その1
朝まだきの湿り気を帯びた風が俺の頬を撫で、背後へと通り過ぎて行った。
緊張で硬直した俺の頬が、すこしだけ緩んだ。
それを寝惚け眼で見やったメルンは、
「疲れた笑顔」
ぼそりと言った。そしてごそごそと毛布をかぶり、ふたたび横になった。あれほど馬車の振動に苦しめられていたのに、いつの間に慣れたのだろう。案外、魔法か何かの対策を練っていたのかもしれない。
俺はつるりと自分の頬を撫でた。そんなことで疲労が抜けるとは思えないが、少なくとも心はアコラの町にいたときより、はるかに健康的だ。
俺たちを乗せた馬車は、街道をひた走る。
皮肉なものだ。あれほどまでに帰りたかったアコラの町から追われるように、俺たちは一路、コンバッシという、名前しか識らぬ町へと向かっている。アンジェリアの懇願を聞いた形だ。
彼女が俺に挑戦してきたのは、この俺の実力が本物かどうか、試してみたかったと言うのが本音らしい。
俺はミノムシのように丸まったメルンの隣に並んでいる、小さな毛布のふくらみに眼をやった。そこに、ようやく眠りに落ちた、ソルダ少年の寝顔がある。
ギルドでの騒動の後、俺たちは誰にも見つからぬよう、裏口から『太陽と真珠亭』に戻った。ソルダは俺の部屋で――無頼漢どもの応対に疲れたのだろう――ぐったりとした様子で椅子に座っていた。
さすがに気の毒だった。この少年のためにも、さっさとこの町から退散したほうがいい。しばらく思案するといってアンジェリアと別れたのだが、どうも即断即決がいいようだ。俺の姿を視るや、あわてて椅子から立ち上がろうとした少年を制し、俺はこの話をすることにした。
「……まあ、そういう経緯があってな。俺はアコラの町を離れ、コンバッシへ行ってみるつもりだ」
「――え、コンバッシですか?」
街の名を聞いたソルダは一瞬、硬直した。
意外だった。てっきり喜んでくれると思ったのだが。
「行ったことがあるのか?」
「え、いいえ、識らないです……」
「しかし、なにか不安そうな顔つきだが――」
「き、気のせいですよ。楽しみだなあ。あ、さっそく旅のための荷造りを始めますね」
ソルダは屈託ある笑みを浮かべ、そそくさと部屋を出て行った。
それにしても不審である。いつもは俺の行く先に、率先して進みたがる少年なのだ。かれはよくやってくれている。少なくともこれまでは。
最近ではほぼ俺の習性を理解してしまったのか、何かを頼もうとする前に、ソルダは敏感に察知して、それを持ってきてくれる。気が利く少年なのだ。
空手の稽古も、少しづつつけてやっている。
くだらない連中が訪れることが多いので、それほど集中的に教えることはできていないが。ただ、突きにせよ蹴りにせよ、常に思い切りやれと指導している。
稽古はクタクタになるまで全力でやるに尽きる。
そいつが明日の成長につながると、俺は思っている。
(師弟として、着実に信頼関係を築けていると思っていたが……)
まだ俺に打ち明けられない秘密のようなものを、この少年は持っているのだろうか。それとも師匠として――いや、ひとりの人間として、俺はまだそんなに信用されていないのか。
俺は彼の寝顔を眺めながら、ふとそんな考えに陥っていた。
(いや、慌てる必要もないことだ)
一朝一夕に、信頼関係など築けるものではない。俺とこの少年が知り合って、まだ半年にもならぬ。それで互いを理解したつもりになっているのが一番よくない。
俺は自分の拳を見た。ごろりとした石の塊のような拳。この拳がこうなるまで、どれだけの修練を積んだことだろう。人間の心とて同じだ。焦ってどうこうなるものではない。
俺は考えを吹っ切るように、小さな窓から窓の外を見た。見知らぬ風景、見知らぬ風が俺を出迎えてくれている。果たしてコンバッシという町にどんな運命が待ち受けているのか、俺はひそかに武者震いした。
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コンバッシの様子は、物々しいの一語に尽きた。
町へ入るまで何度も衛兵に馬車を検閲され、あやしい物が隠されていないかと再三チェックされた。この検閲の厳しさは、ロータス商会の一件も関係しているのだろう。
市壁はアコラの町と比較して、はるかに堅牢にして壮大に見えた。衛兵たちもまるでこれから戦争が始まるかのような重装備に身を包んでいる。つくづく、ここがゼーヴァ帝国の境界線近くの町であることを再認識させられる。
「すごい町だな」
俺は素直な感想を漏らした。
「ええ、ですが、町中はそれほどでもありませんよ」
アンジェリアはそう言った。彼女は相変わらず男にしか見えぬような、胴着のような衣装を身にまとっている。女らしい格好はわざと避けているのだろうか。聞いてみたかったが、やめておくことにした。本人の趣味嗜好をとやかくいっても仕方がない。
「ここが私の識ってる中で、一番いい宿です」
彼女が案内してくれたのは、かなり立派な宿だった。王都で泊まった『栄光の担い手』ほどの豪華さはないが、それなりに見栄えのする大きさだ。
装飾も気に障らない程度に華美で、一階の大広間も掃除が行き届いているようで清潔だった。椅子やテーブルは隅に片づけられているが、昼頃から使用人たちが大広間に並べて、昼食を摂ることができるそうだ。朝食を食う習慣は、この町にはないらしかった。
受け付けは入り口をくぐってすぐ脇の場所にあった。俺はとりあえず3日分の宿代を払っておいた。どれくらい滞在するかは、まだわからない。すぐに引き返す羽目になるかもしれない。
俺がアンジェリアから、ここに呼ばれた理由は、ハッキリしている。
徒手空拳の腕を見込んで、頼まれたのだ。
俺は二階へ続く階段を昇りながら、彼女の背を見つめていた。そして思い返していた。
「私の家は、少々複雑な状況にあります――」
傭兵ギルドで、おもむろにそう語りはじめた、彼女の話を。
「私の名は、アンジェリア・トワイント。トワイント家の長女にあたります」
聞けば、トワイント家は子爵家であり、俺よりも爵位が上の貴族だ。アンジェリアの父親であるジョージ・トワイント子爵は、このコンバッシの町を含む、周辺の領土を支配する、アルスター辺境伯の家臣のひとりだそうだ。
――いや、だった。
「つい先日、父は亡くなりました。死因に不審な点はなく、内臓疾患による病死だと発表されました。ですが、その後がよくありませんでした……」
当然、家は、長男のダミアが継ぐことになるはずだった。
だが、もともと病弱だったダミアはほどなく病没。彼の息子はまだ10歳に満たぬ年齢で、到底一族の指揮など執りようがない。
そこに次男のクロノルが名乗りをあげた。長男家がその重責をまっとうできないというのであれば、次男が後を継ぐのが当然という主張である。
「ですが次男とはいえ、彼は放蕩息子で有名なのです。まったく政治に関心などなく、ひたすら享楽に励む毎日でした。いつ国境を超えて、ゼーヴァ帝国が襲ってくるやもしれぬというのに、強さなど微塵も持ち合わせていないのです」
彼女が弟を快く思っていないのは、その口調から察することができた。彼女の話した内容が、誇張なく事実に基づくものであれば、一族の未来は暗澹たるものだろう。
「そこで私は、父の跡を継ぐのは私であると、名乗りを挙げたのです」
決然とした眼で、アンジェリアはそう言った。
『新たな町で』その1をお届けします。
次話は金曜日を予定しております。




