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その9

 心地のよい朝だった。俺は鼻孔から清冽な空気を肺におくりこみ、これまでのストレスを吐き出すように、強く呼気を切った。

 俺の隣にはソルダが、見よう見真似で俺に倣って入念なストレッチを行っている。むろん強制ではない。本人の志願によるものである。

 アコラの町に帰ってから、練習を見てやると言っておいたものの、それではかなり遅くなる。連闘の疲労も残滓のように身体の芯に残っているし、なにより長旅の後では、しばらく本格的な指導は行えまい。

 

 それならば、今のうちに基礎を教えておいたほうがよいと考えたのだ。幸いながら、この子は真面目だ。一度基礎を教え込めば、ひとりでに反復練習を繰り返すことだろう。

 俺がガキの頃は、とてもまじめとは程遠かったがな。

 俺にとって空手とは、喧嘩の手段にすぎなかった。空手を習得するということは、生き抜く手段を得るということと同義だった。


「師匠、次はどうすれば?」


 息を弾ませて、笑顔で尋ねてくる子供の瞳はまっすぐだ。暗く荒んだ翳りは微塵もない。このまま真っすぐに育ってほしいものだ。弟子まで、俺の歪みを倣うことはない。

 

「そうだな、次は筋肉トレーニングをしよう。最初のうちは数を決めないほうがいいか。自分ができるところまでやるんだ。そこがお前の限界点だ」


「限界までやることが大事なんですか?」


「いや、限界点を識ることが大事なんだ。それを識っておけば、無茶はすまい。その回数に慣れてきたとき、少しずつ、その回数を増やしていけばいいんだ」


 このやり方は、俺の師、天空寺猛虎から教わったやり方だ。師匠は、セット方式には懐疑的だった。人間は千差万別なのに、トレーニング法は同じというのはおかしい、という考えをする人だった。人によってこれは間違いだ、これはこうすべきだという指導方法があるだろう。だが、俺はこのやり方しか分からない。

 これが無理だと言うのなら仕方がない。またこの子にあった方式を探るさ。


 俺たちが筋トレを行っているのは、例のカミカクシ襲撃事件のあった『希望の丘』だ。騒がしい大都市ダーリエルの内部にあって、ここだけは緑が豊富で風が香しい。

 あの事件以降、この地の評判はかなり落ちた。

 警備の兵がいたにもかかわらず、後藤を助けに現れる者は皆無だった。おそらくは、根回し済みだったのだろう。そういう悪評が流れるのは、わずかな時間があれば充分だ。

 おかげで俺たちとしては、ほとんど誰もいない、邪魔の入らない快適な練習ができるというわけだが。


 ここのところの俺の周囲は、怒涛だった。

 王宮での祝賀会を終え、『栄光の担い手』に帰ってきたときの乱痴気(らんちき)騒ぎときたら、とにかく筆舌に尽くしがたい。

 宿泊客のすべてが、俺の優勝を祝いたいというので、俺はゆっくりすることも許されず、階下の酒場で連日のパーティーだ。盆と正月がいっぺんにきたようなもんだ。こっちの世界じゃ、なんと形容するのかは知らないが。


 その後はさらに大変だった。俺に挑戦して、王国一の称号を手に入れたいという喧嘩自慢の輩が、毎日ひっきりなしに宿の扉を叩いたものだ。

 もちろん、そのすべてを相手にしている余裕はない。そんな連中に限って、ろくに技術も持っていない単なる腕っぷしだけの男ばかりだったしな。

 あの大会に出場してきた猛者どもは、ごくまれな例外だったんだな。外出のたびに絡まれ、叩きのめしながら、俺は辟易とした想いでそう考えたものだ。


「――ここにいたか、有名人」


 唐突に声をかけられ、俺は振り向いた。

 人が少ないとはいえ、声を掛けてくる者は皆無ではないようだ。

 振り返ると、痛々しく顔の中央に包帯を巻いたスキンヘッドの好漢が立っていた。忘れもしないこの男。王国最強の座をかけて争った――アキレス・ギデオンだ。


「怪我の具合はどうだ?」


「ひん曲がった鼻骨はまっすぐになった。多少痛かったがね」


「しばらく見なかったが、いまは何処に――?」


「わかっているだろう。『栄光の担い手』で無料宿泊ができるのは、勝ち残った者のみの特権だ。もう俺は、お前に敗北した時点であの宿にいる権利を失ったのさ。今はそのあたりの安宿にいるよ」


 彼はふと、瞳に苦いものを走らせて、


「俺が追い出される羽目になるとは、夢にも思わなかったがな」


「そいつはお互い様だろう。紙一重で、俺が去る羽目になっていたかもしれないんだからな」


「紙一重か、嬉しい事を言ってくれる」


 ギデオンの瞳の光が和らいだ。


「そいつは嘘偽りない事実だ」


「俺はそう思わなかった。俺から言わせてもらえば、お前の技術は底が識れぬ。俺は闘いながら、お前に深海のような深さを感じていたものさ」


「奇遇だな、俺もそう思っていたよ」


「俺の勝機は、最初の腕ひしぎ逆十字が極まった瞬間だった。――あとは悪あがきみたいなものさ」


「俺は常に、背中に氷の塊を突っ込まれて闘っていたような印象だった。お前はそれだけ危険な男だったよ、アキレス」


「そいつは嬉しいな」


「これから、どうするつもりだ」


「優勝者になるという夢は破れた。あとは元の鞘に収まるだけさ。古巣に戻って、傭兵としてまた稼いでいくしかない」


「俺もそうだ。優勝したとはいえ、俺の本業は傭兵だ。もう少し王都に滞在したら、アコラの町へと帰るつもりだ」


「そうか。当分、逢えなくなるな」


 ギデオンはどこか寂しそうな表情をしている。俺と彼とは、幾度か言葉を交わしただけの、わずかな接点しかない。だが、あのアリーナの砂塵の上で、汗を流し、命を削り合いながら、存分に語り合ったような気がするな。

 俺は彼の技術の深さに舌を巻き、幾度も敗北の危機を味わった。彼もまた同じ気持ちだったということかもしれない。

 正直、こいつとはもっと語り合いたかった。

 それは次回の大会を待たなければならないかもしれないな。


「また逢えるか、チャンピオン?」


 ギデオンは、利き腕を差し出してきた。

 殺気は感じられない。いきなり腕ひしぎを極められるのは、正直もう勘弁だった。俺のそんな危惧を見越したのか、彼はもう片手を背中へと隠した。これなら、腕ひしぎを極めるのに若干のタイムラグがある。俺にも対応は可能だろう。

 俺も同じような態勢で、彼の手を握った。

 空手家の俺は、この態勢でも必殺の一撃を放つことはできる。だが、彼の誠意には、誠意をもって応えるのがいいだろうと判断したのだ。

 

「また逢えるさ、好敵手(ライバル)


「ほう、俺を好敵手(ライバル)と呼んでくれるのか」


「違ったかい」


「いいや、違わないさ、また逢おう。わが好敵手(ライバル)、ボガード・カイドーよ。願わくば、再会するときは――」


「再会するときは――?」


「ゆっくり話そうじゃないか。アリーナの上以外の場所で、な」


 そういって、アキレスは破顔した。

 男らしい魅力に満ちた、いい笑顔だった。


「ああ、また逢おう」


 俺は彼の去り行く背中に、そう声をかけた。

 

 こうして俺たちの熱い闘いのすべては、幕を閉じた。


「――帰るか、アコラの町に」


 俺はぽつりとつぶやいた。


「はい、帰りましょう!」


 少年の溌剌とした声が、耳に心地よかった。



『懐かしい顔ぶれ』その9をおとどけします。

次話は金曜日を予定しております。

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