その4
決闘日当日、俺たち一行は滞在していた宿から出て、決闘の行われるコンバッシ競技場にやってきた。コンバッシ競技場は王都の円形闘技場と比較すると、規模は遥かに小さいが、この殺伐たる環境にある国境の町において、唯一無二の娯楽施設として君臨している。
「厳正な決闘というが、これじゃ単なる見世物じゃないか」
思わずぼやくと、アンジェリアはすかさず反論する。
「それは違います。衆人環視の中であるからこそ、粗末な陰謀の入り込む余地がなくなるのです」
「そんなものか」
「そうです。それより、早く控え室に入りましょう」
「まあ、そう焦るな。勝負はまだ先だ」
俺たちは馬車から降り、石造りの階段を昇った。背後で馬車が迅速に立ち去る音がした。俺の左にはメルン、その斜め後ろにソルダがいる。アンジェリアは先頭に立ち、せわしなく俺たちの方を見やってやきもきしている。グズグズするなといいたげな顔だ。
階段を昇りきると、円柱が円形に林立する独特のフォルムの建物物が目に入った。大きさから見積もって、ざっと収容人数は3000人といったところだろうか。もう少し入るかもしれない。
聞けば、相手側の闘士もクロノル・トワイント一行も、すでに建物内へと入っているらしい。それでも約束の刻限はまだ一刻ほどもある。そうだとも、焦ることはないさ。
ソルダの表情が暗いのが気になるが、気にかけている余裕はなかった。俺たちに用意された控え室は地下にある。薄暗く、カビっぽい空気が肺に悪そうな気がした。本来の用途は別にありそうな部屋だな。
俺はぐっと拳を固め、虚空を殴った。
音が悪い。いつものキレがない。それも当然のことだ。毎日の鍛錬を怠った者が、どうしていつもの力が発揮できるというのか。トップクラスのバスケット選手は、毎日300本から500本のシュート練習を行うという。日頃からたゆまぬ鍛錬を積むからこそ、試合で圧倒的なパフォーマンスを発揮できるのだ。
それを識っておきながら、俺はそれを怠った。
仕合において、そのツケは廻ってくることだろう。
アキレスに負けることになるのか。
俺は憂鬱な気分で、奴になら負けてもいいか。などと破滅的な気分に陥っていた。まったく、負けていいことなど何もないのにな。
悲願ともいえる徒手空拳の大会優勝をつかみ取ってから、どうも俺の歯車は狂いっぱなしだ。あの大会で俺の魂は燃え尽きてしまったのか?
俺は自らの拳を見つめ、無言で尋ねた。
拳はただ拳のまま、そこにあるだけだ。
答えを見出せぬまま、俺は虚空を殴り続ける。粘っこい汗が流れて、俺の体内に満ちていたアルコールを吐き出していく。調子が悪いなりに、この3日の中で最高の状態に持っていくしかない。
こんこん、と部屋の扉が叩かれた。
集中が解け、俺は周囲を見渡した。ソルダは部屋が暗いのを気にして、灯りを求めて部屋を出ている。メルンも黴臭いのが嫌だと、この部屋には入らなかった。よって、俺が自ら応対に出るしかない。
「誰だ、試合前に――」
クロノルの用意した刺客の可能性もある。俺は用心のために、扉を開ける前にまず声をかけてみた。短く応えがあった。
「私だ、開けてくれ」
「なんだ、アンジェリアか」
扉を開くと、美貌に憂いをたたえたアンジェリアが立っていた。なんだか、やけに思いつめた顔をしている。扉を閉めるや否の瞬間だった。
おもむろに彼女は俺の手を取ってきた。
あっと思う間もなく、俺は背後へ投げ飛ばされていた。
いや、かろうじてトンボを切るようにして、俺は態勢を立て直した。ぶかっこうなトンボだったが、完全に虚を突かれた状況を考えれば、上出来の動きだろう。
「なんのつもりだ、アンジェリア」
「この3日のあなたの動きを見ていて、決めたことだ。あなたに決闘代理はつとまらない。ここであなたを倒して、私が闘いの場に赴く――」
「見放されたということか」
「…………」
「勝手に依頼してきて、勝手に見切りをつけるというわけか。なるほど、トワイント家のやり口がよくわかった」
「どう取ってもらっても構わない。だが、これが最善の道だ」
黴臭い地下室で、闘いの火ぶたが切って落とされた。だが、俺はあいにく、女性を殴る拳を持たない。いっそのこと、彼女が小兵の男であると勘違いしていた時であればよかったんだが。
だが、彼女の技は本物で、本気だった。
俺の頬をかすめた攻撃に俺はぎょっとした。その手は拳ではなく、鉤爪状に広げられており、俺の眼を潰すための攻撃であったことは一目瞭然だった。
こうなると、俺も手を抜いて相手をするということができなくなる。せっかく全盛期の動体視力をとりもどした眼球を潰されるわけにはいかない。そこに意識を集中すれば、当然、次に来るのは下の急所だ。
俺は内股になり、彼女の急所蹴りを阻止した。
アンジェリアは舌打ちとともに、俺の素足を踏んだ。
フットワークを封じたのだ。
動けない状態にして、急所を狙う。いかにも古流らしいやり口だと思った。当然こういう状態になると、急所攻撃を心配しなくてはならない。
だが、ガードを固めるより、俺は攻撃を選んだ。
「――シッ!」
左ジャブを放った。
当然だが、俺は女性の顔面を殴ることはできない。こいつはフェイントだ。彼女はすっと自然な動作で身を沈め、下段突きを放った。
カウンターの金的への攻撃。
だが、アンジェリアの突きが俺の股間へ触れるより先に、彼女の身は中空を飛んでいた。俺の前蹴りが彼女の胴へと炸裂したのだ。
それしかないと思っていた。
彼女は俺の足の甲を踏んでいる。蹴りは使えない。となると手の攻撃しかない。俺はそう見越して、ジャブとほぼ同時に蹴りを放っていたのだ。
カウンターのカウンターだ。
「ぐっ、ごほっ!!」
彼女は部屋の隅で崩れ、胃の内容物を吐き出している。
「勝負あったな」
俺は残身の姿勢を崩さずに告げた。
「……なんの、まだまだ」
ふらふらと立ち上がったのは天晴だが、勝機はない。やれやれ、手加減したのが逆効果だったか。しかし、もし俺が本気で蹴ったならば、彼女の内臓は破裂している。せざるを得なかったというのが本音だった。
それにしても、彼女のこの執念は何だろうか。
それほどこの俺が頼りないということなのか。もう全部に背を向けて出て行ってやろうか。そう思った矢先、彼女は前に出てきた。
諸手での突きに出てきた。
いくらなんでも隙だらけだ。俺が反撃を加えるか躊躇していると、彼女はその躊躇を逆手にとってきた。無邪気に正面から組んできたのだ。
そのまま、背負い投げに持っていこうとした。
俺は腰を落としてその投げを防ごうとして、やめた。
嫌な予感がしたのだ。
「むうっ?」
その勘は正しかった。俺の腰があったところへ、彼女の後ろ蹴りが吹き抜けた。怖ろしい技だった。背負い投げの態勢で、相手を背中に固定しておいて、股間を蹴り飛ばすのだ。
だが、タネを見破れば、それは死に体になる。
俺は彼女の首に手を巻き付けて、背後へと倒れこんだ。
胴締めスリーパーの状態だ。
さすがのじゃじゃ馬も、ここから脱する方法はないだろう。
「悪いが、少し寝ててくれ――」
「うぐっ、まだだ……」
アンジェリアの無駄な抵抗ごと、スリーパーで刈り取った。
がくりと彼女の力が抜け、抵抗は収まった。
ふうっと吐息をつく間もない。突如として薄暗い部屋に差しこんだ眩い光に、俺は反射的に目を細めた。
「……なにをしてるんです?」
ソルダが怪訝そうな顔つきで、俺たちを見下ろしている。男女が部屋で密着状態になっていれば、あらぬ誤解を受けるのは仕方ないかもしれない。さて困ったな。
なんと説明してよいやら、俺が返答に窮していると――
「アンジェリア様の決闘代理の方、出番です」
無慈悲な通達が、扉の外から響いた。
この短い戦闘で、俺の鈍った身体は悲鳴をあげていた。
だが、こう答えるしかない。
「ああ、すぐ行くよ――」
『新たな町で』その4をお届けします。
次話は水曜日を予定しております。




