第六首 ちはやぶる
【在原業平】
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
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日も傾きかけた頃。人気のないバーのカウンター、その片隅で一人静かに酒を飲んでいた。もともと店内が薄暗かったうえに、女の座っていた席はことさら店の光が届き辛い場所であった。そんなところに好んで陣取っていたあたりから、まず気になった。そして、まるで「誰も来ないで」と人を避けるようなベールをうっすら纏っているように見えたところも。美貌の持ち主だったことは言うまでもない。
男は、そんな女のベールをそっと取り除くように彼女に近づいた。意外にも、女は男を拒むようなことはせず、男の話に耳を傾けてくれているようだった。
そして男は、女を外に誘った。ホテルへ、などというあまりにも軽々しい誘い文句は、勿論口にはしない。どこへでもいい、のんびりと時を過ごせるところへ、と男は告げた。女は「それならば行きたいところがある」と、颯爽とタクシーを拾った。
二人がたどり着いたのは、地元でも有名な紅葉が素晴らしいという大きな公園だった。シーズンも終わりに差し掛かろうとしており、いくらは木々からは葉が落ちていた。人はまばらだった。
男は「もう少し早い時期だったらよかったかな」と、笑いながら言った。だが、女は「え?」という表情を男に向けた。そして、「むしろ、今の時期が好きなのよ、私は」と言い残すと、公園の奥へとさっさと進んで行ってしまった。その後を男は慌てて追いかけた。
女が足を止めたのは、公園に流れる川だった。二人の向かいには、川に沿うように紅葉で色づく木々がずらりと立ち並んでいる。ただし前述したように、ここの木々も、もう半分ほど葉は落ちてしまっていた。
「ここが好きなのかい」
問うた男に、女は「そうよ」と返す。そして、「見て」と目の前の川を指で示した。
川面には、木々から離れた紅葉の葉が浮かんでいる。水面を赤く染め上げたようなその光景は、例えるならば川面に真っ赤な絨毯を敷きつめたようだと、男は思った。
男は、「きれいだね。こういう楽しみ方もできるのはここならではだ」と呟いた。正直なところ、男はこの公園にまともに足を踏み入れたのは初めてだった。
「ちはやぶる、神代も聞かず、竜田川、からくれないに、水くくるとは」
女は、ふいに言った。歌を口ずさむような調子で。しかし、どこか声に寂しさの余韻を残して。
「何だい?」
「知らない? 昔の和歌。百人一首に載っているものよ」
常識でしょ、とでも言うような口調だった。しかし残念ながら、男はその歌を知らない。だから「へえ。どういう意味の歌なんだい」と問いを重ねた。
「不思議なことが当たり前のように起きていたいにしえの神代でさえも、奈良の竜田川の流れが、舞い落ちた紅葉を乗せ鮮やかな唐紅の絞り染めにしている、こんな美しいことは起きなかったに違いない。そんな歌よ」
「絞り染めって、何だい」
男は、さらに問いを重ねる。自身の無知さをさらけ出すようで、男の口ぶりにはやや気後れしている色があった。
「布を色染めする方法の一種だそうよ。詳しくは、私もあまりわからないけれど」
女が再び解説を始めなかったことで、男は小さく胸をなでおろした。馬鹿にされるようで、内心ひやりとしていたのだ。
「君は、古典や和歌が好きなのかい」
続く男の問いに、女は「どうかしら。好きって言えるほど、知っているわけでもないの」と肩を竦めた。そのつんと澄ましたような横顔に、男はやはり魅力を感じてしまうのだった。
「でも、この歌は好きよ。昔の人って、すごいと思わない? ぱっと見た景色や心にある複雑な感情をたった三十字程度で表すんだもの」
「そうだね。僕には到底できないな」
「そうね――残念だわ」
女のその言葉に、男は思わず「え」と声を上げると、女を見つめた。どこかいたずらっぽいような、挑発的な、そして、僅かな蔑みを込めたような。そんな微笑を浮かべ、女は男を見上げていた。
「私、学のない人は好きじゃないのよ。あなたがこの景色の美しさについて一首詠んででもくれたなら、ちょっとは心揺らいだかもしれないけれど」
男の高く伸びた鼻を指先でつんと突くと、「それじゃ」とだけ告げ、女はその場を去って行った。男は女の後を追うことはせず、しばらくは遠ざかってゆく彼女の赤いコートを見つめる。女の言っていた一首を思い出そうとしたが、最後あたりの記憶はどうしても薄れている。そして彼は、紅葉の流れる川を振り返り、一つ溜息を吐いた。
川の流れに身を任せる真っ赤な秋の葉は、男の元をあっさりと去って行った女の後姿を思い出させるようだった。
掲載する和歌の順番は、百人一首に実際に載っている順番とは異なります。ご了承ください。