その9
「――おい、ボガード、朝だ」
俺はレミリアたちに起こされ、淡い夢から醒めた。
周囲を見渡すが、まだ昏い。陽は昇っていないようだ。
俺は、深く酸素を肺へ送りこみ、そいつを咀嚼する。
空気はまだ夜の味がする。
払暁――傭兵たちの朝は早い。あちこちから身を起こす気配がする。
俺は軽く柔軟をして、身体の調子を確かめた。さいわい、どこにも痛みはない。だが昨日の激戦の疲労は、完全には払拭できてはいない。
若い頃はよかった。どんなに疲労していても、翌朝には、すっきりした気分で起床できたものだ。
だが、失われたものは戻らないもんだ。
割れたコップを、どんなに繋ぎ合わせても、もとの状態には戻らないように。
「どうしたボガード、宿のベッドが恋しいか?」
ヘルメヒトが、何気なく声をかけてきた。
「そりゃそうだ」と応えるしかない。
いつ襲われるかも知れぬ、気を張った状態での野宿では、安眠できないのは当然だ。それに火があるとはいえ、森の夜は想像以上に冷える。
考えてみれば、俺はこの異世界に落ちた最初の段階で町に到着し、屋根のある暮らしばかりを送ってきたのだ。こんな生活があと数日続くかと思うと、正直げんなりするぜ。
こいつがたとえ、現代人特有の甘えといわれても。
傭兵とは、こういう日々を平然と送れなければ駄目なのだろう。
昨日のシャアハの言葉が頭をよぎった。
(お前の動きは、洗練されていない)
(本当の傭兵の素人だということは、見ていてわかる)
――そのとおりだな。まあ、命があるうちに学習するしかねえ。
朝食を摂る間もなく、俺たちは出立した。
馬車の音は軽快に、街道にこだまする。俺はといえば、昨日と同じように、中央の馬車に呼ばれている。偽姫様の旅の無聊を慰めるために、さまざまな話をしている。
俺のぶっきら棒な語り口に、彼女は満足しているのだろうか。
正直なところ、自信はない。
だが、彼女は無邪気に、俺の話に没頭してくれているようだ。
俺はすでに、いろんな話をした、と思う。
たとえば龍よりも速い、人間が造った空飛ぶ鉄の塊の話。
たとえば馬車よりも疾く移動できる、鉄道の話。
そして、会話もできれば文字も打ち込め、写真も撮れる小さな板の話。
だが、いずれにしろ、テクノロジーに疎い俺の説明は要領を得ない。
相手も上品に頷き、それなりに納得している顔をしているが、内心は寸分の一も理解できているかどうか、わからない。
彼女はいつしか、形のよい柳眉を寄せて俺を見ている。
訊こうか訊くまいか、躊躇している顔だ。
「……もしよろしければ、ボガードさん自身のお話を聞きたいですわ」
と、言ってきた。
「そういわれても、簡単なクエストを受けては、宿で寝るの繰り返しですよ」
「いえ、そうじゃありません。異世界での暮らしぶりをお聞きしたいのです」
「――訊いて、どうするんです?」
「異世界の暮らしというものに、興味があるのです。特に――」
「特に――?」
「恋愛とか、どうされているのかな、とか――」
「そりゃあ、当然――」
と、言いかけて俺は口を閉じた。
俺たちの世界では、恋愛結婚は普通だ。むしろ、それしかねえとしか言いようがない。だが貴族社会は違う。生まれ落ちた瞬間から、婚約者が決定されているような世界だ。
単純に、恋愛というものに憧れがあるのだろうか。
(いや、待てよ。この娘は本物の貴族のお嬢様ではないはずだ)
そう考えると、少し頭が混乱してきた。
だが、ここで余計な詮索を入れるのも野暮かもしれない。
俺のそうした思惑をよそに、彼女はさらに問いを重ねてきた。
「ご結婚は、されているのでしょう? ボガードさんぐらいのお歳なら」
「――いや、してないですね」
「ええっ!! どうして?」
偽姫様は、こっちが反応に困るぐらい劇的な驚愕っぷりをみせた。
確かに、俺の同級生のほとんどは、結婚し、子をもうけている。だが、現代日本じゃ、男女のあり方も複雑化している。結婚していない男女も、割合的には多くなっている。俺みたいなやもめ暮らしも、そう不審なことではない。
しかし、この人の命の軽い異世界では、ちいとばかり事情が異なるようだ。
俺ぐらいの年齢で結婚していないのは、かなり奇異なことなのかもしれない。
「――まあ、いろいろあった、というべきでしょうか」
「とても意外です。好きな方とかはいらっしゃらないのですか?」
いた――ことは、あった。
学生の頃と、5年前のことだ。
あまり振り返りたいような記憶でもない。
学生の頃の俺は、ただの馬鹿野郎だった。
とにかく荒れていた。親の愛を知らず、教師も信じられず。ひたすら内蔵を焦がす、煮えたぎる怒りのマグマで、沸騰しそうな日々を送っていた。
すべてを憎んでいたし、すべてを傷つけていた。
他人も、自分も、愛する人でさえ――。
もうひとつの愛は、5年前に破綻した。
俺の煮え切らなさが、別れた原因のすべてだった。
自分で、自分がどうしたいのか、わからなかったのだ。
結婚して、子供を育て、彼女と幸せな家庭を築く。そんな未来予想図が脳裏に描けなかった。――いや、そいつも真実からは離れているような気がする。
何かにケリをつけなければならない気がしていた。
じゃあ、それは何かと彼女に訊かれると、答えられない。
彼女――美津子とは、3年もつきあっていた。
美津子も、すでに三十路手前まで来ていた。いい加減、焦りもあっただろう。だが俺はトラックの業務の多忙さを理由に、いつも返事を先延ばしにしていた。
ある日、疲れて帰宅してみると、家には書置き一枚があった。
「もう、貴方を待つのに疲れた」と。
部屋からは、彼女の衣類も、靴も、すべてが消失していた。
そうだ。俺は、捨てられたのだ。
俺は強がったものさ。なってしまったものは、仕方ないと。
だが、どうしようもない心の穴が、ぽっかりと開いたまま、今でも閉じてはいない。
すべては、俺の優柔不断が招いたことだ。
どんなに身体を頑健に鍛え抜いても、心まではどうにもならない。
俺は知らずに、胸元を探っていた。無性に煙草を吸いたい気分だった。
はっと気がついて、偽姫様のほうを見る。
彼女は身体の動きを止めていた。
馬車は烈しく揺れていたが、彼女の瞳は揺るがない。
風のない、青い湖畔のような静謐そのものの瞳で、俺を見ていた。
(まいったな……)
俺はこんなつまらない戯言を、口に出して呟いていたのか。
恥ずかしさで、今すぐ馬車から飛び降りたい気分だった。
さぞかし俺を軽蔑しているだろう、と思い彼女のほうを見やる。
意外な反応が待っていた。不意に静かな湖畔が揺れた。
彼女の両眼から、ふたすじの涙の雫が流れ落ちていた。
「――――?」
彼女の意外な反応に、俺が戸惑いを隠せないでいると、
「ご、ごめんなさい。どうしてかしら。お話を聞いているうちに――」
そういって、また涙を零した。
何に対する涙なのだろうか。俺にはわからなかった。
待つのに疲れた、美津子に対する涙か。
彼女に捨てられた、俺に対する涙か。
多感な時期の女の子なのだ、深い意味はないのかもしれなかった。
そんなくだらないやり取りをしているうちに、森の前方にほのかな光が見えてきた。どうやらこの暗い森林の出口が見えてきたらしい。
「ふう、やっとこの不愉快な森林地帯を抜けるな――」
騎士のひとりが、そう声をはりあげた瞬間だった。
すさまじい轟音とともに、目の前を疾っていた馬車が消失した。
馬と、御者の悲鳴と、何かが大木に衝突する音が連鎖して起こった。
俺たちを乗せた馬車の御者は、突発的な事態にあわてていたものの、行動は冷静だった。すぐさま回避行動をとり、俺たちの馬車を街道わきに止めた。お陰で背後を疾る馬車に追突されることもなかった。
何が起こったのか、まったく理解できない。俺が慌てて馬車の窓から外を覗くと、信じられない光景が眼に飛び込んできた。
撞木だ。
いや、巨大な丸太が、宙に浮かんでいたのだ。
それで、俺はおおまかな状況を理解した。奴らだ。
『流星』が、ここに罠を張っていたのだ。
先だっての戦闘で、彼らは学んだのだ。この部隊の最大の脅威が、最前列を走っている馬車に詰まった傭兵たちであるということを。
そこで作戦を練ったのだ。中央のお姫様を傷つけることなく、傭兵だけを吹き飛ばす方法を。
それがこの、巨木の枝に、ロープでぶら下げた撞木というわけだ。
こいつで最前列の馬車を吹き飛ばし、中のベテラン傭兵たちを戦闘不能に追い込もうと考えたのだ。そしてその目論見は、まんまとうまくいったようだ。
レミリアたちを乗せた馬車は、街道わきの大木に衝突したまま、微動だにしない。馬か御者が死んだのだろうか。
中から、誰かが出てくる気配がない。気絶しているのかもしれない。
彼らの代わりに、街道わきの森林から、躍り出てくるものがある。
もちろん、『流星』の連中だ。
彼らはすさまじい勢いで、目当ての馬車に殺到しはじめた。
当然、偽姫と、この俺を乗せた馬車に――
『大きな仕事』その9をお届けします。
今回2話分をまとめたので難産でした。
次は来週の火曜日を予定しています。




