その5
矢が飛んでくる方向は、ひとつではなかった。
街道を挟んで、両側の森林から降ってきている。
射手そのものの姿は、暗すぎて見えない。これほどまで暗いと、あちらも矢の狙いがつけにくいだろう。だから夜襲には、火矢を用いるのが常道だ。そいつを標的に当てて、ちょっとした松明の完成というわけだ。
俺たちにとって幸運なのは、連中が火矢を使えないという点だ。
当然といえば当然だろう。あちらの目的は、あくまで領主の娘、メアリー・マルローヌ嬢の誘拐であり、うっかり焼き殺してしまっては元も子もない。あくまで目的は牽制であり、本当の狙いは、俺たち護衛の全滅であるはずだった。
レミリアが「来る」と言ったのは、その矢の攻撃が止んだからだ。
当然、牽制の次に行われるのは、本格的な攻撃だ。
案の定、敵の集団は剣を振りかざして突進してきた。
こいつらが噂の『流星』なのだろう。
結構な数だ。こちら護衛側が騎士3人、傭兵が10人。
襲撃側が、それ以上の数を用意するのは当然だろう。
暗闇がどちらにとって幸いするか、現時点ではまるでわからない。
あちらこちらで、明かりが灯った。
剣が激突する火華だった。
「なっ――!」
「ど、どういうことだ!?」
防衛側からの声が、暗い森林にこだました。
驚愕の理由を俺が理解したのは、自分の眼前に迫った男の姿を確認してからだ。接近戦となり、おぼろげだった敵の輪郭が、はっきり判別できるようになっていた。
『流星』の装備が、こちらの想像以上に整っている。
普通、野盗のたぐいというのは、傭兵ギルドからつまはじきにされるような、どうしようもない無頼漢どもだ。一般市民からゼニを巻きあげたり、人を殺してでも利益を得ようとする悪党が大半だ。
当然彼らは、王国やギルドからの討伐対象となり、町から離れた場所に潜伏する羽目になる。
人から離れた集団というのは、どこか獣くさくなる。
ただでさえ常人のルールを外れた連中が、さらに獰猛になっていくというわけだ。
お尋ね者の彼らは、尋常な手段で町に入ることはできない。
つまり、装備も最新のものなど入手できないから、手持ちの武器が損傷しても、自分で修繕したりしなければならない。どこかの村人から略奪したような、農具のような武器を持った野盗もいる。
そうなると、どこか統一性のない、不恰好な集団になる。
だが、目の前にいる集団は、そうした野盗像とはかけ離れた格好をしている。
装備のほとんどが、黒い色で、ほぼ統一されているのである。
しかも装備は、俺の眼から見ても良いものだと知れる、高級そうなものを揃えている。剣も、俺の数打ちよりよっぽど斬れそうだ。
頭にも鉄製のヘルメットを被り、肩当、胸甲、ガントレットと、ほぼ全身が鉄で覆われているといっても過言ではない。フルプレートじゃねえが、それに近い。
レミリアたちベテラン勢は、それなりに良い装備をしているが、俺やヘルメヒトのような一介の傭兵は、単なる革鎧だ。装備では、すでに敗北を喫している。
あるべきことではなかった。
だが、それが現実となって目の前にある。
「――へへ、おい、どうした、おっさん」
野盗のひとりが、いやらしい笑みを浮かべて、話しかけてきた。
「震えているんじゃねえか?」
そうだ。俺はいつのまにか、震えていた。
隠しようもねえほど、完全にビビっていた。
俺の眼は闇に慣れ、それなりに周囲が見えるようになっていた。
敵の掌のなかで、ぬめりと輝く金属の刃が見える。
その殺意のこもった光――そいつに圧倒されていたのだ。
俺の全身から、異常なほどの汗が分泌されているのがわかる。
無言の刃物の恐怖。
そいつがひたひたと、俺の全身を浸していた。
・・・・・・・・
俺はむかし、刃物を抜いた男と対峙したことがあった。
当然、転移前――まだ俺が日本にいたときのことだ。
そのときは、何の仕事をやっていたか、もう忘れちまったが――俺が公園のベンチで、つかの間の休息をとっていたときのことだった。
「ふざけんじゃねえ、このアマが――」
「やめて、痛い痛い!!」
「俺を舐めやがって。あんな野郎のどこがいい、このアバズレ――」
俺は声のした方を見やった。誰もが、そちらを見ていた。
どうやら、色恋沙汰で揉めているようだった。紅いジャンパーを着た中肉中背の男が、耳に残るような甲高い声で、女性の髪を引っぱって怒鳴っていた。その様子は完全に常軌を逸していた。
誰もが遠巻きに、ただ、それを眺めていた。スマホをいじっている連中もいたが、助けるためではない。面白半分で動画を撮影しているような奴ばかりだった。もしかしたら通報している可能性もあるが、髪を引きずり回されて泣いている女性を、助けようとする奴はいないようだ。
俺は仕方なく、ベンチから腰を上げた。
「おい、それぐらいにしといたらどうだ?」
「な、なんだテメエは、うるせえな――!!」
男はおもむろに、ジャンパーの内側から、新聞紙に包んでいた出刃包丁を抜いた。捕まっている女性が、甲高い悲鳴をあげた。
「死にてえのか――?」
「なにがあったか知らんが、落ち着け。怪我をするぞ」
「怪我をするのは、てめえだけだよ」
俺は魅入られるように、その出刃を見つめていた。
その殺意に満ちた、暗い光芒を見つめていた。
気がつけば、男は震えていた。
恐怖ではなく、極度の興奮状態に陥って、震えているのだ。
俺もかすかに震えていた。空手であろうが、剣道であろうが、いやMMAですら、敗北しても命を獲られることはねえ。負けても、鍛錬し直して、再チャレンジすることができるのだ。
だが、こいつは違う。急所に刺されば死ぬ。
いや、わざわざ急所を突かなくてもいい。動脈をカットすれば、出血量によっては、死に至らしめることができるのだ。
俺は、こんな赤の他人の喧嘩に巻き込まれて死ぬのか。
そういう恐怖が、胸中に渦巻いたのを憶えている。
幸いなことに、俺は死ななかった。だからここにいる。
・・・・・・・・
あのとき抱いた、死という絶対的な恐怖――
そいつが再び、俺の目の前に立ち塞がっていた。
「――おっさん、素人かよ。なら、さっさと退場願おうか」
男が、剣を振りかぶる気配を察した俺は、先んじて剣を振った。
「ぬうううっ――!」
でたらめだった。それまで習った剣技はどこかへ消え失せていた。
必死に練習した三ヶ月は、まったくの無意味だった。俺は駄々っ子のように、剣をぶんぶんと目茶苦茶に振り回すことしかできなかった。
自分でも、愚かしい行為をしているということは分かっていた。こんなことをやっていたら、すぐにヘバる。だが、愚かしいと理解しながらも、止められなかった。恐怖が自制心を凌駕していた。
男は少しずつ後退し、俺のでたらめな攻撃をかわしている。
相手は待つだけでいい。こんな攻撃が長く続かないことは明白だ。
俺のスタミナが切れたとき、悠々と首を刎ねればいいのだ。
男は虎視眈々と、その瞬間を待っている。
息が上がってきた。もうそろそろ限界が近い。
こんな処で死ぬのか。こんな馬鹿な死に方があっていいのか。
俺が胸中で、そう自問自答していたときだった。
その現象は唐突に起こった。
死という暗澹たる深淵に飲まれ、ひたすら恐れおののくしかなかった俺の心の内側に、ほのかな緑の光が灯ったのだ。
さっきまでの俺は、まるで星ひとつない、漆黒の大海原を彷徨う船だった。
右も左もわからず、ただ荒れ狂う波に翻弄されるがままだった。
そんな俺を、その光はやさしく照らしてくれている。
あたかも陸地へ導く灯台の光のように。
何の加護が働いているのか、すぐ俺にもわかった。
護符だ。
メイが汗だくになって教会から持ってきてくれた、護符が、おれの内側に吹き荒れる嵐を、凪に換えてくれたのだ。
宿を出るときの、メイとのたわいない会話。そいつが俺の脳裏に鮮明によみがえった。
(大事に持っていてね。それ、効果があるみたいだから)
(だ、大事な上客だから。死んでもらったら困るから!)
――ありがとう、メイ。俺は大丈夫だ。
俺は、荒い呼吸を吐き出し、がっくりと両膝に手をついた。
額から大量の汗がしたたり落ちる。
スタミナ切れ――
こんな絶好の機会を、相手が逃すわけがなかった。
「もらった――っ!」
だが、これは誘いだ。俺はこれ見よがしに、相手に頭を差し出す格好になっている。
男は一気にケリをつけるべく、大上段から、俺の首筋めがけて剣を落とす。
どこへ落ちるか、剣の軌道がわかっていれば、かわすのは容易い。
俺は斜めに旋回しながらそれをよけると同時、カウンターの肘を、相手の顔面に突き刺していた。
ムエタイの回転肘打ちだ。
俺は、相手の鉄兜には、面頬がついてないことに着目していた。
本当は顎先を狙っていたのだが、崩れて、顔面に炸裂したのだ。
だが、効果は覿面だった。鼻骨の砕ける、嫌な感触だけが肘に残った。
「うげええええっ!!」
敵は大きくのけぞり、大量の鼻血を撒き散らしながら、地面をのたうった。
俺はつとめて冷静に、患部に注射針を落とすような感覚で、剣尖を相手の咽喉元へと落下させた。簡単にはいかない。不恰好に、失敗をくりかえし、四度目で、ようやく相手の息の根を止めた。
初めて、人の命を奪った瞬間だった。
俺の頬に、つうっと熱いものが流れている。
なぜかはわからない。俺の双眸から、とめどなく、涙があふれていた。
「――俺は、死なない」
メイは今頃、あの宿で、俺の帰りを待っているだろうか。
そうだ。こんな異世界にだって、俺には帰るべき場所がある。
「俺は、死ねねえんだ……」
もう一度、ひとりごちた。
涙のやつが、どうにも止まらなかった。
ちょっと遅くなりましたが、「大きな仕事」その5をお届けします。
投稿頻度を何とか、もう少し高めたいと思うこの頃であります。




