表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
109/145

その7

 遠目の間合いからジャブを放ち、ローを入れる。

 アキレスは冷静に対応し、打撃を返してくる。

 一見すると、激しい打撃の攻防に見えることだろう。現に観客席は沸いている。だが、こいつが見せかけだけの攻防だということに、どれだけの人間が気付いているだろうか。

 俺の打撃は腰が入っていない。重心が乗っていない攻撃に、どれだけの威力があるというのか。

 ならば、腰を入れて打てばいい。誰だってそう思うだろう。

 それができるなら、最初から苦労はない。心とは、そんな簡単なものじゃない。


「――どうした、来ないのか?」


「黙れ、そちらこそかかってこい」 


 俺は内面の怯えを見透かされまいとして、虚勢を張った。だが、とうにアキレスは俺の心の変化に気付いていることだろう。

 ビビっている。

 俺はこの男の関節技に、恐れをなしている。

 それでどうやって勝てるというのか。


 闘いの最中に怖じることは誰だってある。恐怖を克服するのも、また武である。ただ、恐怖を乗り越えるには、すこしばかりの時間が必要だ。波にのまれ、溺死寸前の人間が、冷静に己の状態を観察する余裕などありはしないのだ。

 

 インターバルの時間をこれほど渇望するとは、思いもよらなかった。原始的な大会のつらいところだ。精神を集中する、ほんのわずか――深呼吸するぐらいの間合いが取れればいいのだが。

 アキレスがそんな余裕を与えてくれるわけがない。

 彼は容赦なく踏み込んでくる。腰の入ってない打撃など、蚊ほどの牽制にもなっていないだろう。組み付かれそうな気配を察し、俺は右ストレートでカウンターを取ろうとした。

 その手をキャッチされた。

 

 俺は内心、激しく動揺していた。撃った手首をキャッチされるなど、打撃の専門家としては恥ずべきことだ。その掴まれた右手を引っ張られる。

 すさまじい力だった。寝技の泥濘(でいねい)に引きずり込まれぬよう、腰を落として対抗する。それを見透かすように、アキレスはすかさず足を払った。

 後方に重心をかけていた、バランスが崩される。

 

「ちいっ――」


 後方へ崩れた状態を利用し、大外刈りを決めようとしたアキレスの側頭部へ、俺の左の猿臂(ヒジ)が炸裂した。


「むむっ!」


 なおもアキレスは諦めない。肘を食らっても、なおも投げようと食い下がってくる。俺とて必死だった。このまま投げられちまったら、仰向けにされた最悪の状態から、グラウンドの攻防に突入しなければならない。――これ以上、寝技の展開を凌ぎきる自信はなかった。

 肘を入れる。アキレスは離さない。 

 ならばもう一発だ。さらにもう一発だ。

 速射砲のように繰り出される肘に、さすがに耐えかねたアキレスは、その状態を放棄した。腰砕けの状態とはいえ、俺の肘の連射を食らったのだ。アキレスの右側頭部は無残なことになっていた。

 

 アキレスはけろりとした表情で、また踏みこんでくる。

 この男には痛覚も、心理的な動揺もないのか。

 不可解な男だった。まるで黙々と必殺の技を繰り出す、殺人マシンのような印象すらある。彼の鋼のような精神力に比べ、俺はどうだ。

 まるで多感な時期の少年のように、精神を乱している。


 両顎をピーカーブーのようにがっしりと固めて、アキレスは突進してきた。被弾覚悟の構えだ。俺の打撃を舐めたとしかいいようがない。

 

「シッ!!」


 右の前蹴りを疾らせた。

 カウンターで入ったと思ったが、錯覚に過ぎなかった。その脚を腋でキャッチされている。あっと思う間もなく、アキレスは後方へと倒れこんだ。アキレス腱固めの状態だった。

 アキレスのアキレス腱固めか、こいつは洒落が効いてるじゃないか。苦痛の脂汗にまみれながら、俺はこの技から脱出すべく、必死にアキレスの手首あたりを踵で蹴りまくっている。

 

 アキレスは意に介した様子もなく、ぐいぐいと足首を締め上げる。苦痛が俺の全身を占めている。まるでこの宇宙には、痛覚しか存在しないかのようだ。


「うぐう――っ!」


「どうだ、降伏するか」


 殺人マシンが、無機質な声で問いかけてくる。

 俺は歯を食い縛って、激痛に耐える。

 

(――空手にゃ、いろんな裏技があるんだぜ)


 誰かの声が、脳裏に響いた。

 懐かしさをともなった、不思議な声だ。


(急所は上半身だけじゃない。下肢にだって存在するんだ。覚えておいて損はないだろ?)


 この声は、俺の師だ。なつかしき天空寺猛虎の声が、海馬からささやき漏れている。俺はその声に従うように、するするとアキレスの足を探った。金の鉱脈を探すような、途方もない作業のように思えた。やがて、その場所を探り当てた。甲利(こうり)という急所だ。

 俺は中高一本拳で、その急所を突き刺した。

 

「ぐううううっ!!」


 初めてアキレスの口から、くぐもった苦痛の声が漏れた。

 これだけじゃ終わらない。もう一度突いた。

 さらに突いた。ありったけの力を指先にこめて、乱打した。


 アキレスは俺の尻を蹴り飛ばし、飛びあがるようにして、俺から距離を開いた。はじめて見せた、彼の弱弱しい姿だった。

 アキレスとて鉄人ではない。急所もあれば痛覚もある。

 その事実は俺を勇気づけた。


「どうしたアキレス、距離が開いたな」


「――黙れ」


「そこからじゃ、俺は極められないぜ」


 寝技の展開に行きたいのなら、好きにすればいい。

 俺とてまるきり丸腰というわけでない。しっかりと道場で教えこまれた、急所打ちの秘策がある。

 もし相手がシューズを履いていたら、この攻撃はできなかっただろう。路上では使えない技だ。しかしこの大会では、全員が素足のような恰好で闘わざるをえない。


 この野蛮な大会のルールが、はじめて味方についたような気になった。いや、いかなる条件でも、順応して打撃を繰り出せばいいだけだ。

 身軽なのが、俺の信条ではないか。

 俺には最初から、なにもないんだ。


 家族と呼べる存在はない。

 友達といえる存在もない。

 勉学もできず、これといった取り柄はない。

 そうだ。おれには空手しかなかったんだ。


 その空手で生じた自信も、すべて神田蒼月(かんだそうげつ)に打ち砕かれた。打ちひしがれ、酒に溺れ、ひとりぼっちの暗黒の部屋のなかで、光を探した。誰も助けてはくれなかった。

 生きていていいのかと思ったこともある。

 しかしそいつを決めるのは、自分だけだ。

 許さないのも自分なら、赦すのも自分だ。

 俺はすがりつくように、生きていく理由を探した。 

 

 いま、俺は、ここにいる。

 アリーナの大歓声が、俺とアキレスを包んでいる。

 アキレスの位置は遠い。急所への打撃が影響しているのか、容易に踏みこもうとはしてこない。さんざん一本拳をぶちこんでやったのだ。痛むだろう。

 お陰で俺は、深く息を吸いこむ余裕ができた。

 

 暗澹たる密室で、俯いていた俺はもういない。

 この砂塵舞い散る広闊なアリーナに、俺は立っている。

 わずかに吹く風が心地いい。

 先程まで渦を巻いていた恐怖心は、不思議なほど収まっていた。曇っていた視界が開けたような気分だった。俺の眼には、ひとりの闘士しか映っていない。笑いたい気分だった。


「――待たせたかい?」


 深呼吸を終えた俺は、アキレスに訊いた。


「そうでもない」


「それじゃ、続きといくか」


 俺はふたたび、アップライトに構えた。痛みが引いたか、遠慮なく間合いに入ってくるアキレスに対し、ローを疾らせる。

 乾いた、いい音が響いた。

 俺のローは、いつものしなやかさを取り戻している。身が軽いな。まるで、今から勝負が始まったかのような気分だ。心の中に不思議な清涼感があった。


 ローが疾る。アキレスは入れない。

 想像よりも蹴りの速度が加速していて、キャッチできないようだ。まだまだ、俺の蹴りはこんなもんじゃないぞ。

 もう一発、ローを入れた。さらにローを入れた。

 ギアが上がってきている。どうしたアキレス。お前の脚は、真っ赤に染まってきているじゃないか。


 機動力が落ちてしまえば、いよいよアキレスが関節技に入るチャンスはなくなる。今度はアキレスが焦れる番だ。俺のローに弾かれるように、アキレスは間合いの外に出た。


「おどろいた」


 アキレスは、感嘆したような声でつぶやく。


「先ほどまでとは、別人のような蹴りだ」


「まだまだ、こんなもんじゃないさ」


「そのようだ。――これ以上、こんな蹴りを食らうわけにはいかない。俺は、ここで勝負を賭けなければならぬようだ」

 

 すさまじい眼光で、俺を睨む。

 足を踏ん張り、ガードを固め、戦車のようにアキレスは突進してきた。覚悟を決めた顔つきだ。これは、並大抵の打撃では退がるまい。

 やつの覚悟に対し、俺も覚悟を固めた。 

 とうとう、決着をつけるときが来たな。

 最後に立っているのは、俺か、お前か。決めようじゃねえか。

 

 


遅くなってしまい申し訳ありません。

『強敵乱舞』その7をお届けします。

次話は水曜日を予定しております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ