若者にありがちな『友達いない人痛い奴』思想は
『友達がいない人だと思われたくない』
この感情は複雑で、人によっては
【『友達がいない人だと思われたくない』と思っている事も含めて、思われたくないし、そう思う事も含めて思われたくない】
きっと、後者にて、。より問題の深刻さを表しているかもしれない。
あがり症人口が8割であるとされる日本人。どんなカタチであれ、群れから外れて孤立するのは、恐怖なのかもしれない。
この恐怖心は、どうやって成長していったのか。
【群れないと危ない】なんていう感覚については、群れの外が危険だというのを予め知っていないといけないだろう
学校ならば、イジメの被害者は群れからは外れている。これを見た傍観者たちは、群れから外れる恐怖を知るだろうか
、
イジメられてる者がイケメンや美女に限るなら、むしろ、イジメはモテる象徴として自尊心をくすぐり、苦でもないかもしれない。
つまり、不細工が虐めの標的にされるからして、群れから外れることは、
不細工である象徴みたいに人は認識している。カッコ悪く見える。それで孤立を恐怖するのか?
だとしたら、傍観者も間接的にイジメの被害者だという事になる。
群れから外れることの恐怖を将来にわたり、持ち続けるのだから、イジメの加害者は同時に傍観者も不幸にした事になる。イジメ関係者、当事者の問題だけ終われないのが虐め問題なのだろう。
とは、いえ、
不細工じゃないその他大勢が居るせいで、その不細工さんが虐めの標的として目立つのだから、傍観者もイジメ発生原理の一部になるだろう
よく傍観者も加害者と同じだという無茶苦茶な論法あるが…
被害者が【自分は傍観される程、誰にも必要とされない存在だったのか…】と自己に失望する場合は、傍観者も存在自体が被害者を虐待しているような、役割になる。
これらをイジメと評価するのは微妙だが、傍観者が間接的に人権侵害の役割を果たしているのは事実である。
しかし、傍観者が虐めっ子をやっつけたとしても、被害者視点においては、どのみち虐められた事実は変わらない訳であり、容姿の問題が、なくなった訳でもない。
虐めっ子を自ら撃退できなかった事実は【弱くて情けない自分】として解釈する事もできるかもしれない。悲観的に、ならない、までも、助けた相手に劣等感を持ち続けるかもしれないし、逆に虐めを見つけたら助ける側になるかもしれない。
また、周りの人が助けずに、被害者自身が虐めを撃退していたら将来的に強い自信が得られるかもしれないのだから、虐め傍観が一律に駄目とは言えない。、、結果論次第で、虐め傍観は正当化できる。
そもそも
傍観者たる者、不本意ながら、人権侵害する存在にさせられたのも被害者的だといえる。みだりに人を不幸にしたい人なんて稀であるのだから、
しかし、だからといって、虐め傍観が最善選択ではないだろう。
虐めが発生しようとする世界で、積極的に不細工になろうとしなかった者は、イジメ発生原理の一部作った事実である。イジメを生み出したから罪があるとして、【傍観者に罪が一切ない】という論法は通用しない。
つまり、傍観者は関係ないなんて、思ってたら、罰が当たるかもしれない。
しかし、神様は慈悲深いので罰は与えない。ほったらかし。
しかし、神様を信じる甘ちゃんは、神に裁かれる恐怖により、苦しむのである。
それこそが【友達いなの恥ずかしい病】である。
〈脳神経的な心理学的な解説〉
たとえば学校の授業で人前で笛を吹くテストや歌うテストがある。これが嫌な人は
【人前でよく見えていたい】という見栄の思いがある。、生存本能として、これが遺伝子レベルでありうる
たとえば鳥などカエル等、彼らは交尾するために必死で目だとうとする。、鳴き声で存在をアピールする。
田植えの時期、一匹のカエルが鳴き出すと、一斉に全てが鳴き出す。
他者にメスを取られまいとする焦りや独占本能は、人間の場合は、カーストの下になりたくない心理と、そっくり、だろう。
つまり、遺伝子的にエロえろい人、エロいエロい人程、本能としてカーストの下に、なりたくない思いが強い。その思いが【友達いないの情けない病】に感染する。
エロいは本能的にもカーストの下になりたくない。生活保護もプライドから恥ずかしく受け入れられないかもしれない。きっと、そのデメリットはエロス快楽のメリットと天秤かけたら釣り合うのだはないか? 神が人間を平等に作っているというなら、きっと相関関係にあるはずだ。
いろいろあったが、目立ちたい欲はエロ欲。つまり、エロくない人は目立とうなんて思う精神かない→カーストの下入りを恐れない→【群れから外れても、困らない】
つまり、あがり症でない人にはエロい感情がないのではないか?
つまり、あがり症はエロいのか?
そんな馬鹿な!