その6
「――降伏しろ」
俺は全身から、汗を滝のように流していた。
冷や汗かもしれないし、単なる苦痛の脂汗かもしれない。
完全に極まった腕ひしぎ逆十字から、逃れる方法などあるのだろうか。アキレスが身体を後方に倒すだけで、俺の腕は、マッチ棒のように容易くヘシ折れてしまうだろう。
俺の腕は一度、ゾンバイスとの死闘で折れた。
あのときはたまたま、治療魔法に特化したラーラがその場に居合わせたから事なきを得たのだ。この医療技術が遅れたこの世界で、まともな手術ができるとは考えにくい。下手をすれば一生、腕が曲がらない状態で生きていかなければならないのだ。
いや、それよりもこの苦痛から逃れる方が先だ。
「ぬううううっ――!」
俺は両手のフックが外されたのとほぼ同時に、全身の力を振り絞ってアリーナを走っていた。むろん仰向けにされた状態のままである。
仰向けに固定された状態でも、足は地についている。そのままばたばたと不格好に地を蹴り、延ばされた腕に対し、身体を縦方向にしようと足掻いた。
腕と身体の方向が同じになれば、いくら腕を延ばしても極まるものではない。もちろん腕ひしぎの使い手であるアキレスも、そのことは熟知しているだろう。
当たり前のように、彼は十字になっている状態を維持すべく、砂塵に背を滑らせている。
俺たちの身体は、まるで巨大で不格好な時計のように、くるくるとアリーナのなかで時を刻んでいる。観客席から見れば、さぞかし滑稽な見世物に映っただろう。だが、当の本人である俺たちは、これ以上なく真剣な攻防をしていたのだ。
一瞬たりとも止まれない。
俺が動きを止めた瞬間、腕が折れるだろう。
ゾンバイスと闘ったときは、腕は折られたわけではない。転倒した衝撃で偶発的に折れたのだ。腕を逆方向に極められ、関節ごと破壊されたら、どうなるだろうか。戦闘続行は見こめまい。痛みのあまり、失神する選手だっているのだ。
火事場のクソ力とでもいうのだろうか。濛々とたちこめる砂塵のなかで、俺は死に物狂いで、うつ伏せの状態に移行することに成功した。こうなると、足を動かすのがかなり楽になる。
うつ伏せ状態になっても、アキレスのとる行動は変わらない。ただの腕ひしぎが、裏十字固めに変わっただけである。
まだ技は解けていない。やつは不十分なこの状況からでも、腕を極めようと力をこめる。俺の腕が、やつの腹の真下でごりごりと悲鳴を上げている。
「うがあああ――っ!」
俺は猛獣のような呻き声を発して、身をよじった。足がかろうじて、やつの胴に届く。不格好な態勢だった。なんてざまだ。だが、間違いなくさっきより痛みは減少した。
アキレスは意に介した様子もなく、さらに力をこめてくる。裏十字で極めようという、やつの強い意志を感じた。
痛みは電流のように全身を苛む。食い縛った歯が折れそうなほどだ。
この状態を脱する寝技の技術を、俺は持たない。
打撃だ。それ以外はない。
俺の脚は、やつの胴に絡んだままだ。その足を延ばした。
延ばした先に、ちょうどやつの顔面がある。俺は踵でやつの顔面を蹴った。ただでさえ硬い、踵の部分でひたすら蹴られては、タフなアキレスもきついだろう。
ここから先は、我慢比べだ。
俺は速射砲のように、やつの顔面を蹴り上げた。
やつはひたすら俺の腕をネジ折ろうと力をこめる。
永遠に続くように思われた攻防は、唐突に終わりを迎えた。
アキレスが諦めて、裏十字を解いたのだ。
やつの顔面はボコボコだが、大きな損傷を受けたようには見えない。解放された左腕をかばいつつ、俺はアキレスから距離をとった。仕切り直しだ。
時間にして、わずか5分ほどの攻防だっただろうか。
それだけの時間で、俺は致命的ともいえるダメージを負ってしまった。左腕がまともに言うことを聞かない。筋を痛めた可能性もある。無論、折られるよりはマシだが、この腕はあと数度しか使えまい。
俄然、やつは勢いづいて、打撃を仕掛けてきた。
左ジャブからの右ローキック。
膝を上げて受けると、おれはすかさず反撃の右ストレートを放つ。浅かった。そのため、遠慮なく距離を詰められ、腕を取られた。
すぐさまアキレスは、この状態からスクリューのように回転し、巻き投げを放ってくる。俺の身体は重力を失ったかのように軽々と宙を舞い、背中から落とされた。
すぐにアキレスが関節を狙ってきたら、やばかっただろう。彼の反応は若干にぶく、遅れて俺の身体にのしかかってきた。
俺はすでに足をやつの方向へ向け、ディフェンスの態勢をとっている。やつの反応速度が一瞬鈍ったのは、偶然じゃない。投げられる直前、膝をやつの腹部にめりこませていたのだ。
まともに受けてやる義理はない。
アキレスは俺の準備が万端なのを見て取るや、深入りを避け、距離をとった。奴が突進してこないかを警戒しつつ、俺はすっと立ち上がった。
――しかしどうしたんだ、俺は。
一方的に、アキレスの技術に押されているじゃないか。
その原因はハッキリしているように思う。俺はビビっているのだ。奴の飛びつき腕ひしぎ逆十字に戦々恐々としているのだ。
そのため、さっきの右ストレートも伸びが悪かった。
腕を掴まれないか警戒していたからだ。
腰抜けもいいところだ。先制された関節の恐怖に縮み上がって、いつもの打撃が放てなくなっている。かつて俺が、こんなにも腰砕けになったことがあっただろうか。
勝負の前に、自分に負けてどうする。
「かあっ――!」
おのれの迷いを断ち切るように、俺は右の前蹴りを放った。
煩悩を払うように力をこめたつもりだが、動きが固い。
自分でもわかってしまうぐらい雑な蹴りだった。アキレスからは、起こりがはっきりと見えたことだろう。
それどころか、前蹴りに合わせられた。サイドに回り込んで、カニ挟みを決められたのだ。足を絡めとられた俺は、仰向けに転倒した。この状態で最も警戒すべきは、膝十字固めだ。高専柔道から生まれたこの技は、のちの高専柔道でも禁止となった危険な技だ。
するすると、やつの腕と足が、大蛇のように俺の身体をからめとっていく。左脚はやつの両膝に挟まれ、稼働領域の反対方向へ延ばされようとしている。腕ひしぎの脚型といってもいい。靱帯損傷はざらにある、怖ろしい技だ。
この技のディフェンスは、すぐに背を向けるように、身を翻すことだ。一瞬でも遅れれば、極まってしまう。間一髪だった。
なんとか俺はやつの仕掛けに対応して、逃れることができた。しかし、やつは諦めない。俺の脚を崩そうと、足を下から触手のように這わせてくる。
俺は惨めな気持ちで、奴から距離をとった。
悔しかった。歯を食い縛りすぎて、つうっと血が口の端から滴った。
こうも一方的に攻められるのは、これまでなかった。アキレスの野郎は、無尽蔵のスタミナと多彩な関節技をもつ、人間の城塞のようであった。
「ボガード、もう諦めたらどうだ?」
突きと蹴りの届かない、適度な距離を保ったまま、奴が言った。
「……そいつはねえな。それだけはない」
「これ以上続ければ、大きな怪我をすることになるぞ」
「そいつは、こっちの科白だよ」
「――そうか、残念だ」
もうアキレスは、これまでの仕合を見て、俺の戦力のすべてを見極めたつもりでいるのだろう。だが、俺はまだ終わっちゃいない。まだ出していない技が、俺にはある。
アキレスは仕合を決めるべく、突進してきた。
俺もそれに呼応するように、歩を進めた。
ふたりの打撃が交錯した。
『強敵乱舞』その6をお届けします。
次話は翌月曜を予定しております。




