2-1 湖畔
2-1
列車に揺られること数時間、ランたちはユドンベルクの街へと降り立った。
早い時間であるとはいえ、王宮の近くと比べると行きかう人の数も少なく、閑散としている。服だの首飾りだの、よくわからないものを押し売りしてくる商人もいないし、鋭い目つきで周囲を睨みながら徘徊するゴロツキの姿もない。静けさを愛するランにとっては、この街は大変具合がよいように思われた。
「あれが、私たちが挑戦する山ですかね?」
ファンが遠方の山並みを指さして言った。山際は森から立ち上がる水蒸気のせいか、微かに白んでいた。
「多分ね。……思っていたよりも、上るのが大変そうだ」
山には初夏の新緑が生い茂り、その間を搔い潜るように、白い山肌が覗いている。遠くからなのでよくわからないが、かなり急峻な山々であるようにランには思われた。発掘屋たちが先んじて道を整備しているとはいえ、あの山の調査はなかなかに骨が折れそうだと、彼は少しだけ不安に思った。
二人は駅から数分のところにある宿を訪れた。ランの調査のために、王宮が用意してくれた場所である。二人は玄関で別れて、それぞれの部屋に向かった。ランの部屋は大通りに面した大きな部屋で、一人用とは思えないような巨大なベットが置いてあった。ランはベットに横になって、窓の外に見える青空をぼんやりと眺めた。
しばらくゴロゴロしてから、ランは街を散策しようと心に決めた。下の階にあるファンの部屋をノックすると、何やら忙しそうな表情の彼女が入り口に現れた。
「ああ、何かご用ですか?」
「いや、僕は少し街を散策してこようと思っているんですが……」
「うーん、少し荷物の整理があるので、パスで」
ファンは少し悲し気な顔をしてそう言った。ランはなんとなく悪い気がして、申し訳なさそうな顔をして宿を出て、街の散策に出かけた。
時計を見ると、針は正午を指していた。自分たちがと到着した時よりも、だんだんと街の中に人の姿が増えてきているようにランは思った。奇麗な洋服で身を包んだ女性の一行、トンボか何かを追いかけている子供たち、土に汚れた作業服を着て歩いている男たちは山を掘り進めている採掘屋だろうか。いろいろな人たちがランの視界の中に入った。
ランはしばらくの間、特に目的も定めずにふらふらと街の中を歩き回った。暖色の建物が立ち並ぶ中央通りには、湖の方からやってくる涼しい風が流れていて心地が良い。ランは道中で、数件のレストランを見つけた。店の前に掲げてあるメニューを眺めながら、どうやら食事には苦心しなくてもよさそうだと胸を撫でおろして、再び街の放浪に戻った。
駅のある中央通りから少し離れると、背の高い建物は急激に姿を消して、視界の中に大きな湖が映った。観光客と思しき人たちは皆一様に湖の方に歩いていくので、ランもそれにつられて歩きだした。
「おお……」
歩くこと数分、湖畔にたどり着いたランは思わず感嘆の声を上げた。普段水辺なんて仕事の関係上見慣れているのだが、その湖の風景は噂に聞いていたように、非常に美しいものだった。深青色の水面には、湖を取り囲む山々の緑を映しこんで、まるで絵画のような光景である。向こう岸には別荘だろうか、赤い屋根の小屋がぽつぽつと並んでいて、水辺の風景に一層の彩を与えていた。
ランは水面をより近くに見てみたいと思って、近くの桟橋へと近寄った。と、彼は桟橋の上に先客がいることに気が付いた。
それは、一人の少女であった。彼女は湖の方をぼんやりとした表情で眺めている。初夏には似つかわしくない、長いローブで身を包んでいる。
ランは最初、特に彼女のことを気に留めることなく、彼女の立っている桟橋の上を歩いて行った。ランは彼女の背後あたりで立ち止まり、水中に視線を落とす――水は透き通り、底に沈んでいる倒木たちもはっきりと見えた。倒木を横切るように、数個の魚影がやってきては消えていった。
「きれいでしょう?」
突然声をかけられて、ランは驚き顔で振り向いた――少女は相変わらず湖の方を見ながら微笑みを浮かべていた。
「ああ、まあ、そうですね」
ランはしどろもどろになりながらそう答えた。
「本当に。私、この風景が気に入ってしまいました。けれど、夜はもっと凄いんですよ? 湖がぼおっと白く光って、まるで天空の星々が、湖の底に沈んでいるようで……」
少女はうっとりとした表情でそう言った。ランは少し薄気味悪く感じたが、笑顔を崩さずに平然を装った。
「そうなんですか。それは見てみたいですね」
「ええ、是非夜に来てみてください。とてもきれいですから」
そういって彼女はニコニコと笑った。
「……あなたは、この辺の人なんですか?」
「いいえ」
「それじゃあ、観光か何かで?」
「まあ、そんなところです」
なんだか煮え切らない返事を少女は返した。彼女は何かを思い出したような顔をすると、ランに向かって軽く会釈をしてから、桟橋を立ち去っていった。
「なんだか変わった人だったなあ」
ランは心の中でそう呟きながら、彼女の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。