ひとことが言えない
父と古くからお付き合いのあるハラヴァティー侯爵さまには、三人の息子がいた。
そのうちの末子であるレオとわたくしは、幼馴染みと呼べる関係だった。
4つ年上の彼は、小さなころはわたくしの良いお兄さまだった。
わたくしのすぐ下に二人妹がおり、わたくしは常に姉でいなければならなかった。わたくしは甘える側ではなく甘えられる側。そんなわたくしが唯一甘えられたのが、レオだった。
レオの前ではわたくしはただの“アリーセ”でいられた。レオも末子だったからなのか、自分に懐くわたくしを本当の妹のように可愛がってくださり、わたくしはレオお兄さまが大好きだった。
その大好きが、いつ恋に変わったのか、それは覚えていない。
だけど気づいたらわたくしはレオに恋をしていた。
わたくしの前では大人ぶって、だけど本当はわたくしと同じくらい幼いレオ。努力家で、国一番の騎士になろうと、一生懸命に剣の稽古に励むレオ。そんなレオに憧れたし、そんなレオに特別目をかけて貰えていることがわたくしの密かな誇りだった。
わたくしの我が儘を出来るだけ叶えてくれようとするレオ。
レオの傍にいれれば、それだけで幸せだった。
ある日わたくしに弟ができた。
弟はわたくしの髪の色と瞳の色とお揃いで、だからというわけではないが、わたくしは弟の世話に夢中になった。
下の妹たちはわたくしと髪の色も目の色も違う。わたくしと弟は父譲りの髪と瞳で、妹たちは母譲りの髪と瞳なのだ。
妹たちと競うように弟の世話をした。弟はなぜかわたくしに一番に懐いた。それが嬉しくて、わたくしは弟の世話を張り切ってした。そんなわたくしをレオは優しい目で見つめ、いつかわたくしにしてくれたように、弟のことも実の弟のように可愛がってくださった。
弟の成長を見るのが楽しかった。
ハイハイを覚え、捕まり立ちをし、よちよち歩きをし、言葉を覚え。
弟の成長は早く、あっと言う間に時間が経っていく。
気づいたら弟は8つを数えており、わたくしは憧れのレオとの婚約が纏まりかけていた。
大好きなレオお兄さまとの婚約。
そのことをお父さまから聞いた時、とても嬉しかった。だって、恋い焦がれていた人と結婚をできるのだ。こんな幸せなことはない。
その時のわたくしは、きっと世界でいちばん幸せだった。
そんな幸せは、母が亡くなったことで崩れ去った。
母は元より体の強い人ではなかった。最近は体調を崩しがちで、そんなところに流行り病に罹り、あっと言う間に衰弱して亡くなった。
母が亡くなった喪失感で、伯爵家の空気はとても暗い。わたくし自身も、母が亡くなったのだという実感が沸かなかった。母が亡くなったのだと実感できたのは、葬儀で母の遺体を見てからだった。
しかし、伯爵家の中で母が亡くなったことに一番ショックを受けたのは弟だった。
もうこの世界のどこを探しても母はいないのだということを、弟は理解できないようで、母が亡くなって葬儀を終えてしばらく経ったあとでも「姉様、母様はどこ?」とわたくしに尋ねる弟に、わたくしの心は痛んだ。
涙が出そうになるのを堪えて弟に「お母さまはね、お星さまになったのよ」と答えても、弟は理解ができない…いや、理解をしたくないのだろう。泣きそうな顔をして、「どうしたら母様にまた会えるの?」と尋ねる弟を思わずぎゅっと抱きしめた。
父は元から仕事で忙しく、屋敷にいることは少ない。母が亡くなったことで、母との思い出が詰まったこの屋敷に帰るのが余計に辛いらしく、なおの事、家に寄り着かなくなった。
そんな中でも、わたくしの婚約の話は進んでいく。
だけど、弟を一人残して家を出て行ってしまって良いのだろうか。
母を探して屋敷を歩き回る弟を残していけるのだろうか。
考えて考えて。わたくしは弟を放って置けないという結論を出した。
その結論が何を意味するのかも、よく考えての上だ。
妹たちも婚約の話がわたくしと同じように纏まりかけている。もうすぐこの家には弟一人だけになってしまう。そんなのは、だめだ。
弟は感情豊かな子だった。
それが今では表情がほとんど変わらない、無表情な子になってしまった。
母が亡くなったことのショックだろうと、侍女頭のアンジェリカも執事のフランツも痛ましそうな顔をして弟を見守っている。
そんな弟を、わたくしの可愛い家族を、わたくしは置いていけない。
だから、わたくしは父に頼んだ。どうか、わたくしの婚約話をなかったことにしてください、と。
父はわたくしをしばらく見つめたあと、「それでいいのか」と尋ねた。迷いなく頷いたわたくしを父は痛ましそうな目をして見つめ、「…わかった。先方にはそのように私から伝えておこう」と言ってくれた。
ありがとうございます、と頭を下げたわたくしを、父は無言で抱きしめ、「アリーセ、すまない。ありがとう…」と涙声で告げた。
弱々しい父の姿を見るのは初めてだった。父は決して自分の弱いところを人に見せる人ではなかった。そんな父が、こんなにも弱っている。
母の存在感の大きさを改めて実感した。
婚約の話を白紙に戻す。そのことを、わたくしはどうしても自分の口からレオに伝えたかった。
ある日、わたくしはレオを呼び出した。そして自らの口で告げた。
「レオにお願いがあるの」
レオはわたくしのお願いをいつだって、出来うる限り叶えてくれた。
だから今回だって大丈夫だと、レオならわかって許してくれると、そう思い込んでいた。きっとレオなら、弟が一人前になるまで待ってくれる、と。
「わたくしとの婚約を、なかったことにして欲しいの」
想像以上に胸が痛む。だけれど、これはわたくしが決めたこと。
このまま彼と婚約し、結婚しても、わたくしはきっと幸せになれない。心はいつでも弟のことを想い、きっとレオに不快な思いをさせてしまう。
ならいっそのこと、この話をなかったことにした方が良い。そうわたくしは思ったのだ。 だけど、レオは違った。
「なぜ?」
「弟を…ヴィリーを置いていけないわ。あんなに表情豊かだった子が、感情を忘れてしまったかのように表情が変わらなくなってしまったの。そんなあの子を放って、わたくしだけ幸せにはなれない」
「……ヴィリーのために、私との婚約を取りやめると?」
こくりと頷いたわたくしを見たレオの目は、今まで見たことがないくらい、冷たい目をしていた。
そのことにわたくしは驚き、どうして、と思う。
なぜ、わたくしをそんな目で見るの、と。
「君は……私よりも、ヴィリーを選ぶのだな」
「あの子はまだ子供よ。小さな子を放って置けないでしょう」
「もう、いい。君の考えはわかった。いいだろう。婚約を白紙に戻そう」
「レオ、待って。わたくしは…」
「君の望みは叶えると言っている。これ以上、何が望みなんだ?」
苛立ったように言うレオに、わたくしは言葉を失った。
言いたい事はたくさんある。けれどその言葉すべてが、レオの冷たい目の前に消えていく。
いつもは温かく柔らかい色を宿した赤い瞳が、今はまるで軽蔑をしたかのような冷たい色を宿してわたくしを見ている。
その事実だけで、わたくしが言葉を失う理由は十分だった。
いつもは勝気なわたくし。ついついキツイ言い方をしてしまって、ドロテア以外に打ち解けて話せる友人はいない。それに、この通りの性格だから、わたくしに近づく男性はいない。いてもつい、嫌な言い方ばかりをしてしまって、すぐに離れてしまう。
無駄に口だけは回るのがわたくしなのに、なぜこういう時に限って言葉が出ないのだろう。
達者な口で、レオを引き止めなければならない。わかっているのに、出来なかった。
わたくしに背を向けて去っていくレオを追いかけることも、名を呼ぶことすらわたくしは出来なかった。
それから、わたくしたちの関係はぎくしゃくとし出した。
会ってもレオの態度は素っ気ない。わたくしも彼を何を話していいのかわからず、黙り込んでしまう。
そんな状態が続いたある日、噂を聞いてしまった。
レオが女性をとっかえひっかえして歩いている、という噂を。
嘘だ、と思った。だって、レオはわたくしを好いてくれていた。妹以上に、大切にしてくれていた。愛していると、そう囁いてくれたし、キスだって。
まだわたくしたちの婚約の話が白紙になってから日にちはそんなに経っていない。仲違いをしてしまったけれど、いつかきっと、前のような関係に戻れると信じていた。
そう思っていた矢先だったのに。
わたくしは見てしまったのだ。見知らぬ女性を引き連れて、まるで見せびらかすようにして歩くレオの姿を。
そんなレオの姿を見て、わたくしはカッとなり、目の前が真っ赤になったような気がした。そして気づいたらレオの近くまで歩いていて、彼の頬を思い切り叩いていた。
嘘つき。わたくしを愛してると、好きだと言ったくせに。
悔しくて、悲しくて、涙が滲んだ。
わたくしはまだこんなにもあなたが好きなのに。あなたはわたくしを忘れて、違う人のところにいってしまうの。どうして。
様々な感情が渦巻き、わたくしはその場から逃げ出して屋敷へ戻った。
そんなわたくしを出迎えてくれたのは、わたくしの可愛い弟だった。
「姉様…どうしたの? だれかに、苛められたの?」
「ヴィリー…」
「ぼくが、やっつけてあげる。だから、ね、姉様。泣かないで…」
「ヴィリー…!」
拙いながらも一生懸命にわたくしを慰めてくれる可愛い弟。
ああ、この子のためなら、わたくしは頑張れる。
幼い弟を抱きしめ、わたくしは誓った。
この子を、母に代わり立派に育てあげる、と。
あんな男の事など忘れて、わたくしの人生すべてをかけて、この子を育てる。
それがわたくしが自分に課した使命だった。
弟はとても立派に育った。表情が一切揺るがない、まるで人形のようになってしまったけれど、それも弟の魅力の一部として囁かれている。
それに、弟は申し分ないくらい賢く、仕事もできた。父からは伯爵位を受け継いだ弟は立派に伯爵の仕事をこなし、更には王太子殿下からの信頼も厚く、殿下の右腕と目されてもいた。
そんな弟がわたくしの自慢だった。『氷の王子』なんて大層な異名を付けられる弟が、誇らしかった。
しかし、人間らしい表情が欠落した弟が少し不安でもあった。
あれからわたくしがどう頑張っても、弟が昔のように表情豊かに戻ることはなかった。
それだけ、弟にとっても母の存在は大きかったのだろう。そして、わたくしは母以上の存在にはなれなかったということだ。
そんな弟が、恋をしたのだという。
ことあるごとに隣の領地へと足を運ぶ弟に、これでやっと弟も人間らしい表情を浮かべるようになるという安堵と同時に、大切な弟の心を奪い、わたくしでも成し遂げられなかったことをやってしまうかもしれない、見知らぬ令嬢に嫉妬した。
その令嬢と結婚できることになった弟は、誰の目から見てもわかるほど浮ついていた。
よほど嬉しいのだろうと微笑ましく思うのと同時に、寂しくもあった。
わたくしを慕って「姉様姉様」と甘えてくれた弟は、わたくしの傍から離れてしまうのだ。寂しいと思わないわけがない。
初めて会った弟の嫁は、とても可愛らしい令嬢だった。
この子が弟の心を射止めた子…そう思うと憎らしく思えて、ついついキツイことを言ってしまい、言ったあとで後悔した。
もしもわたくしのせいで、嫁が出て行ってしまったら。
きっと弟はわたくしを恨むだろう。弟に恨まれたらわたくしはどうして生きて行けばいいのだろう。
弟がわたくしの生きがいだったのだ。あの日から、ずっと。
そんなわたくしの心配に反して、嫁はとても逞しい子だった。
わたくしの嫌味にも堪えず、更にはわたくしの嫌味に言い返すほどの気の強さを持っていた。
口にも態度にも出してはいないが、わたくしはこの嫁を気に入っていた。
弟の嫁はこれくらいでなければ務まらない。だから彼女が、アルベルティーナが弟に嫁いできれくれて良かったと、心から思っている。
嫌味も言わないようにしようと思うのだが、弟を取られた悔しさから、どうしても彼女の顔を見るたびに嫌味を言ってしまう。そのたびに反省するのだが、これは根強くなかなか治らない。
どうしたものかしら、と悩んでいる時だった。
弟がわたくしの元を尋ね、久しくしてこなかった頼みごとをしにきたのだ。
「わたくしに、頼み事?」
「はい。ハラヴァティー侯爵家の夜会に、俺たちと一緒に参加して頂きたいのです。姉上の事情は知っていますが、今回だけでも参加して貰えないでしょうか」
お願いします、と頭を下げる弟に、わたくしは困惑した。
今までそんなことを言うことはなかったのに、今になってどうして。
その問いの答えは簡単だった。
嫁だ。
「アルベルティーナが、どうしても彼の家の夜会に姉上と一緒に参加したいと」
「…まあ、アルベルティーナが?」
彼女がわたくしとレオのことを知るはずがない。
だからきっとこの夜会に行きたい、ということに他意はないはずだ。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。久しぶりの弟の頼み事だ。出来れば叶えてあげたい。それが嫁の希望であるのなら、尚更だ。
しょうがないわね、と言って願いを叶えてあげればいい。わかっている。
だけれども。
その想いに反して、わたくしはどうしてもすぐにうんと頷けなかった。
今更どんな顔をして彼の家のご両親と顔を合わせたら良いのだろう。婚約を白紙にするだけならいざ知らず、レオがあんな風になってしまったのはきっとわたくしが原因なのだ。
なによりもレオに会うのが怖い。また、見知らぬ女性を侍らしていたら、きっとわたくしは前のように目の前が真っ赤になってしまう。
わたくし以外の誰かに笑いかけるレオなど、見たくない。
これはわたくしの我が儘だ。わかっている。幼い頃からずっと想い続けているのだ。何十年越しのこの恋はとても我が儘で、そしてとても臆病に今でも育っている。
だけど、そろそろそれも終わりにしないといけない。
ドロテアとの手紙のやり取りで、レオがそろそろ身を固める決意をしたと聞いた。だからきっとわたくしのこの恋も終わりにしなければならない頃合いなのだ。
ちょうどいいではないか。丁度いい機会を弟夫婦に貰ったと思えばいい。
「姉上?」
少しだけ不安そうな弟に、わたくしの安心させるように微笑む。
これっきりにしよう。これでもう、わたくしは身を引こう。
ここにはもうわたくしの居場所はない。ここは弟たち夫婦の居場所なのだ。わたくしは邪魔者でしかない。
「───いいわ、ヴィリー。わたくしも参加します。そのように返事をしてちょうだい」
わたくしは今まで手に持っていた紙をその場で破く。
わたくし宛ての招待状。出る気がなかったから欠席と返事を書いてしまったけれど、それももう意味のないものとなってしまったから。
「…ありがとうございます、姉上。そのように、返事を致します」
「ええ」
嬉しそうな弟の様子に、これで良かったのだと思う。
少しだけ胸が痛むのはきっと気のせいだ。そう思うことにして、わたくしはそっと弟から目を逸らした。
ハラヴァティー侯爵家の夜会はあっと言う間にやって来た。
弟夫婦が来る前に馬車に乗り込み、二人を待つ。本当なら結婚当初よりも仲良くなった二人に気を遣い一人で行くべきなのだろうが、さすがに一人で彼の家に行くのは憚られた。弟たちには申し訳ないとは思うが、行きだけでも我慢して貰おう。
綺麗に着飾った嫁と、そんな嫁を優しい目で見つめる弟の姿に複雑な想いを抱きつつも、段々と距離を縮める二人の姿に良かった、とも思う。
それでもやはり、嫁を目の前にするとついつい嫌味を言ってしまうのだが。
会場に入り、弟夫婦と行動を別にすると、もうすっかり行き遅れと呼べる年齢になってしまったわたくしだが、それでも男性から声が掛かる。
話をするのは嫌いではない。だけど、どの方もこれという印象はなく、やはりわたくしはもう結婚などできないのかもしれないと思い、ため息を零しそうになった。
少し気分転換に庭を歩こうと思いつき、わたくしはこっそりと会場を抜け出して、懐かしい侯爵家の庭を一人で歩く。
庭は昔と変わらずによく手入れされて、とても懐かしい気分になった。昔はよくこの庭を、レオに手を引かれて歩いたものだ。懐かしくて愛おしい、昔の思い出がここには詰まっている。
弟が生まれてからは、わたくしと弟とレオと、三人で手を繋いで歩いた。庭でレオがヴィリーに剣の稽古をつけて、わたくしはそれを眺めて。稽古が終わったあとは三人で仲良くお茶を飲んで、笑い合った。
なんて懐かしい…と思いながら歩いていたのがいけなかったのか、背後から聞きたくない、懐かしい声が掛けられた。
「とても懐かしいな。よく君とヴィリーと一緒にここを歩いた」
その声に思わず振り返ってしまったわたくしはきっと愚かなのだろう。まだわたくしは彼が好きなのだ。だから、体が勝手に反応してしまう。
「レオ…」
今日の主役がなぜこんなところに。
そう思う気持ちと、久しぶりに近くて見れた彼の姿に胸がドキドキとして、思わず見惚れてしまう。
輝く金色の髪も、鮮やかな紅い瞳も、計算しつくされたセットされた髪形も、騎士らしくがっしりとした体格も、何もかもが懐かしくて愛おしい。
会いたくなかった。けれど、本当はずっと逢いたかった。
───わたくしの大好きな、ひと。
「久しぶりだね、アリーセ」
「ええ…そうね」
久しぶりに会った彼になんと言えばいいのか、わからない。
彼に会う気なんてなかった。ただ、遠目から彼の姿を見れればそれでいいと思っていた。いや、彼の姿を見ることすら、わたくしには罪だと思っていた。
胸がドキドキと高鳴り、普段嫁に対してはよく回る口も、レオを目の前にした緊張で、すっかりと仕事を放棄してしまっている。
こんなの、わたくしではない。わたくしはもっと、可愛げのない女なのに。
「君も風に当たりに?」
「……そんなところよ」
「私もだ。奇遇だな」
「そうね…」
当たり障りのない言葉しか返せない。
本日の主役がこんなところにいていいのかと思うのに、それすら口に出せない。
どうやらわたくしは自分で思っている以上に緊張をしているようだ。
「今日は来てくれて嬉しかった。君の顔を久しぶりに見ることが出来て嬉しく思う」
優しく微笑んでわたくしを見つめるレオに、やめて、と叫びたくなった。
そんなことを言われたら期待をしてしまう。
まだ、レオがわたくしのことを好きでいてくれると。
そんなこと、あるはずがないのに。
「アリーセ、私に君にずっと謝りたかった。十五年前のあの時、君を傷つけたことを。だが私は今も昔も変わらず、君が好きだ。信じてほしい」
「……いい加減にして」
きっと彼はわたくし以外の女性にも同じことを言っているに違いない。
彼が会場に現れてからずっと見ていた。彼が多くの女性に囲まれているところも、その女性たちに優しく振る舞う姿も。
ずっとずっと、見ていた。見たくないのに、ついつい彼を見てしまう。会場を抜け出したのは、そんな彼の姿を見るのがつらくなったからでもあった。
「アリーセ?」
戸惑ったようにわたくしの名を呼び、わたくしに触れようとする彼の手をわたくしは思い切り振り払った。考えてのことではない。体が勝手にそう動いていた。
「いい加減にしてちょうだい!」
「アリーセ。あの時のことを怒っているのか? それなら誤解なんだ」
「わたくしに触れないで!」
そう叫んだわたくしを、レオは傷ついた目で見つめた。
そんな顔をしてないでほしい。まるでわたくしが悪いかのようではないか。
わたくしは悪くない。それに今更謝られても、好きだと言われてももう遅いし、わたくしには彼のその言葉が信じられなかった。
「あなたはいつもそうだわ。心にもないことを平気で口にする、最低な人だわ」
「だから、誤解だと言っているだろう。私の話を聞いてくれ」
「嫌よ! あなたの言い訳なんて、聞きたくないわ! わたくしの前から消えて!」
わたくしの口から勝手に出る言葉は可愛くない言葉ばかり。だけど、これでこそわたくしらしい。
一度口から零れ落ちれば、あとはするすると言葉が次から次へと出てくる。
「アリーセ。私が愛しているのは、君だけだ、信じてくれ!」
「『信じてくれ』? どの口がそれを言うの? そう言いながら、今まで散々色々な方々と遊び歩いていたくせに。おかしくて涙が出そうだわ」
「それは君が私のいう事を信じてくれないから…」
「まぁ、わたくしのせいにするの? わたくしを揶揄うのもいい加減にして。わたくしはあなたの都合の良い女には決してならないわ」
「君を都合の良い女にしようと思ったことは今まで一度もない」
「嘘ばっかり。あなたはいつもそう。どうせ他の方にも同じようなことを仰っているのでしょう」
「違う!」
「いいえ、違わないわ。…あなたは勘違いしているようだからはっきり言うけれど、今回、あなたの出席する夜会に参加したのは、ヴィリーがどうしても、と頼み込んで来たからよ。ヴィリーの頼みでなければ、参加しなかったわ。あなたの顔なんて見たくないもの」
「アリーセ…」
「わかったかしら。もう今後いっさいわたくしに関わらないで」
フンと顔を背け、わたくしはくるりと後ろを向いて歩き出す。
言いたい事が言えてすっきりした。
───そのはずなのに。
わたくしの目からぽろぽろと涙が零れていく。
どうして?
…そんなの、簡単なことだ。わたくしは彼を傷つけたことが哀しいのだ。それに、何一つ素直な言葉を言えていない。
今でも好きだと、愛していると言われて嬉しかったくせに、その事が伝えられない。同じ言葉を返せない。
信じられないから、というのも勿論ある。けれど、それ以上にわたくしは自信がないのだ。わたくしよりも若くて綺麗な子は他にもたくさんいる。そんな中からレオがわたくしだけを選ぶなんてことがあるはずがないと、思っている。
結局、わたくしはただ臆病なのだ。
愛される自信も、彼に素直な気持ちを伝える勇気もない。
臆病で逃げてばかりのわたくし。だけど、この気持ちを捨てることもできない。
苦しい。
今までは弟を立派に育てなくてはと、それだけに集中していれば苦しさを紛らわせることができた。だけどもう弟は立派にやっていけている。可愛い嫁すら貰って、今はとても幸せそうだ。もうわたくしができることなど、なにもない。
もうこの苦しさから逃れる術を、わたくしは持っていない。
でもきっとこの苦しさはわたくしが今まで散々逃げてきた報いなのだと思う。
だから、受け止めなくては。苦しくて辛くても、受け止めなくてはならない。
そのために、今だけは泣かせてほしい。
わたくしは近くを歩いていた使用人に弟への伝言を頼み、一人で家に戻り、部屋で静かに涙を零した。
好きな人に好きだと言える勇気が欲しい。
振られても、あなたを好きだと言って、相手の幸せを願える強さが欲しい。
世の中の人はどうやって恋を終わらせられるのだろうか。
指南書があるなら、是非とも欲しいと強く思った。
それからしばらくの間は平和な日々を過ごした。
嫁と言い合いをし、ヴィリーに話しかけて。
レオのことは考えないようにしていた。結局わたくしは臆病で、レオのことを考えると胸が痛んで仕方なくて、考えないようにしようと思ってもついついあの日の彼の言葉を反復してしまって。
『今も昔も変わらず、君が好きだ』
『私が愛してしるのは、君だけだ』
ずっと頭の中に響くレオの台詞を思い出すたびに胸が疼く。
嬉しかった。わたくしも、とその場で言えたらどれほど良かったか。
だけど臆病で意地っ張りなわたくしにそんなことを言えるはずもない。
ため息ばかりが零れてしまう。
「アリーセお義姉さま、今からレオさまがこちらにお見えになられるそうですわ」
何度目になるかわからないため息を零した時、嫁が戸惑った顔をしてそう知らせて来た。
嫁の言葉を理解するのを、頭が拒む。ようやく理解でき、急いで逃げようと玄関へ向かった時、扉が開き輝く金髪の男が顔を覗かせた。
手には大きな薔薇の花束を持ち、わたくしを見て輝く笑顔を浮かべ、わたくしに跪く。
「突然押しかけて申し訳ない。どうしても君に、私の気持ちを伝えたくて」
「……わたくしに?」
赤い薔薇の花束をわたくしに差し出し、真剣な表情をしてレオは言う。
「君が好きだ。君を愛している。どうか私の気持ちを受け取って欲しい」
熱の籠った眼差し。ベタ過ぎる台詞。慣れた言い回し。
きっと他の人にも同じ事を言っているのだろう。
レオの言っていることなど信じられない。いいえ、信じて裏切られるのが怖い。
そう思うのに、それに反して胸がドクドクと激しく高鳴り、熱い。
きっと今のわたくしはみっともない顔をしているに違いない。そんな顔を彼に見せてしまっていることがとても情けなくて恥ずかしい。
「な、なにを今さら…あなたの言うことなんて信じられないわ。それにわたくしに関わらないでと言ったはずよ。もう来ないで」
レオから顔を背け、彼に背を向けて屋敷の奥へ行こうとしたわたくしに、彼ははっきりと言った。
「私は絶対に君を諦めない。絶対に、だ」
彼の台詞に思わず足が止まりそうになる。だけどわたくしは意地でそのまま歩いた。
今の台詞なんて聞いていません、という風を装って。
歩いている途中で嫁とすれ違う。彼女はわたくしを心配そうな顔をして見つめていた。
情けない。嫁にそんな顔をされるほど、わたくしは情けない顔をしているのだろう。
なんとか離れの自室まで戻り、部屋に入ったわたくしは服が皺になるのも気にせずその場に座り込んだ。
顔が熱い。そして同時にレオに言ってしまった事への後悔がどっと押し寄せた。
なぜもっと可愛い言い方をわたくしは出来ないのだろう。あんな可愛くない言い方しかできないのだろう。
レオは諦めないと言った。けれど、きっとわたくしの態度に呆れているに違いない。それにこんな可愛げのない女よりも、もっと可愛らしい子が彼にはお似合いだ。わたくしは彼に相応しくない。
だからわたくしは彼を拒絶して、彼には彼にぴったりの可愛らしい子と結婚するべきなのだ。それが彼にとって幸せであるはずだ。きっとわたくしを好きだと言ったのは、一時の気の迷いに違ない。いやそうでないと、困る。
そうでないと、わたくしはきっと今に彼を拒絶できなくなってしまう。
彼の幸せを考えるのならわたくしは身を引くべきだ。だけど、わたくしはまだ彼が好きなのだ。好きな相手に求められて嬉しくない女などいるわけがない。
だからどうか、わたくしをもう惑わせないで。
ここにはいないレオに、わたくしは心の中で願った。
しかしわたくしの願いに反して、レオは諦めなかった。
毎日のようにわたくしを尋ねて、そのたびに大きな薔薇の花束を持ってきて。
わたくしが受け取らない時は嫁が代わりに受け取り、屋敷にその花束を飾ってにこにこと「綺麗な薔薇ですわね、お義姉さま」と言ってくる。まるで早く素直になればいいのに、と言われているようで、なんと返せばいいのかわからなくなる。
そんなわたくしを嫁はにこにこと見つめるのだ。とても居たたまれない。
レオの訪問が日課と化したある日、わたくしはとうとうその花束を受け取ってしまった。嫁に「困りましたわ…もう花を飾るところがありません」と言われてしまったから、仕方なく、だ。
仕方なく、渋々といった風に受け取ったのに、それでもレオは花束を受け取ったわたくしを見て嬉しそうに笑った。昔、わたくしが初めてレオに贈った刺繍入りのハンカチを見た時と同じ笑顔だった。
普段は大人っぽい彼が、わたくしの前では少年のように笑う。こんな嬉しい事があるだろうか。
その笑顔を見て、もう限界かもしれないと思った。
もうすぐわたくしは彼を拒絶できなくなる。そしてきっと…。
小さく頭を横に振る。そんな弱気でどうするのだ。彼のために身を引くと決めた。それを覆したりはしない。
レオにはわたくしよりもお似合いの子がいるはずだ。だから早くわたくしへの想いを断ち切って貰わねばならない。
それはわたくしにとって身を刻むように痛みを伴うこと。だけど、やらなければならない。
はっきり言うのだ。わたくしはあなたの気持ちに応えるつもりはない、と。
それがどれほどわたくしにとって辛い事だとしても、言わなくてはならない。そう決意をした。
翌日、いつものようにやって来たレオと共に伯爵家の庭を散歩することにした。
嫁や使用人たちはわたくしたちに気を遣って、二人きりにさせてくれる。今はその気遣いがとても有り難い。
「懐かしいな。よくこうして二人で庭を歩いた」
「ええ、そうね。わたくしはレオに手を引かれて、一緒に歩いて…」
「小さい頃の君は『お兄さま、お兄さま』と私の後ばかり追いかけて、とても可愛らしかった」
「そうだったかしら…」
随分昔のことを言われて気恥ずかしくて、覚えていないふりをした。そんなわたくしの心境を知ってか知らずか、レオはとても愛おしそうな笑みを浮かべて「そうだよ」と頷いた。
「あの頃の君はとても可愛らしかったけれど、今の君はとても綺麗だ。立派な淑女になった」
「レオ…」
歯の浮くような台詞も、レオが口にすればとても様になる。彼だからこそ、歯の浮くような台詞も許されるのだ。彼以外の者が口にすればきっと鳥肌が立っただろう。
彼の賛辞を嬉しく思う。だけど、これから口にすることを考えれば、その賛辞すら辛く感じてしまう。
「君が好きだ、アリーセ。君が私のこの言葉を信じてくれるまで、私は何回でも君に言おう」
「レオ…」
嬉しい、わたくしも。
そう答えられたらどれほど気が楽になるだろう。きっとレオも喜ぶだろう。
だけど。
「レオ。わたくしは、あなたの気持ちに応えられない」
「…なぜ?」
「考えてもみて? わたくしはもう立派な行き遅れよ。おばさんなのよ。そんなわたくしではあなたに相応しくないわ。あなたにはもっと若くて、わたくしよりも素直で可愛らしい子がお似合いだわ」
そう、例えば、アルベルティーナのような。
ああいう子こそが、彼には相応しい。彼を支える妻として理想だろう。
そう考えて、ああそうか、とわたくしは自分の気持ちを理解できた。
嫁にキツイ言い方ばかりしてしまっていたのは、きっと嫉妬もあるのだ。彼女がわたくしにはないものをたくさん持っていたから。
「世間ではわたくしのような人のことを『あらさあ』と言うそうよ。そんな相手が花嫁なんて、おかしいでしょう?」
だからわたくしを諦めて、と自嘲した笑みを浮かべてレオを見つめて言おうとして、わたくしはその言葉を飲み込んだ。
レオが見たこともないほど、怖い顔をしていたからだ。
「それが君の考えなのか?」
「え…ええ、そうよ」
いつもと違うレオの様子にわたくしはたじろぐ。
「…なるほど。つまり、君は私が君以外の若い女性と結婚した方が良いと、そう言うんだな?」
「………っ」
わたくし以外の誰かとレオが仲良く寄り添う場面を想像して、胸が痛んだ。だから即答が出来なかった。
わたくし以外の誰かとレオが寄り添う姿なんて見たくない。レオの隣にいるのはわたくしがいい。だけど、わたくしでは彼に相応しくないのだ。だから、この胸の痛みは我慢しなくてはならない。
例えが胸が張り裂けそうなほど痛んでも、涙が零れても。
「アリーセ。君がどう思おうと、何と言おうと、私は自分の気持ちを誤魔化したりしない。私が望むのは君だけだ」
「レオ…」
「あの時、私は君の気持ちを考えることが出来なかった。君に見せつけるように、君が傷つけばいいと思って、色んな女性に手を出した。そして私の望み通りに君が傷ついた姿を見て、私は後悔した。取り返しのつかないことをしてしまったと」
涙で前が見れない。わたくしの表情をレオが見れないように俯いた。
「君を諦めようと何度も思った。だけど出来なかった。だから、自分の気持ちに素直になろうと決めたんだ。アリーセ、私は君を愛している。昔からずっと、だ」
「……」
レオも、わたくしと同じ気持ちだった?
何度も諦めようとして、でも出来なくて苦しんでいたというの?
「アリーセ、顔を上げてくれないか」
「……いや。こんな顔、見られたくないもの…」
「私は見たい。どんな君の顔も、どんな君も」
「レオ…」
「アリーセ。君の本当の気持ちを教えてくれないか。もし君が私以外に誰か好きな人がいるのだとしたら…」
「諦めてくれる?」
「まさか。君を絶対に振り向かせて見せる。私は存外しつこい男だよ。君が是と言う間で、どこまでも君を追いかける」
「……しつこい男は嫌いだわ」
「そうか。だけど今に好きになるさ」
「自信家ね…」
「昔からだろう?」
「そうね…あなたはそういう人だったわ」
自信家で、負けず嫌い。だけどその分誰よりも努力をしている人。
そんな彼にわたくしは惹かれたのだ。
「アリーセ。答えは?」
「…答え」
言ってもいいのだろうか。彼の気持ちに応えてもいいのだろうか。
こんなわたくしでいいのだろうか。若くもなくて可愛らしくもない、こんなわたくしで?
「…わたくしで、いいの?」
「君がいいんだ」
返ってきた即答に、わたくしはもう無理だ、と思った。
こんな風に望まれて拒絶できるほどわたくしは意思が固くない。
「君は、私をどう思っている?」
「わたくし、は…」
……わたくしも、レオが好き。
小さく呟いたその言葉はしっかりと彼の耳に届いたらしい。
彼がとても嬉しそうな声音でわたくしの名を呼んだ。わたくしは思わず顔を上げて彼を見つめると、彼は見たこともないくらい輝いた笑顔を浮かべてわたくしを見つめていた。
「…やっと、君の気持ちが聞けた。もう二度と、君を離さない」
「レオ…」
わたくしをぎゅっと抱きしめたレオの、懐かしい温もりに強張っていた体の力を抜いた。
正式にレオはわたくしに婚約を申し込んできたのはその数日後だった。
レオのご両親であるハラヴァティー侯爵ご夫妻はレオが身を固める決意をしたことにとても喜んだのだという。その相手がわたくしだと聞いてなお、喜んだのだとか。
一方の伯爵家も、わたくしの婚約に喜んだ。今は領地の奥に住んでいる父も、わたくしの婚約にほっとした表情を浮かべた。表情のあまり変わらない弟ですら、わたくしの婚約の話を聞いて笑みを浮かべた。そして誰よりもわたくしの婚約を喜んだのは、弟の嫁であった。
「おめでとうございます、お義姉さま! 良かったですわ、本当に良かった…!」
自分の事のように喜んだ嫁に、わたくしは珍しく素直に「ありがとう、アルベルティーナ」と微笑んだ。すると嫁はぎょっとした表情を浮かべた。まったくもって失礼な嫁だ。
…いや、今までのわたくしの態度もいけなかったのだろう。そう思うことにして、今回の件は流した。
それでも嫁に対する嫌味は止められなかった。癖になってしまっているようだ。これは直すのが大変そうだが、嫌味を言わなくなったら逆に嫁に心配されてしまいそうなので、このままで行くことにした。
なんだかんだと言って、嫁もわたくしとの言い合いを楽しんでいる節があるのだ。
それからも色々なことはあったが、わたくしは無事にレオとの挙式をあげることできた。
たくさんの人々に祝福して貰い、わたくしはとても幸せだった。
嫁はわたくしのウエディングドレス姿を見て涙ぐんでいた。「とてもお綺麗ですわ、お義姉さま」と惜しみない賛辞を贈ってくれた。
わたくしが着ることに決めたのは、嫁が選んでくれたドレスであった。地味なドレスだと文句を言ったが、試着してみたら思いの外綺麗だったのだ。嫁のセンスは決して悪くなかったらしい。
わたくしとお揃いのタキシードに身を包んだレオと並び立つ。
レオはわたくしの姿を見て目を細めた。
そして小声で「綺麗だよ、アリーセ」と囁く。
思わず顔を赤くしたわたくしを、レオはとても愛おしそうに見つめている。
なんだか悔しくて、何かひと泡吹かせてやりたい、と思った。そして考えついたのが、ずっとレオにはっきりと言えずにいたひとことであった。
わたくしはレオの耳元に顔を寄せ、小さな声で、だけどはっきりと彼に告げる。
「昔も今も、ずっと変わらず大好きよ、レオ。愛しているわ」
わたくしらしくない台詞だ。だけど、たまにはわたくしらしくない事を言っても罰は当たらないだろう。
レオは目を見開いてわたくしを見つめ、そして珍しく動揺したように顔を手を当てていた。
耳がほんのりと赤くなっている。どうやらわたくしの作戦は成功したようだ。
それに満足し、わたくしはふふ、と笑った。
「小姑さまの婿探し!」のお義姉さま視点のお話でした。
ひたすら切ないすれ違いの話を目指したのですが、達成できているでしょうか。
お義姉さま視点にすれば企画の項目全部達成できたんじゃない!?と終わってから気づき、悔しかったので書いてみました(笑)