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その7

 漆黒が俺の目の前にあった。

 虚無の空間に、ぼんやりと誰かの顔が、俺の眼の前に浮かび上がっている。見慣れた顔だ。それは当然だろう、こいつは俺の顔だ。

 フロントガラスに俺の顔が映りこんでいるのだ。

 ここは俺のよく識る空間だ。トラックの運転席。10年間の間、ひたすら俺のケツが置かれていた場所なのだから、そいつは当然といえた。

 

 ああ、なんてこった。最初から夢だったのか。

 そうだ、俺が王国1の闘士だなんて、できすぎた夢だ。

 トラック運転手という職業は、激務である。過労死が多い職業としていまだに不動の地位にいる。それでもトラックそのものは俺が載り始めた時代より、はるかに快適なものになっている。かつてのトラックはひたすら荷役性だけが追及されていたものだ。それが今は快適な居住性というものも付加されるようになっている。ありがたいが、それだけにドライバーには心の油断という奴が付いて回る。

 

 ひとつ誤れば大惨事を招くトラックドライバーは、とにかくさまざまな負担が大きい。それにうるさいだの排気性がどうのと批判ばかり浴びる車体でもある。

 心身ともに疲弊し、摩耗した精神が見せた束の間の夢――そいつがこれだったというわけだ。まったく、ありがたくて涙が出てくる。

 

 ハンドルという名の舵を取り、この巨大な車体を回す孤独な船長。席はふたつあるものの、座っているのはいつも、俺だけだ。

 もしいまも俺の隣に、美津子が座っていて、あのテンポのずれた独特の鼻歌を唄っていたなら、俺はどうしていただろう。もっと気の利いたセリフを云えているだろうか。

 

 言葉にしなければ、伝わらないことだってある。

 想いが伝わればそれでいいと思っていた。美津子と俺は心で通じ合っていると思っていた。そいつは俺に都合のいい錯覚だった。俺は彼女に甘えていたんだな。言語化しないと伝わらないことだってある。そいつを理解するのには、ちょいとばかり遅すぎたんだ。

 

 独りだ。

 この空間が居心地がいいと思っていた俺は、どうにかしていたんだろう。ずっと独りで10年間、俺はハンドルを握り続けていた。

 このまま誰とも繋がれないまま、くたばっちまったっていい。そう思っていた時期だってあった。だけど、死にゆくときはどうするんだ。誰も看取る人のないまま、虚空を睨み続けて死んでいくのか。

 視界がぼやける。俺はあわてて目蓋をぬぐった。

 俺はこのとき初めて、独りぼっちの哀しみを噛んだ。


『――ずっとこのままじゃ、ないんだろ』


 不意に声をかけられて、俺はハンドルを切り損ねるところだった。隣はもう空席ではない。一頭の化け物が、とぐろを巻くように座っている。


「ああ、またお前か」


 馴染みの怪物、人喰虎(ティンバーワット)だ。そいつがいつものように獰猛な歯並びを見せつけながら、にたにた笑いを浮かべている。やつが俺に対して口を利くようになったのは、いつからだっただろう。


『いつまでも独りぼっちじゃないだろう?』


「さて、どうかな」


 正直な話、まるで自信はなかった。俺は相変わらず孤独だし、多忙なトラック業務についている以上、女性と知り合うような機会などはそうそうない。


『今のあんたには、慕ってくれる人がたくさんいるじゃないか』


「俺を慕ってくれる奴なんて――」


 いるはずがない。そういいかけて、俺の言葉は宙に溶けた。メイ、セシリア、メルン、彼女らはどうだろうか。俺を師匠と慕ってくれている、ソルダ少年だっているじゃないか。いや、何を考えている、ボガード。あれは俺の疲労から来た、都合のいい夢に過ぎないだろう。


『あんたにもわかっている筈だろう』


「なにがだ」


『どちらが夢で、どちらが真実かが、さ』


「なぜだ」


『――なぜとは?』


「俺は独りぼっちで、孤独に朽ち果てていくはずだった。生まれたときからそうだったんだ。俺はそう宿命づけられていたはずじゃないのか」


『そいつは呪縛だよ』


「呪縛?」


『呪いさ。あんたは自分が永遠に誰とも交われないという呪いを、自分にかけていたのさ』


「俺が、俺を――」


『そろそろ、認めたっていいんじゃないのかい。あんたは独りじゃないし、孤独を宿命づけられてもいない。自由な翼が、あんたには生えているはずさ』


「俺が自由――?」


 フロントガラスがひび割れる音がした。硬い頑丈なフロントガラスが溶解するように、めきめきと音を立てて崩れていく。こいつは厳しい現実じゃなかったのか。俺は驚いて人喰虎(ティンバーワット)を見た。奴の笑顔も、ガラスのように微細に崩壊していく。

 

『いつだって人が見るのは幻想さ。その時その時、自分に甘い夢を見る。だけどあんたは真逆のようだね。いつだって自分を責めている。でも、もう少し自分勝手でいいんじゃないか』


「ひとつ応えてくれ、人食いの」


『急いでくれ。もうあんまり時間はないからね』


「俺をこの世界に召喚(よんだ)のは、あんたなのか」


 人喰虎(ティンバーワット)は笑って、答えてくれた。俺がそれを耳にすると同時に、視界が白濁化し、俺は暗闇から引きずり出された。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 野獣が咆哮するがごとき轟音で、俺は闇から浮上した。

 どうやら俺は散々顔面を踏み散らかされて、気を失っていたようだ。その脚が一瞬止まったので、俺は眼を醒ますことができたのだ。

 見上げた連中の顔はぽかんとしたまま凍り付いている。何が起こったのか、理解できないといった風情だ。だが、俺にはなんとなく、事の次第が呑み込めていた。


 メルンがやったんだ。彼女とソルダに手を出そうとしてきた不届き者に、雷撃をお見舞いしたのだろう。その轟音が大気を割り、連中を驚かせたというわけだ。

 あいつの意図したことではないだろうが、お陰で助かった。意識を手放したということは、俺は勝利を諦めたのかもしれなかった。

 

 危なかった。

 勝つのを諦めるということは、生きるのを諦めるということだ。生きるのを諦めるということは、自分を諦めるということだ。自分という存在が消えちまえば、俺の見ている世界そのものが消えてしまう。そんなに安っぽいものじゃないはずだろう。世界ってやつは。


 俺は、俺の顔面に乗っている兵士の足を掴み、力の限りぐいっと引っ張った。呆然と佇立していた男はひとたまりもない。

 バランスを崩し、もう片足で重心を支えようとした瞬間、そちらの足も払ってやった。男は無様に天井を見上げて転倒した。

 男が逃れようともがくのもかまわず、俺はぐいぐいとさらにその両足を引っ張った。自然、俺の身体は奴の身体の下敷きになるような格好になる。


「こいつ、悪あがきしやがって」


 舌打ちと共に、別の誰かが唾を飛ばす。

 

「でもこれじゃ、こいつの顔面を踏めねえぜ」


 他の連中が、悔しそうに吐き捨てる。


「なあに、構いやしねえさ。この男ごと、踏み潰しゃいいだけの話だ」


「な、なにを馬鹿な事を言ってる!?」


 俺の上にいる男が、悲鳴に似た声を発する。だが、もはや理性を手放した連中には聞こえていないようだ。狂気に支配された集団に、分別という言葉は無縁だった。

 

「それ、殺せ――!!」


 誰かの号令一下、怒涛のようなストンピングの嵐が吹き荒れた。ぐちゃぐちゃと耳にしたくないような嫌な音が鼓膜を揺らした。上からの衝撃は、下にいる俺にとって無縁ではない。強烈な痛みが幾度も襲ってくるが、もう意識を手放すつもりは微塵もなかった。


「――よし、そろそろいいだろう」


 激しく息を切らしながら、男たちの踏みつけが止んだ。荒い呼吸の大合唱の後、男たちは俺の上に乗った男の上半身を引きずった。俺の顔面も、朱に染まっている。生きているのか死んでいるのか、その区別がつかなかったのだろう。ひとりの男が呼吸を確かめるべく、顔を俺の近くに寄せてくる。

 迂闊なやつだ。

 俺は起き上がりざま、そいつの顔面に頭突きをお見舞いしてやった。生暖かい鮮血が五月雨のように俺の顔面を汚した。苦しみにもがくそいつを脇へ突き飛ばし、俺は立ち上がった。


「こ、この男――まだ生きてやがる!」


「なんてしぶといやつだ」


「残念だったな。人間ってのは、そう容易には死なないんだ。死ぬものかと歯を食い縛っている奴を殺すのは、簡単じゃねえんだ」


 俺は全身の動きを確かめてみた。両腕に異常はない。両脚も大丈夫そうだ。さんざん踏まれた顔面は見れたもんじゃないだろうが、まあ生きているから平気だろう。


「さあて、これからお仕置きの時間だ」


 俺は肩の関節を回しながら、ゆるりと連中に詰め寄った。奴らは狭い通路で無理に足だけを突き出して密集してるものだから、ろくに身動きができない状態になっていた。ちょっとした地下鉄のラッシュアワー状態だ。


「ま、待ってくれ、正々堂々と――」


「どの口がほざきやがる」


 俺は思うさま突きを叩きこみ、金的蹴りをお見舞いしてやった。狭い通路で、俺は打撃の颶風となって暴れまわった。悲鳴と肉の弾ける音が通路を支配した。それが静寂と変わったとき、通路の奥のほうから光が差した。

 ひとりの男がよろめきながら近寄ってくる。


「こ、これは一体――?」


 俺は鮮血の乾いた紅いパックをしたまま、笑って見せた。


「これにて指導終了です、マルローヌ伯」


『故郷へ凱旋』その7をお届けします。

次話は翌月曜日を予定しております。

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