その2
俺たちは村か、町を探して、歩きはじめた。
最初は6人で出かけた俺たちだったが、無事に町へと到達できた人数は、5人に減っていた。
ひとり、死んだのだ。
そいつは例の、4人の訳知り顔の学生たちのひとりだった。
近くにある森をつっきって行こうなどと提案したのだ。
なぜそんなことを言い出したのか、俺にはさっぱり理解できない。まともな神経を持っているものならば、特にだ。
俺たちが住んでいた世界――今となっては、そういうしかない――でさえ、そうだった。木々の根元に蛇がのたうっているかもしれないし、暗がりに猪や熊が潜んでいるかもしれない。そんな危険な場所であることには変わりがなかったはずだ。
だが、彼はこう言った。
「木切れでも何でもいい、武器を手に入れるべきだ」と。
もっともらしく聞こえるセリフだ。
すくなくとも俺以外の連中は、そう感じたようだ。
今どきの子供というのは雄弁だ。学のない、俺の口下手な説得が通じるほど容易な相手ではない。多数決という数の暴力で押し切られ、俺たちは森へと脚を踏み入れた。
俺の第一印象としては、いやな森だということに尽きた。
この森には陽がほとんど差しこまず、暗い。
空気がどんよりと澱んで感じられた。
俺には一応ながら、キャンプ経験がある。だがここには俺が識っている、森林特有の清涼な風の流れはまったく感じられなかった。
一歩入っただけで、ここは俺たちのような半端者が入ってはいけない空間だということが、肌にピリピリと伝わってきた。ここは弱肉強食の世界であり、そのなかで俺たちがもっとも矮小で、貧弱な存在だということがわかる。
おどろいたことに他の連中は、特に何も感じていない様子だった。
俺は親父の教育方針で、六歳のころから空手を習わされた。嫌々ながらも、な。
その空手を勧めてくれた張本人である親父は、博打狂いで、やがて巨大な借金をかかえて俺たちの前から蒸発しちまうんだが、ともあれ俺は空手を続けた。もちろん、道場に通うカネはなかったが、空手の練習というのはどこでもできるもんだ。たとえば、路上でもな。
そのうち俺は自分でカネが稼げるようになると、再び道場通いを再開するんだが、ともあれ俺は多少なりと、空手が使えるということだけ理解してくれればいい。
闘いってものに、若干だけ触れているんだ。だから分かる。
この森は殺気に満ちあふれているということが。
俺はできるかぎり低く、抑揚のない声で一同に告げた。
「――おい、ゆっくりでいい。ここを出よう」
「な、何言ってるんだよオッサン。まだ何も手に入れてないんだぞ」
「もしかして森にびびっちまったのか、立派な体格してる割に」
「ああ、びびってる。だから早くここを出るんだ」
俺は素直に認めた。意地を張っている場合ではない。
少年たちは意外そうに目をまるくしたが、俺の意見に耳を傾ける気はさらさらなさそうだった。
「まあまあ、俺たちだって、深入りするつもりはないよ。熊とかいたら大変だもんな。だから手頃な棒切れでも拾ったら――」
そいつは最後まで、言葉を発することができなかった。
頭の半分を吹き飛ばされてしまったからだ。
吹き飛ばした奴は、よく姿が視認できなかった。あまりに一瞬の出来事だったからだ。
そいつは俺の背後へと着地し、こちらを炯炯と光る眼で凝視していた。
そこでようやく、俺は怪物の全貌を把握した。
そいつは豹のような姿をしていたが、その数倍も巨大だった。
縞のないトラと言った方が、一番しっくりくるかもしれない。
一瞬だった。
その大型のトラもどきは、俺と少年が会話していたわずかな間に、背後から空中で彼の頭蓋を噛み砕き、速度を落とすことなく、ひらりと俺の背後へと着地したのだ。
俺は可能なかぎり素早く、そいつの方向へ向きを変えた。
猫足立ちの姿勢で、両手を前方へと構える。
野生動物に背中を向けてはいけない。そいつは最大のタブーだ。
そして、徒手空拳でトラに勝った格闘家など存在しない。
これだけは間違いない事実だ。
この怪物がトラほどの戦闘力を有しているのか。おそらく今の動きでは、あると見ていい。
「動くな、じっとしていろ――」
俺は今にも逃げ出しそうな、他の連中に静かに言った。
背中を向けたが最後、この化け物はそいつを狩りにかかるだろう。
こいつはこいつで、俺の戦闘力を見極めようとしている。俺より強いのかどうか。野生の生き物というのは、そういう部分は敏感に察知する。
俺は恐怖心で、内面ドロドロになっていた。
そう、完全にビビッていたが、ビビリを相手に見せるのはクソ以下だ。俺は歯を食いしばった。できる限りゆったりと見えるよう、ガードを固めたまま、後ろのガキどもに命じた。
「そこの遺体を、あいつに投げろ」
「――えっ? い、嫌だ!」
「死にたいのなら、やらなくていい。生き延びたければ、やれ」
俺は言葉を投げつけながら、全神経を怪物へと向けている。
気合だけだ。俺にあるのは気合とハッタリだけだ。
万が一にも奴が襲い掛かってきたら、人間の反射神経では野性動物に太刀打ちできない。上にのしかかられて、頚動脈を食いちぎられるのがオチだ。
「私がやるわ!」
凛とした声でそう言い放ったのは、御木本かすみだった。
彼女はあらん限りの力をこめて、死体となった少年を投げた。だが、死体というのは水の塊だ。重い。それは俺の目の前へと転がっただけであった。
俺は構えを解いた。
そしてゆっくりと首のない、少年の死体を抱え上げ、荷物をトラックの荷台に投げこむ要領で、化け物の足元へと投げつけた。
化け物は警戒する呻り声を発したが、それ以上はなにもしてこなかった。遺体の脚を上下の牙でくわえこむと、ずるずると引きずりながら、森の奥へと姿を消した。
ときおり警戒するように、こちらの方向を見やりながら。
俺は完全にやつの姿が消えたのを確認すると、ふうっと短い吐息を発した。とりあえず、命だけは拾ったようだ。
「すごいわね、あなた……助かったわ……」
御木本かすみが何か背後で言っているが、心臓のやつがうるさくて、まともに声が聞こえない。俺は曖昧な返事をすると、へたりこんで泣いている少年少女に声をかけた。
「わかっただろう。ここは俺たちが居ていい空間じゃない。出よう」
返事も待たず、俺は来た道をもどった。
「ちょっと、子供たちは怯えてるのよ。手を貸したらどう?」
その言葉は、俺の足を止めるのに、ひとつも役に立たなかった。
それより俺の方が、今にも絶叫して逃げ出したいくらい怯えていたからだ。
手足の震えが止まらないのを、見られたくはなかったからだ。