の攻防を想定して技術を磨く、なんてことは無駄に等しいと考えられているのだろう。
とはいえ、柔術は日本の古武道が発祥だった。甲冑を着た人間を倒して、首を掻くといった技術ならば、この世界にも存在するかもしれない。
だが、俺が使用した三角絞め――別名、松葉がらみは、比較的近代に生み出された技術だ。発祥は柔道だが、この技が一世を風靡したのは、ブラジリアン柔術の功績といっても過言ではない。
1990年代の初期MMAマッチにおいて、とある小柄なブラジリアンの柔術選手が、この日本伝来の未知なる技術体系をアメリカで披露し、連戦連勝してみせた。それは衝撃とともに全世界に伝わった。今ではほとんどのMMAファイターが、必修科目としてブラジリアン柔術を採りいれているほどである。
俺は、特にブラジリアン柔術に傾倒したわけではない――寝技は膨大な学問なので、生半可な時間では究められない――おれが使える技術は、あくまで初歩的なものにすぎない。
すぎないが、対処法すら識らない連中を極めるなど、然程難しいことではない。それもタイマン勝負だから、できたことである。
これが複数人相手だと、転がった頭を死角から蹴り飛ばされて終わりだろう。
周囲には、無音の殺気が満ち満ちている。
自分たちの頭目が倒されて、笑顔でいろというほうが無理だ。
「殺っちまえ……!」
「このクソ野郎を、親ですら分からねえように、滅多斬りにしてやれ」
物騒な罵声が、徐々に大きくなっていく。
やれやれ。やるしかねえようだ。
無論、俺はこの頭目さえ倒せば活路が見出せる、なんて甘ったるい考えで勝負に挑んだわけじゃねえ。ただ、無手での勝負を挑まれたから、受けただけだ。
徒手空拳では負けないという、意地だけで受けたのだ。
その後、どうなるかなんて計算はこれっぽっちもなかった。
俺はこの勝負を受けるにあたり、装備をすべて脱ぎ捨てている。
防具を一切身につけていない状態で、鉄製の装備で身を固めた武装集団に、徒手空拳のみで勝つ、なんてことは甘っちょろい幻想にすぎない。
俺ひとりが、空手や武道の研鑽を積んてきたというなら、それも不可能ではないだろう。だが、実際はそんなことはありえない。俺がひたむきに武に時間を費やしたぶんだけ、剣術の研鑽を積んだ者は、この世界にも確実にいるのだ。
俺は先ほど脱ぎ捨てた、自分の装備までの距離を目算した。
とりあえず防具を身につける事は、ハナからあきらめている。剣と盾さえあれば、少しぐらいの時間はしのげるかもしれねえ。
そこから先――
いや、先のことは、そこからだ。
俺がその一歩を踏み出しかけたときだった。
「ボガード様――っ!!」
悲鳴とともに、何かが破壊されるような音がした。
反射的に、俺はその方向を見た。馬車の後ろの扉が大きく開かれていた。野卑な男どもに、ひとりの女性が引きずり出されようとしている。
馬車の背後から徒歩で追ってきていた野盗たちが、追いつき、偽姫様――セシリアを連れ去ろうとしているのだ。
その瞬間、俺の足はすでに地を噛んでいる。
駆けつつ、思考する。この間合いで、一番有効な技は何か。
せっかくのこの助走も、無駄にはしたくない。
長考する間もなく、肉体は動いている。
俺は、セシリアの手を掴んでいる男の足許を睨んでいた。
男は俺に向きなおり、ぐっと腰を落とした。
タックルに来ると思ったのだろう。姿勢が低い。
かかった。
刹那――俺の両脚は大地から離れている。
宙で柔道の前回り受身のように前転し、後足で相手の頭部を捉える。
胴回し回転蹴り――
博打的な大技に見られがちだが、決まればKO率の高い技でもある。
眼のフェイントが巧くいった。全体重の乗った蹴りを即頭部に喰らった野郎は、斜め前方に崩れ落ちた。脳震盪でも起こしたのだろう。いくら硬い防具で頭部を守っていても、脳を揺らされたら立ちようがない。
俺はそのまま足から着地すると、セシリアをお姫様抱っこで持ちあげた。
花のようにいい香りが、鼻孔をくすぐった。
だが、それを堪能している間などなかった。
俺は安全な場所を探して視線をさ迷わせたが、馬車の前方には30人ばかりの野盗がいて、その背後には土嚢がある。
森林の方角からやってきた野盗も、7、8人ばかりいるだろうか。
まさしく絵に描いたような四面楚歌であった。
俺はセシリアを足から地に下ろすと、再び馬車に戻って扉をふさぐように告げた。だが、セシリアは俺の言葉に耳を貸そうとしなかった。
俺の背にしがみついたまま、離れようとしない。
(――とんだマヌケなヒーローだな、俺は)
もう盾と武器を取りにいく方途は、閉ざされたといっていい。
彼女を放り出して、どこにも駆けていくことはできない。
(俺ひとりなら、もう少し、格好いい処も見せられたんだがな)
そのことを残念に感じつつ、俺はまた両手を持ち上げ、構えた。
勘のいい奴なら、俺がさっきから足技ばかり用いていることに気付いているだろう。右腕の消耗度は、想像を超えていたようだ。力が入らない。どこかの筋を痛めた可能性もある。
全身の倦怠感も半端ではない。大男とのとっくみあいは、尋常ではないスタミナのロスをもたらしていた。
目の前の殺気だった集団は、もう素手での勝負なんてことに拘っている様子は微塵もない。俺がどんな空手の技術を用いようが、よってたかって剣で膾にされるだけだろう。
「お姫様に傷はつけるなよ、刻むのは、その男だけだ」
あちこちから、剣を抜き放つ音がした。
総勢30名以上が、一斉に剣を抜く音を聞いたことがあるだろうか?
俺ははっきりと、この耳で聞いた。
戦慄が背筋を駆け抜けるのを止めることはできなかった。
「かかってきやがれ、この雑魚どもが――!!」
俺は吼えた。体内の恐怖心を嘔吐するように。
負けちまう戦だと、頭ではわかっていた。
わかっていても負けるものかと、吼えた。
そのときであった。
聞き慣れない音が、俺の耳朶を打った。
幻聴だろうか。そいつは間違いなく、ラッパの音に酷似していた。
野盗の連中もざわめいている。どうやら幻聴ではないらしい。
高らかなその音色とともに、森が動いた。
いや、森に潜んでいた一隊が動きはじめたのだ。
「殲滅せよ!! 掛かれえ――っっ!!」
森林の隙間から這い出るように、新たな兵が突進してきた。
しかし、その装備は漆黒ではない。『流星』の仲間ではないのだ。
あちこちで撃音がひびきわたった。新たに現れた兵どもは、『流星』たちを左右から挟むように展開している。しかも野盗どもは、俺たちを囲むようにして立っていた。完全に背後を取られたような格好である。
待ち伏せていた野盗が、逆に左右から挟撃されているのだ。
不意を打たれた集団ほど脆いものはない。特にこの集団は、頭目を失っている。下知をくだす人間が存在しないのだ。
統率を失った一部の野盗は、土嚢を越え、街道の先へと逃れようとした。
しかしその判断は遅すぎた。
街道の向こうから、こちら目がけて突進する騎馬の集団がある。
その先頭に立つ人物には見覚えがあった。
『白い狼』団長――ダラムルス、その人であった。
『傭兵というもの』その3をお届けします。
その4は翌火曜日をお待ちください。




