その1
「ふむ……」
俺は一言だけつぶやき、朝の柔軟をおこなった。空手家にとって柔軟運動は、呼吸をすることと同じくらい自然な行為だ。
いつもよりゆっくりと全身のバネを起動させ、肉体の調子を確かめる。まだ張りは残っているが、疲労感は思ったより抜けている。そんなに若くはないと思っていたが、肉体は好調を取り戻したようだ。
「ありがたい」
俺は天に感謝した。この世界の宗教のことはよく知らないが、天と地があり、そこに人がいる以上、神は居るのだろう。
そして、いつもの日課である、コップサイズの陶器を取り出し、そいつを小匙でひとすくい、水で満たした杯の中へと投じ、よくかき混ぜる。そして一息に呑み干す。
お世辞にも美味いとはいえない代物だが、ヴェルダお墨付きの動体視力回復薬だ。こいつを手に入れるのに並々ならぬ苦労をしたのだから、効いてくれないと困る。
「疲労回復が早くなったのは、こいつのお陰じゃないよな」
ふと、そんな考えが浮かんだ。ビタミン・ミネラルが豊富に含まれています、なんて説明は、ヴェルダからは受けていない。しかしまあ、他にそれらしい原因もないことだ。そう思おう。イワシの頭も信心から、なんて言葉もあるしな。
「やあボガード、調子はどうだい?」
「その口調はなんだ」
フランクな調子で、ベッドから身を起こしたメルンが訊いてきた。最初はふたつ寄り添うように並べられたベッドを、俺が遠くへ引き離してやったので、彼女のベッドの位置は部屋の片隅だ。そういえば、昨日は千客万来の日だったが、この娘は一日中どこかへ出かけていて姿を見せなかったな。
相変わらず謎の多い女だ。
しかしまあ、今日はそれどころではない。
「――きょうはいよいよ、準決勝だね」
「そうだな」
「明日は決勝だね」
「お前は茶化しているのか」
「そうじゃない。事実を告げただけ」
「まあ、それならいいが。それより、どうするつもりだ」
「――――?」
「とぼけるな、魔道師団への入団の件だ」
ラーミアとの一件で、メルンの存在はフランデル側に割れてしまった。在野に彼女ほどの強力な魔法使いは、そうそう転がっているものじゃない。これまで幾度もスカウトを派遣して、彼女を取り込もうとしていた王国にとっては、王都に彼女がいるのはまことに都合がいいことだろう。今後、王国は自らの陣営にとりこもうと、あらゆる策を弄してくるだろう。
「その件は、もう解決した」
「ほう、それは初耳だな」
意外な言葉だった。しかしあれほどメルンに執着していた王国が、そんなに簡単にあきらめるものだろうか。
「昨日のうちに話をつけた。メルンは傭兵だから、はした金じゃ動かないぜって言っておいた」
「魔道師団の給金というのは、それほど安いのか」
「ううん、いまのボガードの稼ぎの数倍はもらえる」
「文句ないじゃないか。何が不満なんだ」
「飼い犬に幸福などない。野良犬の自由を」
相変わらず冗談でいっているのか、本心なのかわからんやつだ。しかし、こいつと話していると余計な緊張感が抜けていくのは確かだな。会話しつつも続けていた柔軟を終え、俺はゆっくりと立ち上がった。
虚空を突き、虚空を蹴る。
拳が風を切る音が、耳に心地よい。
心なしか、いつもより動きが軽い気さえしてくる。
「――師匠、おはようございます!」
そこへ、元気いっぱいのソルダが扉から駆けてくる。
「今日はいよいよ準決勝ですね!」
「それ、メルンがさっき言った」
「ええっ?」
「つまらない指摘はいい。それよりソルダ、支度をしてくれ。今日はいつもより早目に会場入りしたいんだ」
今日はいつもよりいい仕合ができそうだ。そんな予感がある。今の自分の動きを、速く確かめたいという気持ちがあった。
今日の相手は、これまで闘ってきたなかでも最強の敵だ。俺は窓の外の蒼穹を睨みながら、口角をつりあげた。最高の仕合をしたい。その上で――
「師匠、勝ちますよね」
荷物を背嚢に詰めながら、何気なくソルダがつぶやいた。何気なさを装いながら、その声はわずかな緊張をともなっている。俺は彼の不安を払拭するつもりで、わざと明るい声で返す。
「もちろんだ」
最高の仕合をしたい。その上で――
「――俺が勝つ」
自らに言い聞かせるように、俺は言った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まだ午前中のうちに、俺たち3人は円形闘技場へとやってきた。もう馬車の内部には他の選手の姿はない。各ブロック16人。合計64人もいた選手も、今じゃ4名を残すのみだ。
仕合そのものは正午過ぎに行われる。かなり早目に会場入りしたにも関わらず、すでに闘技場の門には長蛇の列が見えた。あと3試合で、フランデル最強の徒手空拳の男が決まるのだ。人々の関心が日増しに高まっているのも無理はない。
「やっ、今日はお早い会場入りじゃないか」
暗い地下に降りると、エルセラの元気な声が俺たちを出迎えた。予想屋の朝は早いというのは本当の話のようだ。
「みんな大金を賭けているからね。彼らは少しでも情報が欲しいんだ。知ってた? 私の情報は結構当たるって評判なんだ。今のところ、ほとんど外していないよ」
「ケリドアンの件は、外れたじゃないか」
「そりゃ百発百中じゃないさ。データはやっぱりデータであって、予知のようにはいかないよ」
「オッズは出ているのか」
「もちろんさ。現在のところ、ぶっちぎりでアキレスが1番人気だよ。その次が、グラハムかな」
「俺は何番目なんだ」
「目下のところ、4番目だね」
「最低人気ってことか。そいつは気の毒だな」
「気の毒? なにがさ?」
「俺に賭けなかった奴は、全員大損するってことさ」
「相変わらず、すごい自信だね。だけど気負いすぎて、肩に力を入れ過ぎないようにしなよ」
「エルセラは、誰に賭けているんだ」
にいっと、エルセラは笑って見せた。
「わたしは最初っから、ボガード、あんたに賭けてるよ。今回は知り合いに借金までして賭けてるんだ。負けたら承知しないよ」
「損はさせないさ」
俺も笑顔で応じた。今日は大言壮語を吐きたくなるほど、身体のキレはいいんだ。間違いなくいい仕合を見せることができる。
仕合着に着替えた俺は、仕合が始まるまで、暗闇で瞑想を行うことにした。そうしている間に、ぽつり、ぽつりと他の選手が集まり始めた。最初に声をかけてきたのは、アキレスだった。
「今日は、よろしく頼む」
短い挨拶だったが、いろんな感情が詰まっているように感じられる言葉だった。おれも「こちらこそ」と短く応えを返す。改めて見ると、やはりこの男は別格だな、という思いを強くする。
この強敵を倒さねば、優勝はない。
薪を火にくべるように、俺が闘志を掻き勝てていると、「やあ」と気の抜けるような声で挨拶をしてきた男がいる。身長は俺と同じぐらい、いや、少し低いぐらいだろうか。誰だろう――どこかで会ったような気がする。
「その顔は、まるで憶えてないって顔さあ。俺だよ、最初の馬車で一緒になった、グラハム・ヘンダーランドさあ」
「ああ」
そういえば記憶があった。あれはたしか大会初日の馬車での出来事だった。やたらよくしゃべる男と一緒になったということだけは憶えている。
「お互いよく勝ち残ったものさ。それにしても、相手はあのアキレスか。これじゃ、俺とは当たる機会がないさあ。あんたとは一度、拳を交えてみたかったさ」
「それはどうか、わからないさ」
俺はやつの口癖を真似して、そう言ってやった。
彼が反射的に何か言い返そうとしたとき、選手入場を告げるファンファーレが華々しく鳴り響いた。どうやら出番のようだ。最初に傾斜路を昇ったのは、ひとりだけ俺と声を交わさなかった男――マクザクという男だった。彼はトーナメントを無断欠場したラーミアの代打で参加した、補欠の選手だと聞いている。やれやれ、補欠よりも人気がないとは、おれも随分と軽く見られたものだ。
まばらな拍手が聞こえた。次に俺が傾斜路を昇ると、同じぐらいの拍手が闘技場で渦を巻いた。次に昇ってきたグラハムは、俺の倍ぐらいの拍手が与えられた。トリは優勝候補筆頭のアキレスだ。
その途端、まるでアリーナが爆発するかと思われるような、膨大な拍手が降り注いできた。とんでもない人気だ。だが、今に見ていろ。すべてをひっくり返してやる。
「静粛、静粛に。それでは、これより国王陛下からお言葉を賜りたいと存じます」
進行係のアナウンスが、会場の熱気を冷ます。
国王が一段高い貴賓席から立ち上がり、なにごとか、スピーチを行おうとした直前である。
「おそれながら国王陛下に、申し上げたい儀これあり」
無礼にも、口をはさんだ男がいる。そいつは驚いたことに、先程まで俺に親しく話しかけていたグラハム・ヘンダーランドではないか。
「――言ってみよ」
国王は寛大にも、それを赦した。気をよくしたのかグラハムは、すらすらと話し始めた。
「このままAブロックとBブロック、CブロックとDブロックの代表選手が、素直に闘うというのは、少々面白みに欠けてるんじゃないかなと思うさ――いや、思います」
「……ふむ、何が言いたい」
「ここはクジ引きか何かで、ランダムに対戦相手を変更したほうが、よりスリリングで面白いのではないかと思いますが、どうでしょうか」
国王は沈思黙考して動かざることしばし。会場全体がさすがに焦れ始めたぐらいの時間が経過し、彼はようやく重い口を開いた。
「是とする。それでは、そういうことにしよう」
意外な展開だった。まるで狐につままれたような気分だ。厳正なクジ引きの結果、俺の対戦相手はアキレスではなくなった。現在、俺がアリーナの砂塵の上で対峙しているのは――
「それでは本日の第一仕合――ボガード・カイドー対グラハム・ヘンダーランド、開始!」
そう、俺の対戦相手は、グラハムに代わっていた。
いつもより遅くなってしまいました。
『強敵乱舞』その1をお届けします。
次話は水曜日を予定しております。




