その7
遠目の間合いからジャブを放ち、ローを入れる。
アキレスは冷静に対応し、打撃を返してくる。
一見すると、激しい打撃の攻防に見えることだろう。現に観客席は沸いている。だが、こいつが見せかけだけの攻防だということに、どれだけの人間が気付いているだろうか。
俺の打撃は腰が入っていない。重心が乗っていない攻撃に、どれだけの威力があるというのか。
ならば、腰を入れて打てばいい。誰だってそう思うだろう。
それができるなら、最初から苦労はない。心とは、そんな簡単なものじゃない。
「――どうした、来ないのか?」
「黙れ、そちらこそかかってこい」
俺は内面の怯えを見透かされまいとして、虚勢を張った。だが、とうにアキレスは俺の心の変化に気付いていることだろう。
ビビっている。
俺はこの男の関節技に、恐れをなしている。
それでどうやって勝てるというのか。
闘いの最中に怖じることは誰だってある。恐怖を克服するのも、また武である。ただ、恐怖を乗り越えるには、すこしばかりの時間が必要だ。波にのまれ、溺死寸前の人間が、冷静に己の状態を観察する余裕などありはしないのだ。
インターバルの時間をこれほど渇望するとは、思いもよらなかった。原始的な大会のつらいところだ。精神を集中する、ほんのわずか――深呼吸するぐらいの間合いが取れればいいのだが。
アキレスがそんな余裕を与えてくれるわけがない。
彼は容赦なく踏み込んでくる。腰の入ってない打撃など、蚊ほどの牽制にもなっていないだろう。組み付かれそうな気配を察し、俺は右ストレートでカウンターを取ろうとした。
その手をキャッチされた。
俺は内心、激しく動揺していた。撃った手首をキャッチされるなど、打撃の専門家としては恥ずべきことだ。その掴まれた右手を引っ張られる。
すさまじい力だった。寝技の泥濘に引きずり込まれぬよう、腰を落として対抗する。それを見透かすように、アキレスはすかさず足を払った。
後方に重心をかけていた、バランスが崩される。
「ちいっ――」
後方へ崩れた状態を利用し、大外刈りを決めようとしたアキレスの側頭部へ、俺の左の猿臂が炸裂した。
「むむっ!」
なおもアキレスは諦めない。肘を食らっても、なおも投げようと食い下がってくる。俺とて必死だった。このまま投げられちまったら、仰向けにされた最悪の状態から、グラウンドの攻防に突入しなければならない。――これ以上、寝技の展開を凌ぎきる自信はなかった。
肘を入れる。アキレスは離さない。
ならばもう一発だ。さらにもう一発だ。
速射砲のように繰り出される肘に、さすがに耐えかねたアキレスは、その状態を放棄した。腰砕けの状態とはいえ、俺の肘の連射を食らったのだ。アキレスの右側頭部は無残なことになっていた。
アキレスはけろりとした表情で、また踏みこんでくる。
この男には痛覚も、心理的な動揺もないのか。
不可解な男だった。まるで黙々と必殺の技を繰り出す、殺人マシンのような印象すらある。彼の鋼のような精神力に比べ、俺はどうだ。
まるで多感な時期の少年のように、精神を乱している。
両顎をピーカーブーのようにがっしりと固めて、アキレスは突進してきた。被弾覚悟の構えだ。俺の打撃を舐めたとしかいいようがない。
「シッ!!」
右の前蹴りを疾らせた。
カウンターで入ったと思ったが、錯覚に過ぎなかった。その脚を腋でキャッチされている。あっと思う間もなく、アキレスは後方へと倒れこんだ。アキレス腱固めの状態だった。
アキレスのアキレス腱固めか、こいつは洒落が効いてるじゃないか。苦痛の脂汗にまみれながら、俺はこの技から脱出すべく、必死にアキレスの手首あたりを踵で蹴りまくっている。
アキレスは意に介した様子もなく、ぐいぐいと足首を締め上げる。苦痛が俺の全身を占めている。まるでこの宇宙には、痛覚しか存在しないかのようだ。
「うぐう――っ!」
「どうだ、降伏するか」
殺人マシンが、無機質な声で問いかけてくる。
俺は歯を食い縛って、激痛に耐える。
(――空手にゃ、いろんな裏技があるんだぜ)
誰かの声が、脳裏に響いた。
懐かしさをともなった、不思議な声だ。
(急所は上半身だけじゃない。下肢にだって存在するんだ。覚えておいて損はないだろ?)
この声は、俺の師だ。なつかしき天空寺猛虎の声が、海馬からささやき漏れている。俺はその声に従うように、するするとアキレスの足を探った。金の鉱脈を探すような、途方もない作業のように思えた。やがて、その場所を探り当てた。甲利という急所だ。
俺は中高一本拳で、その急所を突き刺した。
「ぐううううっ!!」
初めてアキレスの口から、くぐもった苦痛の声が漏れた。
これだけじゃ終わらない。もう一度突いた。
さらに突いた。ありったけの力を指先にこめて、乱打した。
アキレスは俺の尻を蹴り飛ばし、飛びあがるようにして、俺から距離を開いた。はじめて見せた、彼の弱弱しい姿だった。
アキレスとて鉄人ではない。急所もあれば痛覚もある。
その事実は俺を勇気づけた。
「どうしたアキレス、距離が開いたな」
「――黙れ」
「そこからじゃ、俺は極められないぜ」
寝技の展開に行きたいのなら、好きにすればいい。
俺とてまるきり丸腰というわけでない。しっかりと道場で教えこまれた、急所打ちの秘策がある。
もし相手がシューズを履いていたら、この攻撃はできなかっただろう。路上では使えない技だ。しかしこの大会では、全員が素足のような恰好で闘わざるをえない。
この野蛮な大会のルールが、はじめて味方についたような気になった。いや、いかなる条件でも、順応して打撃を繰り出せばいいだけだ。
身軽なのが、俺の信条ではないか。
俺には最初から、なにもないんだ。
家族と呼べる存在はない。
友達といえる存在もない。
勉学もできず、これといった取り柄はない。
そうだ。おれには空手しかなかったんだ。
その空手で生じた自信も、すべて神田蒼月に打ち砕かれた。打ちひしがれ、酒に溺れ、ひとりぼっちの暗黒の部屋のなかで、光を探した。誰も助けてはくれなかった。
生きていていいのかと思ったこともある。
しかしそいつを決めるのは、自分だけだ。
許さないのも自分なら、赦すのも自分だ。
俺はすがりつくように、生きていく理由を探した。
いま、俺は、ここにいる。
アリーナの大歓声が、俺とアキレスを包んでいる。
アキレスの位置は遠い。急所への打撃が影響しているのか、容易に踏みこもうとはしてこない。さんざん一本拳をぶちこんでやったのだ。痛むだろう。
お陰で俺は、深く息を吸いこむ余裕ができた。
暗澹たる密室で、俯いていた俺はもういない。
この砂塵舞い散る広闊なアリーナに、俺は立っている。
わずかに吹く風が心地いい。
先程まで渦を巻いていた恐怖心は、不思議なほど収まっていた。曇っていた視界が開けたような気分だった。俺の眼には、ひとりの闘士しか映っていない。笑いたい気分だった。
「――待たせたかい?」
深呼吸を終えた俺は、アキレスに訊いた。
「そうでもない」
「それじゃ、続きといくか」
俺はふたたび、アップライトに構えた。痛みが引いたか、遠慮なく間合いに入ってくるアキレスに対し、ローを疾らせる。
乾いた、いい音が響いた。
俺のローは、いつものしなやかさを取り戻している。身が軽いな。まるで、今から勝負が始まったかのような気分だ。心の中に不思議な清涼感があった。
ローが疾る。アキレスは入れない。
想像よりも蹴りの速度が加速していて、キャッチできないようだ。まだまだ、俺の蹴りはこんなもんじゃないぞ。
もう一発、ローを入れた。さらにローを入れた。
ギアが上がってきている。どうしたアキレス。お前の脚は、真っ赤に染まってきているじゃないか。
機動力が落ちてしまえば、いよいよアキレスが関節技に入るチャンスはなくなる。今度はアキレスが焦れる番だ。俺のローに弾かれるように、アキレスは間合いの外に出た。
「おどろいた」
アキレスは、感嘆したような声でつぶやく。
「先ほどまでとは、別人のような蹴りだ」
「まだまだ、こんなもんじゃないさ」
「そのようだ。――これ以上、こんな蹴りを食らうわけにはいかない。俺は、ここで勝負を賭けなければならぬようだ」
すさまじい眼光で、俺を睨む。
足を踏ん張り、ガードを固め、戦車のようにアキレスは突進してきた。覚悟を決めた顔つきだ。これは、並大抵の打撃では退がるまい。
やつの覚悟に対し、俺も覚悟を固めた。
とうとう、決着をつけるときが来たな。
最後に立っているのは、俺か、お前か。決めようじゃねえか。
遅くなってしまい申し訳ありません。
『強敵乱舞』その7をお届けします。
次話は水曜日を予定しております。




