その2
叢雲が、風に急き立てられるがごとく流れている。
やがてそれは空一面を完全なる灰色に染め上げる。
俺たちがアキレスの話を聞いて、いそぎコンバッシに戻ると、町の雰囲気は一変していた。俺は抱いた疑問をそのままアキレスへとぶつけた。
「アルスター辺境伯は、すでに人々に戦争に突入すると発表したのだろうか?」
「いや、それはないだろう。往来停止は戦の前段階に過ぎない。まだ、交渉の余地は残されているということだ。――望みは薄いかもしれんがな。そんなあやふやな状況で、市民に情報を漏らすなんて、ありえないことだ」
「それにしては、尋常じゃないものものしさだ」
アキレスはこれには応えず、無言で人差し指を前方へ向けた。
馬蹄のとどろき。武装した騎士たちが、慌ただしく馬を駆って何処かへと去っていく。いつもは陽光を受け、まばゆい光を放つ甲冑も、曇天がそのまま地に降りたかのような鈍色に染まっている。
目ざとい傭兵たちは猟犬のように戦の臭気を嗅ぎつけ、武器屋へと殺到しつつある。風の動きは目には見えぬが、皮膚で感じられるものだ。
人々はあちこちで寄り集まっては、ひそひそと声を潜めてささやきあっている。気の早い商人が、家の前に止めた荷車に、家具を次々と運び込んでいる。
誰もが肌で、感じとっているのだろう。
やがて、この町全体を覆うであろう戦雲の影を。
「なるほど。そういうことか」
「そうだ。この町は帝国領に最も近い町だからな。人々も常に危機感を持って生きている。だからこそ、わかることがある」
戦争が近いのではないか、という緊張感のなか、人々は恐慌状態に陥ることなく、ギリギリの精神状態を保って生きている。これがコンバッシという町の気風なのだ。
俺たちはそんな殺伐とした大通りを縫って、どうにか宿へと帰ってきた。ふりむくと、ソルダは肩で息をしている。俺たちのペースに合わせて走ってきたので、かなりきつかったのだろう。ペルセベはアキレスの影のように、ひっそりと背後に付き従っている。
部屋の扉を開くと、そこには――
「おかえりー」
笑顔のメルンが椅子に座っていた。
「呑気だな、お前は」
気が抜ける思いだった。メルンは何事もなかったかのように、小さなテーブルに置かれたカップを傾け、優雅にお茶など啜っている。まさか周囲の状況を把握していないわけではないだろうが、それにしても、人を苛立たせるのがうまい女だ。実はいろいろと考えているだろうに、何の悩みもなさそうな顔をしているのが、無性にイラっとする。
「……ヴェルダは何と言っているんだ?」
「ん――? 師匠がどうしたの?」
「そんな余裕をぶっこいていられるんだ。どうせこの状況も、あらかじめヴェルダから聞かされていたんだろう。それで、彼女は何と言っていた?」
「なんにも」
「なんにもとは?」
「なんにも聞かされてないってこと」
意外な言葉に、俺は首をひねった。
あれは闘技大会の真っ最中のことだ。俺のことを逆恨みしたラーミアという女闘士が、ソルダを誘拐するという事件を起こしたことがあった。
そのときはヴェルダの予知能力のお陰で、危機を脱することができた。だからこそ、このメルンの余裕の態度は、裏でヴェルダが何らかの指示を出してくれているのだろうと思い込んでいたのだ。
だが、メルンの発した言葉は、意外なものだった。
「師匠とは、いま連絡が取れない」
「どういうことだ」
「言ったままの意味。師匠へ使いの鳥を送っても、返事がない。何か面倒なことに巻きこまれたのか、それとも引っ越しで立てこんでいるのか、よくわからない」
そういえば、陰ながら、ひっそりと俺を護ってくれていたグルッグズの気配もない。あれほどの予知能力を持った魔女が、何かの事件に巻きこまれるということがあるだろうか。
あるのだろう。弟子のメルンですら連絡が取れないというのだから、相当のっぴきならない事情が。
「つまり今回は、自分の力で乗り切るしかないということか」
「そうそう、がんばって」
「お前も頑張るんだよ」
つくづく、人を苛立たせるのがうまいやつだ。
それにしても、俺は不審だった。たしかゼーヴァ帝国の『氷の将軍』こと神田蒼月が、反戦派の筆頭だったはずだ。やつは水面下でフランデルと交渉し、和平への道を探っていたはずだ。
にもかかわらず、この急転直下の状況だ。
(あいつがしくじったのか。まさか、殺されたということは――)
ないだろう。それだけは確信がある。
あいつを殺せるような奴が、ほいほいといてたまるか。
しかし、帝国で何が起こっているのか、俺の理解を超えている。もともと、蒼月の考えていることなど、理解できた試しがないのだ。
(蒼月――なにを考えている?)
俺は部屋の窓を開いて、西の方角を見やった。そこは広大なゼーヴァ帝国の領土が広がっている筈であり、神田蒼月もそこにいるはずである。
だが帝国は、薄霞む灰色の雲と峩々たる稜線とに覆われ、肉眼で捉えることはできなかった。
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その日の会議室の雰囲気は、何もかもが気に入らなかった。
その石造りの広間の中央には、巨大な円卓が部屋を圧するように鎮座ましましている。この会議室が、通称『円卓の間』と呼ばれているゆえんである。
あかあかと部屋を照らし出す燭台は、円卓に腰を降ろしたひとりの人物の影を、妖しく躍らせている。常ならば6人の人物で埋まるはずの円卓には、不思議なことに他に誰の姿もない。
「そんなところで突っ立ってないで、座ったらどうだ」
「ずいぶんと、ご機嫌のようですね」
僕は彼に勧められるまま、自らの席に腰を降ろした。そう、彼が座っている席も気に入らない。何故なら、ひときわ豪奢な飾り付けがされているその席は、本来ならばゼーヴァ帝国の支配者である、ディアグル三世が腰を降ろす席だからだ。
「驚きましたね」
「――なにをだね、『氷の将軍』どの?」
「あなたがその至高の席を埋めているからですよ。『炎の将軍』殿。ついに我らが主君を弑逆し奉るという大罪に手を染めたのでしょうか?」
「人聞きのわるいことを」
『炎の将軍』ことヴルワーンは耳障りな笑い声を立てた。
自らの優位を確信した者の笑みだった。
「陛下には、あるお部屋でおくつろぎ頂いているだけだよ」
暗に、軟禁状態にあるということを言っているのだろう。
僕はさらに問いを続ける。
「他の将軍の皆さんは、どうしました?」
「協力的な皆さんには、それなりの地位を――」
「非協力的な皆さんは、どうしました?」
ヴルワーンは、再度哄笑した。いうまでもないだろう、と言いたげな笑いだった。彼は特徴的な赤味がかった瞳を僕の方へ向けると、
「さて、蒼月どの、あなたにも聞かなければならないだろう」
「なにをです?」
「この私に協力する気はあるか、ということをだ」
「……なにが目的です?」
「無論――フランデル、アナンジティ両国を併呑し、わがゼーヴァ帝国の支配を盤石なものにすることだよ」
「お断りさせていただきます」
「ほう、それは残念だ」
「そうは思っていない貌ですね」
僕は、一向にアルカイックな笑みを引っ込めない、ヴルワーンの赤い瞳を見返して言った。
「嬉しくてたまらないという顔だな」
「そのとおりだ。私は貴様の余裕しゃくしゃくの佇まいが、ずっと気に入らなかったのだ」
「奇遇ですね。僕も、あなたの事が嫌いです」
こちらもできるだけ朗らかな笑みを返してあげると、途端に彼の余裕の笑みは引っこんだ。代わりにその表情に浮かんだのは、明確な憎悪だった。
「――鉄砲部隊!」
言い終わらぬうちだった。
扉を激しく蹴り破る音がした。ガチャガチャという騒音とともに、火縄銃を抱えた7人の男たちが、部屋に突入してくるや、一斉にその筒先を僕へと向けてきた。
「お前がいくら徒手空拳の達人でも、鉛玉をかわすことはできまい。――さあ、円卓の間を紅色の間に変えてしまえ」
ヴルワーンの右手が振り下ろされた。
今回はかなりの難産でした。『動乱』その2をお届けします。
次話は水曜日を予定しております。




