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第七首 瀬をはやみ

今回は、今までよりも少し長いシーンになってしまいましたが、読んでいただければ幸いです。

【崇徳院】

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川(たきがは)の われても(すゑ)に あはむとぞ思ふ

                          

==============================================


 伊吹夏苗(いぶきかなえ)が故郷の家に帰ったのは、実に七年ぶりのことであった。

 大学に入学してから、卒業、就職と、自分でも思ってもいないほどにとんとん拍子に事が進んでいた。元々、独り立ちの願望が強かった夏苗は、例え就職が決まらずとも卒業後も実家に帰るつもりはなかったのだ。それが思いの他、全てが良いようにしか進んでいかなかった。このまま、もしかしたら結婚までこちらの方で――なんていう話も、まあありえないことではないなと、一人考えていたのだった。

 彼の、死の一報を受けるまでは。


 夏苗が七年ぶりに実家に顔を出したのは、実家に帰りたかったというよりは、かつての思い出の地である故郷を、再び見てみたかったからだという方が本音であった。昔と変わらない実家の玄関に足を踏み入れ、顔の皺が少し増えたように見える母とお腹の大きくなった幸せ真っ盛りの姉に顔をひょこりと出して早々、夏苗は家を後にして十七年の時を過ごした地を散策して回ることにした。

 特に夏苗の思い入れが強いのが、彼女が六年間を過ごした市立八重第一小学校である。夏苗がいた頃は、一クラス三十人程度、一学年六組ほどのなかなかの規模の学校であった。それが、町の少子化の進行のためか、今では一クラス十五人、一学年が三クラスにまで縮小してしまったのだという。グラウンドに足を踏み入れると、夏風に砂埃が舞い、視界が乱れる。遠くから、錆びたブランコが揺れるようなギイギイという音が聞こえてきた。

 小学校に背を向け次に彼女が訪れたのは、徒歩十五分ほどの距離を経た、山に入ったところにある滝の近くだった。

 木々が生い茂げ草も伸び放題の荒れた道を何とか抜けると、視界が開けそこには小さな空間がある。キャンプ用のテントを立てればそれでいっぱいになってしまいそうなほどのスペースだ。その空間で、道は途切れている。前方には、流れの激しい滝がどんと構えており、下に落ちない程度に滝の方へと近づくと、特に流れの強い日には水しぶきが顔にかかることもあった。

 ()()()。この地の人々は、滝にそんな名前をつけていた。理由は明白、滝の途中に、中から大きな岩が突如突き出しており、その岩に滝の流れがぶつかって二手に分かれてしまっているのである。水の流れが緩やかなときは、下の方で流れが一つになることもあるらしいのだが、大抵のときは二手に分かれた流れはそのまま、下方に向かって落ちていく。その様子を、まるで恋人が障害に阻まれ別れてしまったようだと言うのである。

 幼少期に母から聞いた別れ滝の由来を思い出しながら、夏苗は腰ほどにまで伸びきった草を手で払いながら、ひたすらに道を進んでいった。昔は、道を管理する団体のようなものが町人によって構成されていたが、今は人手不足でそこまで手が回らないのかもしれない。道には、人の手が入ったような形跡は一切なかった。整備されたこの道を全力で走り切っていた小学生時代を脳裏に浮かべながら、夏苗は息も切れ切れにひたすら足を動かした。

 ようやく、別れ滝の見える空間が眼前に広がった。だが、てっきり無人だと想像していた空間には、珍しく先客が居座っていた。

 居座っている、という読んで字の通り、その人物はちょうど、滝からの水しぶきがかかるであろう位置に腰を下ろしていた。洗濯したてのようなパリッとした白シャツが、背中のラインを緩く描いている。ショートカットのようなふんわりとした茶色の髪が、日差しを受けてつやつやと光っていた。後ろ姿だけでは、男か女かも判然としない人物である。

 声をかけようにも、何と言い出そうかと首を捻る。結局、先に話のきっかけを作ってくれたのは先客の方であった。

「ここの、住人さんですか」

 住人さん、という言葉に、どこか不思議なイントネーションがついている。声の高さから、先客は男であろうと想像することができた。考えれば、その背中は女性のそれと比べると少し広いようにも見える。

「え、ええ、そうです。と言っても、ここには七年ぶりくらいに戻ってきたんですけど」

「そんなに長く。外に出ていたのですか」

「はい。大学も、就職先も外だったんです」

「そうですか。では、久しく顔を見せていなかったことでしょう。ご家族も、あなたの帰りを喜ばれたのではないですか」

 地元住人よりも、標準語に近いアクセントだった。彼は、ここの生まれではないのだろうか。

「あの、あなたの方は、こちらの出身で?」

「ええ。とは言っても、僕はあなたよりももっと――中学に上るときには、転校してしまったものですから。ここには、そうですね。およそ十五年ぶりに、帰ってきましたよ」

 彼の言葉に、夏苗は思わず「え」と声を上げた。ということは、夏苗と彼は同い年という計算になりはしないだろうか。そう指摘すると、彼はこちらに背を向けたまま、「ああ、確かに。奇遇ですね」と、どこか嬉しそうに声を弾ませた。最も、顔が見えないので本当に嬉しそうなのかは定かではないが。

「僕はね、ここが好きだったんですよ。小学生のとき、親に内緒でよくここに来ていました。危ないから、森には入るなって、言われていたんですけどね」

 先ほどよりも幾分砕けた口調の彼に、夏苗も過去の記憶に想いを馳せながら話しかける。

「私も、昔はよくここに遊びに来ていました。ちょうど、あなたが今座っているあたりまで行って。滝の水しぶきが顔に当たるギリギリのところなんです。夏真っ盛りのときなんかは、よくそこから顔を突き出していました。滝の水って、川の水よりも少し冷たいんですよね」

「あはは。僕も、そんなことしていたかなあ。でもね、僕がこの場所を好きなのには、もう少し別の理由があったんです」

「別の、理由?」

「小学生のとき、僕の通っていたところでは年に一度、お正月に百人一首の大会が開かれていたんです。僕は、昔からどうも物覚えが良くなくて。苦手でした」

 彼の話に夏苗は、はっとした。八重第一小学校でも、年に一度の百人一首大会が毎年開催されていたからである。地元の小学校の中で百人一首の大会を催している学校は、八重第一小学校以外には、少なくとも夏苗は知らなかった。

「あれは、忘れもしない。小学三年生のときでした。その年の百人一首の大会で、僕はある女の子と一戦を交えました。彼女は、記憶力に優れているのか百人一首が好きなのかは定かではありませんでしたが、とても強い子で――最初の七枚は、全て彼女が取ってしまったんです。分の悪い試合だなと、子どもながらにふて腐れていました」

 懐かしむように、ゆったりとした調子で話を進める彼。夏苗は、口を挟まずにただ黙って耳を傾けていた。

「そして、次の八枚目。その首で、僕は初めて札を見つけることができたんです。彼女の陣の方に並んでいましたけど、必死に札に手を伸ばしました。でも、勿論彼女もその札を見つけていて。ほぼ、同時でした。彼女の指先に、自分の指先が触れた感触を、未だに覚えています」

 不意に、左手を上げた彼は、手のひらを太陽に透かすように高く上げた。細く美しい五本の指に、日の光が当たり影を作る。

「百人一首のルールでは、二人同時に札に手が触れた場合、自陣に札のある方が勝ちということになっています。“やっと見つけた札なのに”って、随分悔しい思いをしました。けれど、ルールはルールです。彼女は一度手を引きましたから、札を取った僕は、それを彼女の方に差し出しました。彼女は、何も言わずに札を受け取りました」

 彼の話が進むにつれ、夏苗の心臓は少しずつ鼓動を速めていく。だが、それを無理に落ち着かせるように、一度深く呼吸をした。夏苗の深呼吸のタイミングを見計らったかのように、彼もまた、一度言葉を途切らせた。

「――でも、一度は受け取ったその札を、彼女は僕の方へと差し出したんです。僕は不思議な思いで、ただその札をぼうっと眺めていました。彼女は“これは、あなたの札だから”とだけ言って、にこりと笑ったんです。

 僕は、訳の分からないまま“何を言っているんだ。これは、君の札だ。だって、そういうルールじゃないか”って、思わず強い口調で言いました。きっと、彼女が自分に情けをかけてくれているのだとでも思っていたんでしょうね。随分と、つっけんどんに言い返してしまいました。でも、彼女は静かに頭を振ると、“これは、あなたの歌だから。だから、あなたの札なの”と穏やかな顔で僕に告げたんです。その後、彼女はぽけっとした僕の手に、下の句が書かれたその札を握らせました。

 今となっては、あのときの感情はきっと――恋、だったんだろうな、って考えることができます。でも、あのときの僕は、まだまだ素直じゃない、自分の気持ちに正直になれないガキんちょでした。その後、彼女にそのときのお礼も何も言えないまま、その年は終わってしまいました」

「その札の歌を、あなたはまだ、覚えているのですか」

 震える声で尋ねた彼女に、彼は相変わらず広い背中を向けたまま、

「瀬をはやみ、岩にせかるる、滝川の、われても末に――あはむとぞ思ふ」

 それこそ、まるで歌うような口調だった。僅かに低めの声に、その歌は流れるように乗って。

「彼女と、初めてここに来たときです。百人一首で彼女と出会った後の、夏でした。あの滝を指して、彼女はこの歌について話してくれました。瀬というのは、川の浅いところのことで、せかるる、っていうのは、水の流れが岩によって止められてしまうこと。この歌は、川の瀬の流れが速くて、岩にせき止められた流れが二つに分かれてしまう。でも、その流れも後からはまた一つに戻るように、今は会えない自分の愛する人とも、いつかはまた会うことができるんじゃないかって思っている――そんな、恋の歌なんだと。そのときの彼女が、僕にはとても大人びて見えました。彼女の目には、あの、ちょっと一見変わった滝の向こうに、そんな光景が映っているのだろうかって。そう思うと、今までただの滝だと思っていたものが、何だかとても素敵で、神秘に溢れたもののように見えたんです。二十年近くが経って、あのとき必死に覚えた歌も、もうほどんと忘れてしまいました。だけど、その歌だけは、そのときの記憶だけは、今でも鮮明に残っています」

「その、女の子の名前、は」

 言い終わらないうちに、彼女は口を噤んだ。ゆらりと立ち上がった彼は、小奇麗なズボンのポケットから、何かを取り出した。そして、今まで頑なに滝の方に向けていた顔を、ゆっくりと、まるでスローモーションのように、こちらに向けて。

「勿論、覚えています。彼女も、百人一首の句が苗字に入っていましたから」

 木の間から洩れる陽の光が、彼の顔に木漏れ日となって、その表情を曖昧にさせる。でも、微かに彼は、笑っているように見えた。

「そうですよね。伊吹、夏苗さん」


「――瀬尾くんっ」

 彼の名前を呼びながら、夏苗の足は既に一歩を踏み出していた。僅か数歩の距離のはずなのに、彼のところまでが何故か遠く感じられる。つい今まで見えていて、言葉まで交わしたはずなのに、夏苗の手は彼がいたはずの空間を、虚しく掴んだだけであった。誰もいないその場所に、否、確かに彼がいたはずのその場所に、夏苗はぺたりと坐り込む。

「瀬尾くん――瀬尾、く」

 涙が、視界を歪ませる。両の拳をぎゅうっと握りしめると、爪の間に土の入った感触があった。

 彼の転校は、父親の自殺が関係していたのではないかと、もっぱら噂されていた。何でも、ギャンブルで金を使い込んでのことだったとか。そのせいで、借金取りに追われていたのではないかとか。根拠のない噂だった。だが、瀬尾真琴(せおまこと)とその母親は、まるで町人の視線から逃げるようにして、この地を去っていった。それから、十四年後。去年の暮のことだった。夏苗が、実家の母からの電話で、彼の死の一報を受けたのは。

 自殺、だったらしい。詳しい原因までは、訊かなかった。訊けなかった。ただ、まるで父親のときを彷彿とさせるような、睡眠薬の大量摂取による死因だったということだ。

 八重第一小学校を去った後の彼に、何があったのかは今となっては知る由もない。だが、夏苗の心を支配したのは、激しい後悔の念であった。小学六年生のとき、夏苗は瀬尾真琴と同じクラスになった。だが、その頃にはすでに、件の根も葉もない噂が学校中に広まってしまっていた。彼は、教室の隅の方で、誰とも言葉を交わすことなく、小さく丸くなって日々を送っていた。

 あのとき、彼に何か一言でも、話しかけていたならば。噂好きなクラスメイトに「そんなものは何の根拠もないデタラメだ」と、堂々と言ってやることができていたならば。あるいは、彼が父親と同じような運命を辿ることは、もしかしたらなかったのかもしれない。

「――ごめん。ごめん、なさい。瀬尾くん、ごめん」

 ふと、右手の拳が何かに触れた。涙でぐしゃくしゃになった顔を上げると、夏苗は目を丸くしてそれを手に取った。

「百人一首の、札」

 角が丸く潰れて、文字の書かれた面は随分と黄ばんでいた。だが、それは確かに、夏苗が八重第一小学校の百人一首大会で見たものと同じであった。

「――われても末に、あはむとぞ、思う」

 札の字を読み上げ、夏苗の我慢はそこが限界だった。堰を打ったように、溢れる涙は止まることを知らない。札に残ったほんの微かな温もりは、いつまでの夏苗の手の中に残ったままだった。



 彼女は、あるいは彼は、知っていただろうか。男女の別れを象徴するとも言われていたこの滝が、瀬尾真琴と伊吹夏苗が向き合ったその一瞬、流れを弱め、彼方下の方で別れていたそれが再び一つに合わさっていたことを。

 そして、この歌の詠み人は知るはずもなかっただろう。この歌が、遥か千年近くもの時を経て、決して逢えるはずのなかった二人の男女を、再び、一度きりだけ引き合わせていたことを。


ちなみに、今回の主人公の伊吹さんの苗字は「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣・第五十一首)の「いぶき(伊吹)」から取ったものです。

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