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【夢視の少年】

海に沈むアオと魚

作者: 輝咲

少年は溺れる、夢に。

息を止めて静かに浮かぶ。

視界に映るのは、

透明なアオの揺らめく分厚い壁と

歪な形をした骨。


――紅い満月が二つ、僕を見下ろしている。


少年はふと寂しくなって手を伸ばす。

涙は零れない。

代わりに口から大きな泡が、

言葉と共に零れた。


□■□


 パチン、と目を覚ました。視界はすぐにクリアになり、網膜に景色を映し出す。

 闇に煌めく数多の光が細々と、なのに生命力溢れる力強い金銀のそれは僕を一瞬にして虜にした。

 遠くから細波の音が聴こえる。背にはしっとりとした冷たい感触。鼻孔を潮っぽい匂いが刺激する。意識が徐々に確かになっていく。

 僕は今、寝転がっているのだと気付いた。視界に広がるそれは満天の星空。上体を起こして状況を確かめる。僕が背に感じていたのはきめ細かな白い砂だった。向こうには煌びやかな海が永遠と広がっている。しかし、覚えの無いこの場所と感覚は、夢の世界で創られた空想なのだと実感した。

 今にも星が降ってきそうな数多の光。満天の星空と似て、海中には砕け散った亜麻色の光が爛々と輝いている。まさに宝石だ。光り輝く宝石が無数に浮かんでは沈んでいる。時折、空では駆け抜けるようにして星が瞬いていた。

 海面に咲く、淡い桃色の花。蓮の花にも見えるそれは、まるで灯籠のように、ぼやけた光が浮かんでいる。何かの道標だろうか。それらは全て見事に花開き、水平線へ吸い込まれるようにして点々と一つの道を成している。

 僕は三角座りをして、海の彼方を眺めていた。さらさらとした白い砂を摘まみながら、独りで。広い砂浜と無限の海には、孤独にも僕しか居なかった。

 遠く遠く果ての無い海、空には銀色の星々が波打つように連なっている。

 そんな幻想的かつ神秘的、そして非現実的な空や海を観察していると、僕の背後からすうっと――あたかも、今までそこに立ち、宙に浮いた何かを追いかけるようにして――何者かの人影が横を通り過ぎた。驚いた僕は息を呑み、急いでそれに目をやる。そして、ごく自然な足取りで現れた一人の少女が僕の目の前に立った。振り返り、僕を見る。

 その少女は不気味な異質さが滲み出ていた。病的なほどまでに白い肌は蝋を塗り固めたような鈍い光沢を帯びており、華奢な体は触れるだけで壊れてしまいそうな脆さと儚さを持ち合わせている。瞳の色は深紅。人間の血よりもうんと鮮やかで、同時に人間らしさの欠片も無い特別な輝きと色をしていた。

 ――僕は識っていた、彼女の正体を。

 ――僕は憶えていた、彼女との出会いを。

 忘れるはずがなかった。あんな衝撃的な別れ方をすれば、否応なくとも。

 彼女は相変わらず素足のまま、ワンピースのようにシンプルな純白の衣裳(ドレス)を着ていた。艶やかな白い長髪と共に、優しく潮の風に浚われている。その涼しげな雰囲気は、丁度この世界観と似合っていて、なんとなく僕の心を爽やかにした。


「久し振り、で合ってる?」


 今回は彼女から声を掛けてきた。ドキンと嫌な音を立て、心臓が跳ねるのを胸の内で感じる。高鳴る鼓動を悟られないよう必死に抑えつけながら、僕は乾いた唇を開いた。


「うん、大正解」


 からからに乾燥した喉から発せられた声は当然の如く掠れていた。よく分からない羞恥心を密かに感じつつ、それを誤魔化すために続ける。


「もう、会えないかと思ってた」

「私もそう思っていたけれど、どうにも神サマというのはこういうのがお好きみたいね」


 透き通った抑揚の無い声で、彼女は肩を竦めた。硝子の破片がチクチクと、肌に突き刺さるような感覚に脳髄が痺れる。ああ、そんな痛みすら懐かしく、そして心地良く思えるのだから、やはり僕の頭はどこか狂っているらしい。

 彼女との出会いは確か――夏の夜。あっちの世界が大嫌いで仕方なかった幼き頃の、くだらない我が儘しか言えなかったあの頃に、僕は夢想の世界で彼女と出会った。彼女と共に居ることを望み、結局叶うことのなかったちっぽけな夢――ああ、思い出すだけで吐き気がする。

 しかし、今は手の触れられる距離に彼女が居て、苦しみを感じることなくこうして近くで会話ができている。たったそれだけなのに、僕は嬉しくて堪らなかった。

 僕はまた、あの時に失われかけていた愚かな感情を段々と思い出す。


「だとしたら、その神サマは良いことをしてくれたんだね」

「まさか。気紛れにも程があるわ。こんな再会、私は望んでも願ってもいなかったというのに」


 星空を見上げて、彼女は乏しい表情のままそんなことを言った。無表情にしてはどこか悲しそうで、しかしそのわりには心底つまらなさそうで。彼女はどっちとも付かない、複雑な面持ちをしていた。


「でも僕は心のどこかで願っていたよ。貴女とまた出会って、こうして話ができることを。でなきゃ、神サマは僕達を巡り会わせることなんて無かったと思うけど?」

「そうかな? 私にはそう思えない。そんなの、君の勝手な妄想よ」


 彼女はくるくると回って海辺へ歩いていく。それを僕は呆と見届ける。なぜだろう、景色と一緒に彼女を眺める方が、今はそれだけで満足だと思えた。不思議だ、あの時は彼女の傍に居たくて仕方なかったというのに。

 あの時は――現実から逃れるために僕が創り上げた世界で初めて彼女と出会った時は、運命というものを実感した。だが、そこは拙い頭から捻り出された不完全な世界。教室という水槽にも似た透明な空間で彼女は生き、僕は彼女が棲む別の空間で息をしていた。廊下という果てしない闇で。

 僕は彼女の居る教室(せかい)に足を踏み入れた。視覚では感知できない透明な壁を踏み越え、痛みと息苦しさと冷たさと、他にも様々な感覚を伴いながら。棲む世界が違うのだと、残酷な現実も突き付けられて。そんな苦しみを味わってでも、その時の僕はただ、彼女に魅了され、彼女の傍に居たいと願っていた。


――その理由がまさか、恋に似ているだなんて識らずに。


 無音と仄かな暗闇が支配するこの世界で、彼女は踊る。長い髪も衣裳も、彼女に合わせてひらりひらりと閃く。この瞬間的な時間の、緩やかな流れは僕にとって特別なものに見えた。

 細波が彼女の足に触れる。まだ踊りは終わらない。海に散らばった亜麻色の光をバックに、彼女は透明な海水と戯れている。さぞかし、気持ち良さそうに。見ている僕にも、それがひんやりと伝わってくる。しかし、依然として彼女は無表情のまま、飛び散る水を目で追っていた。


「――君はこっちへ来ないの?」


 一通り踊りを終えたのか、彼女は足を水に浸した状態で僕を誘った。妙な気分だ、彼女がそちら側へ誘うなんて。以前は拒絶ばかりをしていた彼女からの誘惑に、僕の脳内では名状し難い感覚が走り抜けた。


「……行っても、いいの?」

「ええ。ここはあそこと違って、生と死の境界線が存在しないもの。君を苦しめる部屋(くうかん)も無ければ、私達を隔てる障害(かべ)も無い」


 ギュッと心臓を鷲掴みにされそうな、甘く素敵な誘惑にも似た彼女の発言に、僕の内で高揚感が駆け巡った。

 体が、抑え付けていた自制心を無視して動く。砂に少し埋まったお尻を上げ、彼女の下へ駆け寄る。手を伸ばせば、すぐに触れられる距離まで。彼女の隣に立ち、僕も足首を水に浸す。やはり、冷たくて気持ち良かった。


「君、変わったね。(からだ)は全くあの時と変化は無いのに」

「そう? でも、ここは僕の創った夢想の世界だから、そういうのは自由自在に変えられるよ」

「それもそうね。この美しい景色だって、君に創造された産物に過ぎないもの」


 ちらりと横に視線をやると、彼女は果てしなく続く眩しい海原を見つめていた。瞼を細め、靡く潮風に揺られている。向こうに続く銀河では流星群が翔け抜け、白銀の尾を引いていた。真っ暗な夜空を埋め尽くすほどの星々の数に圧倒される。あんなに綺麗で心を奪われるような星空は、今まで見たことがなかった。

 加えて、輝きを放つこの眩い海だってそうだ。海面に浮く光る花も、さらさらとした骨のように白い砂も。だとすれば、彼女の言う通りそれらは幻想だ。現世には存在しない創造物。その正体は、きっと無意識のうちに持ち合わせていた、それらに対する美化と憧憬に違いない。


「貴方も、充分に変わったと思うよ」


 僕もその向こうを眺める。僕と彼女だけの世界――僕にしか創られないこの空間で、彼女も息をしているのかと思うだけで胸がいっぱいだった。


「へぇ、そうなんだ。こんな体になっても、変化は在り続けるようね」

「なんというか、あったかくなった気がする」

「それは、どっちが?」

「中が、かな。相変わらず、風体は人間離れしてるけど。前は全然優しくなかった」

「へぇ、そんなことを思われていたの。まあ、どうでもいいことだけれど」


 どうやら、彼女は自分に対してあまり興味や関心が無いらしい。それは先程から続く言動から見受けられた。


「――ねえ」


 心が熱を持ち、会話もほんの少し弾んだところで、僕は改まって声を掛けた。妙に浮き立った感覚を味わいながら、僕は彼女の返事を待つ前に続ける。


「手、繋いでもいい?」


 刺激的な風景にも心がやられたのだろう、僕の口からとんでもない言葉が紡がれた。少々踏み込みすぎただろうか――いや、ここは僕の世界。法則(ルール)は僕自身だ。嫌なことは忘れて、好きなことを本能に従ってすればいいのだと、いつしかの僕が決めた約束(ルール)である。不意の申し出に彼女は溜め息を零した。


「さっきの、訂正するわ。君は、中身(せいかく)も何一つとして変わってない」

「……怒ってる?」

「まさか。識らないわ、そんなこと」


 まるで、自分には関係のない風に平然と答えた彼女。やはり、そこには無が張り付いていた。この海水のように冷たく、濁りが無い。

 そして彼女はその後、無言で手を差し出した。予想外の行動に、僕は目を丸くする。


「えっ……いいの?」

「言い出したのは君じゃない」

「そう、だけど……」


 やはり妙に優しくなった彼女。それに僕は不安や緊張を感じつつも、そっと彼女の手に触れ、優しく握り締めた。水のように澄んだ冷たさが、熱っぽい僕の体へ流れ込む。まるで、海の中を浮遊しているような心地良さがあった。

 かつて望んでいた、苦もなく彼女に触れることがようやく叶った。夢の中なのに、本当に夢の中に居るような、よく分からない感動が心を揺さぶった。


「どう?」

「……冷たい」

「でしょうね、死んでるんだから」


 奇妙な質問をされたので素直にそう答えたら、冗談にしては程遠い言葉が返ってきた。突然の宣告はあまりにも現実味が無くて――だが、ここは夢の世界なのだとすぐに思い出して、不思議と納得してしまった僕が居た。

 同時に、この感覚が死なのかと気付いてしまって……。痺れるような痛みが全身を駆け抜ける。


「――この果てには」


 海の彼方を見つめたまま、彼女は静かに語り始める。


「死の世界が在るそうよ。どこまでも、どこまでも遠くにだけれど。果たしてそこに楽園が待っているかなんて識らないけれど、なんだか〈面白そう〉じゃない?」


 彼女の表情は至って平凡なままだが、声色は少し、ほんの少しだけ生気が宿っていた。彼女の口から「面白そう」という感想が出てくるなんて。僕は驚き、少しどきまぎもした。


「だから、私は帰るわ」

「……行くの?」

「ええ、勿論。だって私の居場所はそこだもの」


 そう言って歩き出すや否や、握っていた手はするりと抜かれ、彼女は煌びやかな海中へ向かって行く。その向こうには、蓮の花が灯籠のように淡く輝き、彼女の足元を照らす。

 彼女は死んだ珊瑚――ああ、そうか。僕は気付く。

 彼女が死んでいようと生きていようと、帰る場所は海の中なのだと。彼女の故郷(いばしょ)は、砂浜(ここ)ではなくて海中(あっち)なのだと。

 ――やはり、どうやらここにも境界線は存在していたようで。それが遠いか近いかの違いだけで、またしても僕は彼女と離れ離れになってしまうのかと気付いてしまった。

 ふと、不安になった僕は背後を確認する。そして案の定、そこには毒々しい闇が砂浜を徐々に飲み込んでいた。見慣れているとはいえ、思わず鳥肌が立つ。色彩を纏わない闇の襲来は、夢物語の終焉を不気味に告げていた。

 慌てて前を見ると、既に彼女は腰辺りまで水に浸かっていた。その彼女を追いかけ、二の腕をばっと掴む。彼女は驚きもせずに振り返る。


「僕も、ついて行く」


 震えそうな声を必死に押し込み、冷静を装って僕は彼女の瞳をじっと見つめる。いつ見てもそれは、鮮赤(あざやか)な血の色を連想させた。命の象徴。確かにそれだけは彼女の瞳に宿っていた。

 死とは真逆の色。生前の姿を彷彿させるような生き生きとした色。矛盾を孕んだその瞳は、僕を(しず)かに映し出していた。

 彼女は僕の背後に迫るあれを覗き込み、「ああ」と呟いた。


「君はまた逃げるの?」


 逃げる――嫌いな現実からの逃避。違う、あそこは確かにそうだが、あの時よりかは随分とそれに対する醜い感情は和らいでいる。現実から逃げ、着いた場所がここ。恐らく前回と同様、今回も僕はここへ逃げてきたのだと悟る。それが愚行だと識りながらも。

 今の僕はただ、この夢の世界に羨望にも似た感情を抱いているだけで、そこから逃げる選択肢なんて元から存在すらしていなかった。唯一恐ろしいのは、あの闇に飲み込まれること。元居た世界へ帰ることに恐怖などは感じていない。そして願うは、彼女と共に生きることだった。


「違う」


 僕は断言する。あの時は順序が異なったのだ。あそこに戻りたくないから彼女と居たいのではなく、今は彼女と居たいからあそこに戻りたくないだけなのである。

 あの時はどうしようもなく馬鹿で幼かったから、そんなちんけな考えしか思い付かなかったのだろうと思う。


「逃げるんじゃない。僕は、貴女の傍に居たい。それに嘘偽りなんて、これっぽっちも無いよ」


 強く、はっきりと、彼女のどこかにある心へと響かせるように言う。実際に響き伝わったかなんて分かるはずもないが、この方法でしか僕は彼女に想いを伝える術を識らなかった。

 白銀の星や亜麻色の海が一斉に瞬く。強く、明るく、眩しいほどに。まるで、背後から迫ってくる闇に負けないように。


「そう……」


 彼女の返事はいつも通り素っ気なく、あたかも興味無さそうに、やはり遠くを眺めていた。こちらを見る気配は一切無い。


「君は本当に愚か」

「それでも良いよ、君と居られるのなら」


 僕は掴んでいた二の腕から、代わりに手を握る。彼女は抵抗しない。それが果たして嬉しいのか恐ろしいのか、判断しようにも複雑にそれらが絡み合っていてよく分からなかった。


「もう二度と、元へ戻れないかもしれない」

「うん」

「あの果てで、共に居られる保証も無い」

「うん」

「確実に、死んでしまうかもしれない」

「うん」

「……どうして? 分からないわ。君がそこまでして私と居ようとする理由が」


 好きだから、とは言えなかった。そんなのは、僕の身勝手な妄言に過ぎない。恐らく彼女には、それすら伝わらないだろうから……。

 彼女に抱く感情は確かに、そのようなものでしかない。初めて出会った時は彼女の美しさに惹かれ、心を奪われ、尊敬と畏怖が混合し、彼女と共に居ようとした。現実の存在を忘れようとして。あそこには決して存在しない彼女と居れば、僕は救われると思っていたから。だが、その思いとは裏腹に、あそこと変わらず夢の世界も厳しくて、僕は強制的に元の世界に引き戻された。彼女に突き飛ばされて――それが、彼女との別れ。

 僕は再び後ろに振り返る。あの闇はついに、美しく輝く海さえも飲み込もうとしていた。砂浜であった場所に面影は無い。跡形も無く消え去っている。そこには、純粋な黒い闇だけが広がっていた。


「……分からなくていいよ、今はさ」


 本当のことを言う勇気を、この世界でも僕は持ち合わせていなかった。そう誤魔化し、僕は彼女の手を引いて歩き始める。行き先はきっと、光る桃色の蓮の花が教えてくれる。これを辿ればあちら側へ行けるのだと、僕は何となく気付いていた。ぼやけていた光は、鮮明な輝きに変わり、水平線までを照らし導いてくれていた。

 ――音は()い、風も()い。


 どうやら海は浅く、いつまで歩いても水は太腿までしか浸からない。水の重い抵抗も感じられず、足は思うように前へ進み、煌々とした光の中へ僕達は吸い込まれていく。よく見ると、それの正体は滑らかに光る亜麻色の珊瑚だった。温もりのある優しい光が僕達の足を包み込む。

 ああ――彼女とは違う色をした珊瑚だ。幼い頃、海で溺れた時に視た白い珊瑚とは違う。

 そして、全てが繋がる。白は死だ。彼女が纏う色は死を意味していた。だが、瞳だけは命を残している。唯一それだけが、彼女がかつて生きていたことを物語っていた。彼女は海の中で生き、海の中で死を受け入れようとしている。つまり、生きた証。彼女の言ったあの冗談は本当のことだったのだと、今になってやっと気が付いた。

 しかし――先程とは違って、いつの間にか水は腰まで辿り着き、意識が段々と不確かなものへと移り変わっていく。


 ――どこまでも果てし無くて、どこまでも遠くて、どこまでも透明なアオ。


 沈む知覚と同化して、それは僕の体内に染み込んでくる。清涼な冷覚と朦朧とする意識が混合し、視界は波のように揺らめく。


「やっぱり君は――」


 隣で囁く彼女の声が鮮明に、僕の脳を痺れさせる。刺激的な心地良さが快楽に変わり、体から力が抜けていく。


「――あちら側へ行くにはまだ早い」


 僕は水面に倒れ込む。硝子の水飛沫を上げて、静かにアオい世界へ堕ちていく。腰辺りまでしかなかった深さは、いつしか僕の体を海の底まで沈めるほどまでになっていた。

 もう力は失われた。足掻きもがき、再びそちらへ戻るための力は、この海と共に沈んでいった。

 まただ、と僕は微かな意識を保ちつつ思う。また、彼女から遠ざかっていく。手を伸ばしても届かず、声を出そうにも喉は震えず、視界はゆらゆらと曖昧になって……。

 不思議と呼吸は苦しくない。気泡が口から零れていくだけ。海中の珊瑚が底を淡く照らす。そのお陰か、孤独という意味では寂しくなかった。

 だけど――彼女と離れるのはやはり寂しくて、胸が苦しくて……。

 一際大きな気泡が零れる。更に意識は遠退いて、水面の向こうで揺れる彼女の姿があやふやになっていく。もはや、そこに彼女が居るのかどうかさえ、判別がつかなかった。

 只々、意識の感覚が薄れていき――彼女に対する想いだけが膨れていくばかり。

 それを吐き出してここから届ける術は思い付かず、胸の内で渦を巻く。この零れる泡にそれを込めることができたのなら、どれだけ幸福で感動的なのだろうか。そんなつまらない妄想が溢れていく。

 やはり夢は夢のままなのだと、真実(おもい)を伝えることは不可能なのだと、この世界はそういう仕組みなのだと、思い識らされて――気付く。

 僕の中で生まれたこの感情さえもが妄想の一つなのではないのかと。ここに居るから、そのような感情が勝手に膨れ上がっているのではなのだろうか。僕が抱いているそれを、彼女は決して識らない。

 では、彼女は? 当の本人は僕に対して、何を思っているのだろうか。僕との再会を喜ばず、何事にも興味を示さない彼女。言動はおろか、表情からもそれを把握できなかった。恐らく、僕の存在なんてどうでもいいのだろう。でなければ、僕を置いてあちら側へは行かないはずだから……。

 ああ――分からない。僕の頭ではそれ以上のことは考えられなかった。何が何で何なのか分からないまま、僕は彼女を好きでいようとしている。彼女の言う通り、僕は自分で呆れるほどに愚か者だと痛感した。

 水面に揺らめく二つの紅月。星や海よりもずっと綺麗かつ魔的で、僕の心をぎゅっと鷲掴みした。それに届かないと分かっていながらも、僕は手を伸ばす。


「――――」


 そして、音の響かない世界で言葉を紡ぐ。泡の中に吸い込まれて消えっていったそれは、遠い水面まで上っていった。



終わり


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