その1
虎口を脱した。
少なくとも、この時点では、俺はそう思っていた。
敵は追いすがってくるものの、疾走している馬車に追いつけるほどの健脚の者はいない。森の出口である光明がどんどん大きくなる。俺たちをさんざん悩ませた森林地帯の終わりは、もう目前に迫っているのだ。
御者は快哉を叫んでいるが、馬車の内部は対照的に、重苦しい雰囲気に包まれていた。その原因はあきらかだ。
偽姫様は、今までの物柔らかな雰囲気を一変させ、硬直した表情でこちらを見ている。
俺は迂闊なことを口走ったのだろうな。
この様子だと、彼女は少なくとも、俺に正体を知られているとは思っていなかったのかもしれない。まあ、いまさら手遅れというものだが。
「最初から、お気づきになっていたのですか?」
お付きの侍女が、険を含んだ声で訊いてきた。
「ああ、俺はそう聞かされていた」
「この事は極秘事項のはず。それを単なる一介の傭兵ふ――」
「ニーナ!!」
偽姫様が慌ててたしなめた。
「一介の傭兵風情なんかに、か?」
俺は敢えて、笑ってみせた。
彼女らには、さぞかし不敵な笑みに見えただろうか。
大体、俺の歳ぐらいになれば、それなりの落ち着きは出てくる。内心はどうあれな。御木本かすみの前では、つい口論になってしまったが、あれは顕著な例と思ってさしつかえない。彼女は人をイラつかせる天才なのかもしれない。
すぐにブチ切れたり、正論を説いて自己陶酔に浸るような青臭いおっさんを、俺は知らない。大抵は、どうにもならない運命を前に、笑ってごまかすしかできないのさ。
人生というものは、残酷で、無様で、悪辣なものだ。
この37年。蹉跌を幾度となく味わってきた。
無能な上司から、わがままな部下から噛みつかれ、ひたすらぐっと忍耐を強いられるのが世の定めなのだ。屈辱を胸に、砂を噛むような思いで生きていくのが人の世なのだ。
誰だってそうだろう? 人間の腐臭を嫌というほど嗅いできた身ならば。
このときもそうだ。俺は怒りを表すことなく、笑った。
彼女らの鼻白んだ顔が愉快だった。
おずおずと口を開いたのは、やはり偽姫様だった。
「おっしゃるとおり、私は本物のメアリーお嬢様ではありません。メアリー様お付の侍女でした。だから、お嬢様には誰よりも身近に接し、その特徴も、クセも、熟知しております。決して見破られることはないと思っておりましたが、事ここにいたっては、もう隠しつづけることはできませんね」
「安心しろ。この事実は、ごく一部の傭兵しか識らない。そして俺は、こんなことで利益を得ようなんて、これっぽっちも思っちゃいねえ。俺は自分の保身のために、このことを聞き出したに過ぎない。いまさら誰にも漏らすつもりはねえさ」
「どうだか――」
「ニーナ、いい加減にして。彼は命を賭して、我々を助けてくださったんですよ」
これにはニーナと呼ばれた侍女も、押し黙るしかなかった。
「――ボガード様。本当のことをお話ししましょう。まず仰るとおり、私は本物のメアリー様ではありません。本当の名は、セシリアと申します」
「なるほど、セシリアお嬢さん、か」
「お嬢さんはやめてください。私はさっき申し上げた通り、単なるお付の侍女にすぎません」
「そうか。しかしその堂々たる佇まいは見事なものだ。つい本物じゃねえのかと錯覚してしまいそうになったがな」
「虚勢にすぎませんよ。私は与えられたお役目を全うするだけの、ただの贄にすぎないのですから」
「――贄だと。そいつは穏やかじゃないな」
俺は閉口するとともに、胸中に嫌な予感を抱いていた。
こういうときの勘は、馬鹿にしたもんじゃねえ。
「おい御者、すこし速度を落とせ」
「何を言っているんです、後ろから追いつかれますよ」
「いいから今すぐ速度を落とすんだ」
「もうすぐ森の出口です、もう、手遅れですよ――」
馬車はようやく、長い森から抜け出した。
行く手の光景が開け、まばゆい光で眼がくらんだ。
暗い森に眼が慣れてしまっていたため、陽光の眩さで一瞬、眼をやられたのだ。それも、ほんのわずかな時間だったが、俺たちを呆然とさせるには充分な時間だった。
「ようし、その馬車、そこで止まれ――!!」
森を抜けた街道の先には、もはや身を隠すつもりもない野盗の集団が、腕組みをして待ち構えていた。それも、1人や2人じゃねえ。ざっと見て、30人はいるだろう。
しかも全員が、黒に統一した例の甲冑を身にまとっている。
これはもはや、野盗というスケールじゃねえな。ちょっとした軍隊だ。
集団の背後には、土嚢のようなものが積み上げられている。万が一にも突破されないようにだろう、実に用意周到なことだ。
「残念だが、ここがお前らの旅の終着点だ」
『流星』の頭目とおぼしき巨漢が、ぬっと集団から身を現した。
いい身体つきをしている。身長は俺よりも大きく、ダラムルスに匹敵する大きさだ。
顔にいくつもの古傷が走り、そいつが男の歴戦の勇士ぶりを際立って見せている。
「お姫様は頂戴していく。――が、お前らには用がない、ここで死んでもらう」
御者が悲鳴をあげた。だが、誰一人同情する者はいない。
俺はゆっくりと身を起こした。軽く右腕を屈伸させ、調子を確かめてみる。やはり、まだ疲労は抜けきってはいない。だが、こそこそと馬車の内部で隠れていても、どうにもならないだろう。
俺が馬車を降りようとすると、偽姫――セシリアが俺の背を抱きとめた。
「どこへいらっしゃるつもりです?」
「逃げ隠れしてもしょうがあるまい。――出る」
「駄目です。切り刻まれるのが関の山です」
「ここで子鼠のように隠れていても、同じだろうさ」
するとセシリアは、激しくかぶりを振った。
「嫌です。ここで、私と一緒にいてください……」
背後から回された彼女の手は、小さく震えていた。
怖いのだ。それも無理はあるまい。
彼女はこれから姫様の代わりに、野盗たちの慰み者になるのだ。
(――ただの贄にすぎないのですから)
さっき漏らした、彼女の言葉がようやく理解できた気がした。
同時に、俺の内面に、ゆらりと青白い炎が燃え上がった。
何かわからねえ。わからねえが、許せなかった。
俺たちの世界だろうが、異世界だろうが、理不尽が横行している。
そいつに対する怒りなのか、『流星』に対する怒りなのか、わからなかった。
俺はできるだけやさしくその手を解いていくと、彼女を振り返った。
「いいか、どんなことがあっても、馬車から出るんじゃないぞ」
「いや、行かないでください」
「大丈夫だ。俺が、お前を護ってやる――」
そういい残して、俺はひとり馬車の外へ出た。ゆっくりと馬車の正面へと回り込む。
30人といったが、間近で見ると、もっと人数は多そうだ。
「たったひとりで俺たちの前に立つとは、見上げた根性だな。いや、単なる馬鹿か?」
「どっちでもいいさ。お前が『流星』の頭目だな?」
「まあ、一応は、そういうことになっている」
「――――?」
俺はその男の持って回った言い回しに、ちょっとした不審さを憶えたが、感情のほうが先走っていたのでそれ以上深く考えることをやめた。
「頭目なら、お前がここで一番強いんだろう?」
「――そうだ、俺が一番強い」
男はなんの衒いもなく、堂々と言い放った。
こういう男は嫌いではない。
「ならば、ちょうどいい。おまえが一番強いなら、俺と勝負しろよ」
「なんだと――?」
「耳が遠いのか。俺と勝負してみろよ、と言ったんだ。それとも、ひとりの傭兵にビビッて、背後のお仲間に助けてもらうかい?」
男の顔が、みるみる赤らんでいった。屈辱に染まった顔だ。
俺の言葉は、明らかに男の矜持を傷つけたのだ。頭目が何か言い返そうとした瞬間だった。野盗のひとりが、そっと頭目の側に近寄り、なにやら耳打ちをしている。
「――ほう、お前、徒手空拳の使い手か」
「よく識っているじゃないか」
「それで俺の部下を、ふたりも殺ってくれたそうだな」
「手ごたえのない奴ばかりだった。もっと鍛えておくんだな」
「それでのぼせ上がって、俺を倒そうという腹か。面白い」
男は豪快に肩をゆすって笑うと、意外な行動に出た。
なんと彼はおもむろに、頭を覆っていたヘルメットを外した。
重い装甲も次々と外していき、身軽になると、俺の前に立ちはだかった。
その顔には、太い笑みが浮いている。
――おもしれえ。
俺も身につけた装備を外し、平服だけの格好になった。
対等な条件でやってくれるというのだ。こいつに乗らない手はない。
「それじゃ、軽くひねり殺してやるか」
「さて、そう簡単に殺れるかな」
「なあに、殺れるさ――」
頭目と俺は、睨みあった。
『傭兵というもの』その1をお届けします。
次話は来週となります。




