その10
ガルシュと名乗ったギルドマスターと、小兵の男との間の空気がみるみる凍結化していくのが、俺にはわかった。互いにすさまじいほどの殺気を放っている。
俺は小兵の男をなだめるべきだったかもしれない。分が悪いのはこちらの方だ。巻き込まれた形とはいえ、俺たちは、彼の管轄する傭兵ギルド内で騒ぎを起こした張本人なのだ。
しかしもう、言葉をさしはさむ余地はない。
ふたりはすでに闘いの前哨戦に入っている。すなわち技の読み合いである。こちらがこう出たら、相手はどう動くのか。相手がこう来たら、どう対処するのか。
将棋の盤上で行われる無言の闘いのように、静かにそれが行われているのだ。こうなっては、誰も止めることはできないだろう。よほどの声量でない限り――
「――マスター、いい加減にしてください!!!」
すさまじい大音声を張り上げたのは、受付嬢のソーニャだった。それにしてもすごい声だ。いまも耳鳴りがして、周囲の音がよく聞こえない。俺の聴覚が一瞬、失われたかと思ったほどだ。
これはさすがに、ふたりの戦士も閉口したようだ。
闘いの構えを解いて、互いに両耳を押さえている。
「マスター、あなたはこの闘いを鎮めるために現れたのではなかったのですか? それなのに、傭兵と自ら剣を交えようとか、およそマスターの名に相応しくない行いだと思います!」
「わかったわかった。ソーニャ君、これは私が悪かった。悪かったから、そんなに大声で威嚇するのはやめたまえ」
ガルシュは、先ほどまで切れるような殺気を放っていた人物とは思えない情けなさで、ソーニャに平身低頭している。小兵の男の方はというと、彼もまたすっかり毒気を抜かれたように佇立していた。
いやはや、女は強しだな。闘士といっても他愛のないものだ。俺はしみじみとそう思った。
「ぼそぼそ。なにを呟いているの?」
「ひっそりと背後を取るな」
いつの間にか現れた女魔法使いに、俺はむっつりと応じた。床に倒れた大勢の無頼漢。無残に乱闘でひっくり返ったテーブルや椅子。これほどまでの騒動の一切合切を無視して、平然と俺に語り掛ける心臓――やはり尋常なやつではない。
「ボガードが歩けば野郎が倒れる。これ常識」
「まあ、当たらずも遠からずだな」
俺は苦々しい気持ちで応じた。
どうやら場の関心は他へ移ったようだし、俺はただちに回れ右をして、背後のドアから退出したほうがよさそうだ。そう判断した矢先である。
「ああ、そこのふたり――」
ガルシュがソーニャの説教から逃れるように、こちらを向いて笑みを浮かべた。
「これから俺の部屋に来てくれ。まあ、だいたいの事情は察しているが、騒動の供述を取りたい」
「まあ、そうなるか」
嘆息とともに、俺はその科白を吐き出した。傭兵ギルドには、これからも仕事の斡旋などで厄介になるつもりでいる。逃げることはできないだろう。
「無論、そちらの好戦的な女性もな」
好戦的な女性と聞いて、俺は周囲を見回した。一瞬、ソーニャと目が合ったが、彼女は心外だと言わんばかりにふくれっ面になった。これはまずい。
それにしても、誰のことだ。
俺はようやく、その人物が無言で頷いたことで、そいつの正体を識ることができた。
小兵の男と思っていた闘士は、女性だったのだ。
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「俺――私の名は、アンジェリアと申します」
先ほどまでの殺気だった風情とはうってかわって、静かな口調で小兵の男――もとい、アンジェリアは語った。冷静になって彼女を見れば、かなり顔立ちは整っているし、ガタイの小ささも、女性特有のものだと思えば納得ができる。
にも関わらず、なぜ俺が彼女を男と間違ったのかといえば、その言葉遣いもさることながら、胸のふくらみの無さにもよると思う。彼女と闘った無頼漢のなかにも、女性と察することができた奴はひとりもいなかっただろう。――失礼な話ではあるのだが。
「ボガード男爵殿、どうなされた」
「いや、なんでもない」
よほどぼんやりした顔をしていたのだろう。俺はガルシュに言葉をかけられるまで、まるっきり無言だった。それほどまで没頭してアンジェリアの様子を、観察していたのだ。
「それにしても解せんのは、あなたがボガード男爵を襲った理由だ。アンジェリア、あなたが大陸1の男を倒して、大陸1の女を名乗りたかった。そう判断していいのか?」
「それでいいです」
彼女は素っ気なく応えた。どう考えても嘘だ。
俺にはアンジェリアがそういう野心を持って挑んできたようには思えなかった。何か別の思惑があって仕掛けてきた――彼女との、ほんの短い闘いを通じて、俺はそんな印象を持った。
ガルシュも胡散臭げな眼で彼女を見つめている。疑っているのだろうが、やがて天を仰いで吐息をついた。ギルドとしては、その理由まで立ち入る必要はないと判断したのだろう。
「まあ、いい。それでボガード男爵――」
「ボガードでいい」
「ではボガード殿、安心してほしい。だいたいの理由は察している。ギルド内の乱闘は、徒手空拳に限っては黙認する。こうした暗黙のルールを利用して、無頼漢どもが乱闘を仕掛けるだろう――そういった予測を立てておかなかった、こちらにも落ち度はあるからな」
「無罪放免というわけか」
「一応はね。しかしながら、もうしばらくはここに立ち入ることは控えた方がいいだろうな」
「……それは、仕方がない話かもな」
「理解が速くて助かるよ」
確かに、この状況下では、しばらくは依頼をこなすなどという呑気なことはできない。無頼漢が殺到して、受付が再びパニック状態になる可能性だってあるし、さらには一緒にパーティーを組む冒険者にも警戒する必要があるだろう。
ガルシュが何らかの対策を立ててくれるだろうと思うが、それまではおとなしく宿に引っ込んでいた方がよさそうだ。
だが、宿は宿で、毎日のように大勢の無頼漢どもが扉を叩いてくる。もはや俺には、アコラのどこにも逃げ場はないといってもいい。
「まいったな……」
本当にまいっていた。こんな事態になるなら、優勝せずともよかった。そんなことまでは思わないが――思ったら、闘った連中に失礼というものだ――逃げ場がないのも事実である。
俺の苦い表情を察したのか、
「有名税という奴だな。苦境をお察しする」
と、ガルシュが同情に満ちた言葉をかけてきた。
ありがたいが、具体的な援助をしてくれない以上、同情はなんの慰めもならない。そんな憔悴した俺を見かねたのか、傍らのメルンがこう提案してくれた。
「ボガード、しばらく、お師匠の元に避難する?」
「ふむ、それはいい話かもしれないな」
この提案は、俺にとって魅力的であった。メルンとその師匠、ヴェルダと一緒に暮らしたのは、ほんの5日ほどの間に過ぎなかったが、いま思い返してみれば、それほど悪くない毎日だった。ひたすら食料を確保するだけの原始的な日々だったが、あれはあれでいい。
ヴェルダの今の隠れ家が、何処に移ったのか分からないが――想像を絶するほどの辺鄙な場所だろう――こんなふうに、暴力沙汰に毎日巻き込まれるよりは、よっぽどましだ。
「もし、違う場所に行きたいというのなら、私に任せてもらえませんか」
思案に暮れていた俺に、突如としてアンジェリアが、そう言ってきた。俺は首を傾げて尋ねた。
「あなたに任せる? どういう意味だろう」
「私の住んでいる町まで、来て欲しいのです」
真剣な眼差しで、彼女はそう告げた。
『故郷へ凱旋』その10をお届けします。
次話は翌月曜日を予定しております。




