その8
最後の攻防がはじまった。
アキレスはガードを固め、さながらアクセルしかないトラックのように突進してきた。いかなる打撃が来ても、受け、キャッチして極める。その目的に特化した構えだ。
やつの覚悟に、俺も乗った。
この突進から逃れてはならない。そいつは悪手だ。
少しでも逃げの姿勢に入ったが最後、たちまちこの男の間合いになってしまうだろう。
逆に俺は前に出た。カウンターの右膝だ。
烈しい衝撃が、俺の膝に伝わった。
奴は姿勢を低くし、額で俺の膝を受けたのだ。骨と骨がぶつかり合い、下半身が軋んだ。凄まじい痛みの残滓が右脚に散っている。
アキレスは笑った。額から血を流しながら。
俺の右膝を、奴が両手で抱え込んでいる。あの自動車事故のような衝撃から、足を掴む執念が怖ろしかった。
当然のように、彼は右足を引きずりこもうとしてきた。寝技の泥沼に。その流れに素直に応じてやる義理はない。俺は足を踏ん張って、猿臂を入れた。
会心の一撃だったが、奴は倒れない。
アキレスはまだらの紅に染まった顔に、不気味な笑みを浮かべている。こいつが効いてないのか? 俺の顔には、さぞかし驚きの表情が浮いていたことだろう。
ぐいっと足がやつの方向へ引きずり込まれる。
「これはどうだ――」
テイクダウンを奪われる寸前、貫手を肋骨の下へ突き刺した。かなり強烈な攻撃だが、アキレスは止まらない。いったいどういう身体の構造をしているんだ、この男は。
痛みで動きが確実に止まる技だ。
しかしこの男は痛覚を置き忘れてきたように、怒涛の勢いで俺の上にのしかかってくる。まだしっかりとしたマウントを取っていないにもかかわらず、狂ったように、上から拳の雨を降らせてきた。
颶風のようなパウンドの雨を、俺は冷静に受け流している。まだクローズドガードの状態だ。やつは完全に上を取れていない。俺は足を使いながら距離を取り、アキレスの焦りを誘っている。
やつのパウンドはさらに勢いを増している。
もうペース配分も何もない、最後の残り火を燃やすような連打だった。この攻撃が尽きるまで、俺は防御に徹すればいい。
しかし、それでは勝てないという気がしていた。アキレスの闘志は異常なほどだ。こいつの勢いを止めることができるのは、奴の想像を超える一撃しかない。
アキレスは鉄槌を振り下ろしてくる。
その振りぬいた瞬間を狙って、腕を掴んだ。もう片手を振り下ろしてくる。そいつも掴んだ。両手の攻撃手段を失ったアキレスが選択した手段――
頭突きだった。
これしかないという攻撃だった。
この距離で炸裂すれば、間違いなくおれの頭蓋骨が砕ける。俺が戦闘不能になるのは確実だった。
ごつんという鈍い音がした。
すごい音だった。もしかしたら、観客席まで届いたかもしれないほどの衝撃だった。血が黄色い砂塵を紅色に塗り替えた。
「うぬぐうううううっ!」
悲鳴を上げていた。アリーナをのたうち回っていた。
これ以上の戦闘は不可能のように思えた。
アキレスは、瀕死だった。
俺は静かに立ち上がった。
アキレスの頭突きは、読んでいた。
否、そうなるように誘導したのだ。両手を封じられたアキレスが、最後のカードを切ってくるように。俺はやつの頭突きに、カウンターの頭突きを合わせたに過ぎない。
アキレスの顔面は、無残に崩壊していた。
鼻骨が折れ、無残に右方向を向いている。おびただしい血がアリーナに流れている。どう見ても、戦闘続行は不可能だ。
しかし、奴も立ち上がる。
強い男だ。俺は攻め手を緩めることなく、追撃の蹴りを入れた。狙いあやまたず、蹴りは顔面に炸裂した。俺の脚にやつの血が伝った。
「もう、降参しろ、アキレス」
今度は、俺が言う番だった。
「黙れ、まだだ―—」
当然のように、奴は屈服をしない。この男は獅子の心を持った、真の闘士なのだ。ならば俺も全力でそれに応えるしかない。
アキレスは愚直に突進してくる。俺は最高の打撃を以て、これに応じるしかない。
最初に痛めた左腕も、限界に近い。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
ありったけの打撃を、ここに置いていく。
アキレスの顎先に、体重を乗せた左猿臂を入れた。
奴は、倒れない。さらに踏み込んでくる。
アキレス。すごいな、お前は。
その瞬間には、俺は旋回している。
ぐしゃっという鈍い音がこだました。
やつの顔面に、左の回転肘打ちが炸裂していた。俺の出せる最高の一撃だ。
俺を掴もうとしていた両手が、大気を抱きしめるように収斂した。最後まで微塵も闘志を失わない、恐るべき男だった。
アキレスはアリーナを抱擁するように倒れた。地表にやつの血が染み込んでいく。
俺はまだ、奴がひょいと立ち上がってくるような気がして、最後まで残身を解かなかった。
そのまま、どれほどの刻が経過しただろうか。
「――そこまで! 勝者、ボガード殿!!」
進行係のアナウンスが響いた。
俺はふうっと吐息を漏らした。
「――以上を以て、全仕合終了いたしました。この大会の優勝者は、ボガード・カイドー殿!!」
アリーナが激しく振動している。興奮した観客が床を踏み鳴らし、地面を、大気を揺らしているのだ。その熱気はアリーナの俺にまで届くほどだった。疲労困憊の極にあった俺だが、この熱気に応えぬわけにはいかないだろう。
俺は客席に向かって、両手を上げて見せた。
返ってきたのは、万雷の拍手だった。
「最高の勝負だった、ボガード!!」
「お前は最強の闘士だ!!」
「いい闘いをありがとう、ボガード!!」
観客席から、温かい言葉が降ってくる。
頬を濡らす液体が、鬱陶しかった。
やれやれ、俺はいつからこんなに軟弱になったのだろう。思春期の女の子じゃあるまいし。たかだか観客の声援くらいで、大粒の涙を流してるじゃないか。
腕で涙を拭ったが、焼け石に水のようなものだ。
次々と涙があふれ出て、どうにもならなかった。
――俺の名は海道簿賀土。
空手以外、何の取り柄もない男だ。
37年間、砂を噛むようにして生きてきた。
そんな男にも、どうやら輝く瞬間があるらしい。
愚直に生きていくしかできない男でも、栄光を掴むことがあるらしい。こいつがトラックの運転席で見ている夢でなければな。
「ありがとう」
俺の口から、自然と言葉がほとばしっていた。
誰に向けての感謝なのか分からない。
いま、喝采を送ってくれている観客に対してなのか。俺をここまで鍛え上げてくれた師匠に対するものか。この異世界で、俺を援けてくれた人々に対してだろうか。わからない。
だが、自然とこぼれおちた言葉だった。
「ありがとう」
もう一度、俺はつぶやいていた。
トーナメント編最終話『強敵乱舞』その8をお届けします。
次話は金曜を予定しております。




