その3
目まぐるしく変わる攻守に、観衆は沸いていた。
先ほどまで連打で俺を追い詰めていたグラハムは、喉首を押さえて後方へと跳んでいる。グラハムの拳より速く、貫手に変えた長さだけ、おれの攻撃が先に命中していたのだ。
しかも確実に、急所を撃ち抜いている。
空手には、拳だけではない。指先を使った攻撃が無数にある。貫手はその代表格といっていい打撃だ。俺は基本的にあまり貫手を使わない。試合では反則として禁止されているからだ。
試合では使えないのに、なぜその鍛錬をやるのか。
その意味を見出せない者は、そもそもこの鍛錬を放棄している。天空寺塾は基本こそ教えるが、師匠がざっくばらんな性格のため、それ以上の強要はしない。
ただ、俺には「お前さんは習得したほうがいいかもしれないな」と、一言くれた。それがきっかけだったかもしれない。
師は俺が、空手を喧嘩に使っていることは知っていただろう。だからそう言ってくれたのか、それとも将来を見越して、なんでも習得させておきたかったのか、その意図はわからない。
修練方法は、単純だ。
砂利で満たしたバケツを、ひたすら貫手で突く。ひとつひとつ、ぬかるみに指先を投じるがごとく、砂に左右の指を埋没させていく。
気の遠くなるほど単純で、苦痛をともなう作業だ。だが肉体を凶器に変えるという作業は、苦痛と手を取り合わなければ、出来ることではない。
苦痛と共に形にしていった、四本貫手だ。
しかし実際は習得したところで、吐き出す場がない技でもある。俺は喧嘩という場でこいつをお披露目したが、ピンポイントで急所を貫くというのは、かなり難しいと思い知った。
ひたすら組手で揉まれなければ、技というものは完成しないものだと、俺は思っている。形稽古やシャドーでは、どうしても相手の反応がわからないからだ。
貫手は、試合でも組手でも使ってはならない。だからどうしても実戦練習に事欠く部分がある。いつしか俺は、貫手の鍛錬こそするものの、こいつを闘いに活かそうとは考えないようになっていた。
しかしどうだ。やはり鍛錬は裏切らない。
土壇場で俺を救ったのは、この貫手だった。
この野蛮な大会では、急所への貫手は反則ではない。
俺は追撃を仕掛けるべく、グラハムを追った。
若干ふらつくが、この機を逃すわけにはいかない。グラハムはバックステップで逃げつつ、槍のような長いジャブを駆使し、俺を懐に入らせないようにしている。
そいつは無理だぜ、グラハム。こんな気合の入っていないジャブだけじゃ、俺の前進を止めることはできない。
俺がジャブの弾幕をかいくぐり、グラハムを自分の間合いに収めた瞬間だった。瞬間、背筋に悪寒が走った。――なにかが来る。
ジャブの煙幕のなかに紛れて、一発の凶弾が身をひそめていた。やつの隠し玉は、まだ一度も見せていない攻撃だった。
長い腕を器用に折りたたんだ、右のショートアッパーだ。
強烈な打撃だった。長いリーチを遠心力に変え、勢いをそのまま利して、下から間欠泉のごとく拳をカチ上げてきたのだ。
俺の両足が、わずかに地を離れたほどの衝撃だ。
「決まったさああ――」
勝利の確信にみちた笑みが浮いていた、グラハムの顔色が変わった。さぞかし驚いただろう。この打撃を受けてなお、俺が立っていることに。
「どうしたグラハム、顔色が悪いぜ」
「こ、こいつを読んでいたのか?」
手傷を負った草食動物は、肉食獣すらたじろがせるほどの獰猛さを発揮するという。窮鼠猫を噛むという言葉もあるぐらいだ。おまえがまだ、何か隠し玉を持っているのはわかっていた。
俺としてはせいぜい無防備に近づいて、そ知らぬ顔でそれを打たせる。それしかない。その上でそいつを食らわない心構えだけはしていたつもりだ。
俺は、自身の立場をグラハムに置き換えて考えていた。俺の不意を衝くために、最適な攻撃はなにか。ここまで俺は、グラハムのリーチの長さを散々刷り込まれている。その長さに囚われているといっても過言ではない。
ならば、そいつを撒き餌にする。
これまで一度も放ったことのない打撃を、とっておきにお見舞いしてやろう。そう考える。下からの打撃だ――。
俺は顎先へのアッパーカットをフィニッシュに用意していると判断した。空手家が回避するのは、かなり不得手とされる技だ。
残念ながら、俺は所謂普通の空手をやってきたわけではない。顔面アリのルールでずっとやってきたのだ。アッパーは食らったことも、食らわせたこともあるし、ディフェンスもわかっている。
ただ、これまで経験したことのない、凄まじいアッパーだったがな。
肘を畳んでブロックし、返しのストレートを放つ。
かなり際の攻防だったが、さすがにパンチだけで闘ってきた男だ。グラハムはこの至近距離のストレートを、ギリギリでかわしてみせた。
やるじゃないか、グラハム。
だが、忘れているんじゃないか。至近距離での攻防は、俺の方に分があるってことを。
俺はすかさずやつを首相撲に捕らえると、膝の連打を見舞った。懸命にブロックしてくるが、膝はボディだけに放つものじゃない。太腿にも、刺すようにお見舞いしてやる。
クリンチで懸命に逃れようとするグラハムだが、その態勢が徐々に崩れていく。ここだ。俺はすかさず足払いをしてやつを転倒させると、立ち上がり際の無防備な頸部へ、右の手刀を落とした。
グラハムはさぞかし驚いたに違いない。
ボクシングにはない打撃――だが、ここだって立派な急所だ。おまえは拳の打ち合いなら負けないという自信があったのだろう。
だが、あいにく俺はボクサーじゃない。拳以外の部分も使うんだ。貫手だって使うし、手刀だって使う。ちょっとばかり、見込みが外れたな。
「まだ、まださ――っ!」
それでもなお、グラハムは立ち上がってパンチを放とうとしてきた。手心を加えたつもりはない。見事な執念だ。グラハムよ、俺と同じように、お前にも、なにか大切なものがあるんだろう。支えてくれるものがあるんだろう。
俺たちはたっぷりと拳で語りあったような気がする。
だが、もう終わりにしようじゃないか。
至近距離でグラハムは再度、アッパーを放とうとしてきた。だが、それよりも速い打撃技が、俺にはあった。
猿臂だ。
最短距離で疾ったそれは、確実にグラハムの顎を捉え、揺らした。やつの膝ががくんと崩れ、その身体が前のめりに黄砂の海に沈んだ。
「――勝者、ボガード殿!!」
宣告のあと、闘技場が歓声に揺れた。
俺は残身を解いて、倒れた男へ静かに頭を垂れた。そして王のねぎらいの言葉を受けるべく、そちらへと向き直った。
そんな俺の背に、届いた声がある。
「なあボガード、楽しかったかい?」
仰向けの状態のまま、グラハムが聞いてきた。
「――そうだな、楽しかった」
「また、こいつで語ろうさあ」
やつは仰向けの状態のまま、拳をゆるりと天へ向けた。
俺は思わず苦笑いを浮かべ、
「拳でも、おしゃべりな奴だ」
と、言ってやった。
『強敵乱舞』その3をお届けします。
次話は翌月曜日を予定しております。




