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第九首 春の夜の

季節外れもいいところだ、と言われるような話を投稿してしまいました。

【周防内侍】

春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

                           

==============================================


「綺麗ですねえ」

 和寿の隣に腰を下ろした女は、首を斜め上に傾け言った。そこには盛りを迎えた桜の花が、月夜の光を受けて何とも幻想的な色に染まっていた。桃色とも、白ともつかない微妙な色合い。さらに、公園をぐるりと取り囲むように立ち並んでいる外灯の緑の光が加わり、どこか妖しげな美しさも演出されていた。

「ここでの新歓も、もう三十年ほども続いているそうだ」

 和寿の言葉に、女は「へえ、そんなに」と目を丸くする。その仕草が、どこか小動物を思わせるような愛くるしさを湛えていた。

 和寿の勤める会社では、毎年の新入生歓迎会(通称『新歓』)をこの花御(はなみ)第一公園で開催していた。夜桜と洒落込んで、飲んで食べての実に賑やかな会である。和寿も、かれこれ数えると十年目の参加になっていた。和寿の隣で桜を見上げる彼女は、和音由衣子(かずねゆいこ)という今年に入社したてのピカピカの新人社員であった。

「伊月先輩、一杯どうぞ」

「あ、ああ。どうも」

 ほっそりとした手に缶ビールを持ち、紙コップにゆっくりとビールを注ぐ由衣子の仕草を、伊月和寿(いづきかずひさ)はじっと見つめていた。紙コップの水面に、白い泡が音もなく浮き出てくる。

 それからの時間、和寿と由衣子は何ということもない、取りとめのない会話で時間を潰した。新入生らしく緊張していたのか、由衣子はだいふ酒を飲んでいたようであった。頬をほんのりと赤色に染めながら、ふにゃりとした笑顔を浮かべて和寿の話にやや大げさな相槌を打っている。

「う、ふわあ。気温も温かいし、何だか眠くなってきませんか」

「眠ろうにも、前の連中はどんちゃん騒ぎだからなあ」

 苦笑を浮かべる和寿の前方では、新人社員の青年数人が、一発芸と称して最近テレビでよく見かけるお笑い芸人の真似事を披露していた。これがなかなかに似ているらしく、課長や部長をはじめ事務員の女性社員たちまで大口を開けて笑い転げている。仕事と楽しみをきっちりと分けるところが、和寿の職場の良いところでもあった。

「ああ、ほんとだ。ふふ、西條(さいじょう)くん、意外にあんなこともできるんだ。すこくクールそうに見えたのに」

 意識はまだあるのだろうが、やや呂律が乱れているようだった。両の目が、瞼を閉じたり開いたりをしきりに繰り返している。

「そんなに眠いのなら、膝枕でもしてやろうか」

 和寿の不意の一言に、由衣子はとろんとしていた目を瞬時大きく見開き、自分を見下ろしているひどく真面目な表情の男を見上げる。和寿は、ふと彼女から顔を背けると「冗談だよ。真に受けるな」とぶっきらぼうに告げた。桜の花びらが一つ、光の加減によっては顔を赤らめているようにも見える男の肩にはらりと落ちる。その小さな花片をそっと摘まむと、由衣子は可笑しそうにふふ、と頬を緩めた。

「いいんですか。そんなこと言うと、伊月先輩と私の間に変な噂が立ってしまいますよ」

 彼女もまた、冗談のつもりなのだろうか。本気ともノリとも取れるような口調だった。そして、和寿の肩から摘まんだ花びらをまだ半分ほど酒の残った自身の紙コップに浮かべると、和寿の肩にそっと頭を預け、たちまちのうちに軽い寝息を立て始めた。

 少しして、酒の匂いをぷんとさせた久瀬(くぜ)課長が和寿の元へと危なっかしい足取りでやって来た。和寿に寄りかかる由衣子を見ると、常に冷静沈着な彼らしくなく――いや、酒のせいで足をふらつかせている時点で、既にいつもの彼らしくないと言えばそうなのであったが――両の目をいっぱいに見開いた。

「おいおい、伊月くん。いつのまに新人くんとそこまで仲良くなっていたんだ」

「大げさに言わないでくださいよ、久瀬課長。随分と眠そうだったんです、彼女」

「春の気に誘われて、というところか」

 妙に古風な表現をすると、久瀬は由衣子が寄りかかっている反対の位置に腰を落ち着かせ、盛んに花びらを散らせている桜の木を見上げた。

「ロマンチックだなあ。いつの時代も、花と夜は人を幻想の世界へと引き込ませるものだ」

「随分と文学的なことを言われますね」

「こう見えてもな、私は文学者なのだよ。伊月くん」

 やはり、久瀬も酒の影響をふんだんに受けているようだった。普段は決して見ることのできない上機嫌な様子の彼に、和寿は珍しい物でも見るような眼差しを送る。

「夜と言えばなあ。確か、一首こんな歌があるんだよ」

「歌、ですか」

「あれだよ。正月によくやる、札を並べて――そうそう、百人一首だ。その中にな、こんな歌があるんだよ。“春の夜の、夢ばかりなる、手枕に、かひなく立たむ、名こそ惜しけれ”」

「お詳しいですね」

「いやいや、何のこれしき。確かな、作者の、ああ、これは忘れてしまったよ。女性がな、昔の、何と言うか、建物の中でな。まさに今のように賑やかに宴会でもしていたんだろうな。その中で、この作者も眠くなってしまったんだそうだ。“枕か何かがほしい”と呟いたんだ。すると、その当時のお偉いさんが――勿論、男のな――手をそっと作者の方に差し出して“では、これを枕にどうぞ”と言ってきたんだと」

「今ならセクハラだと訴えられかねませんね。要するに“自分と一夜を共にしましょう”と言っているようなものじゃないですか」

「はは、察しがいいな。だか、それに作者が上手く切り返したのが、今の歌なんだそうだ。“からかわないでください。春の夜の短い夢のような、戯れの手枕に体を預けてしまって、つまらない噂が立ってしまうことは、口惜しいことですから”とな」

 いつの間にか、酔いが冷めたのだろうか。月の光の差し込む桜の木を、久瀬はどこか愁いを帯びた面持ちで見つめている。

「別に、伊月くんをセクハラだとかで責めるということじゃないんだ。ただ、君たちがどういう会話を経てそのようになっているのか、少しばかり気になっただけさ。この歌のようなロマンチックな出来事がもしかしたらあったんじゃないかって、な」

 ひらりと小さく手を振ると、先ほどよりは幾分かしっかりとした足取りで、久瀬は和寿の元を後にした。そんな彼を、和寿は「鋭い人だな」と一言ぼやきながら見送る。

 そして、未だに目を覚ます気配のない由衣子をそっと一瞥する。そばに放り投げていたスーツの上着を無造作に丸めて、起こさないようにと細心の注意を払いながら彼女の頭を自身の肩から枕代わりに丸めたスーツの上へと動かした。気持ちよさそうな寝息を立てる彼女の頬に、桜の花片がひらりと舞い落ちる。淡い桃色のそれをそっと頬から払うと、和寿はその手をそのまま由衣子の頭に近づける。柔らかそうな栗色の髪を撫でようとして、ふと手を止める。小さく息を吐き出すと、その手で自身の頭をくしゃりと掻いた。微睡みかける意識の中、和寿は久瀬の語った遠い昔の恋歌に想いを馳せる。

 過ぎ行くには惜しい、短く儚い春の夜空に、桜の花びらが雪のように舞い散っていく。

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