第五首 由良の門を
【曽禰好忠】
由良の門を 渡る舟人 かぢをたえ 行くへも知らぬ 恋の道かな
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早朝の湖には、濃い霧が立ち込めていた。目の前で舵を取る船頭の姿がようやく見えるくらいで、進行方向は深い朝霧に包まれている。
「船頭さん、無事に目的地に行けるのかしら」
声を上げたお露に、ひたすらに櫂を漕ぐ船頭は「大丈夫ですよ」とそっけなく返す。取り立て慌てたり戸惑ったりという様子が見えないことから、おそらく彼には目的地までの道筋がはっきりと見えているのだろう。
お露はふう、と小さく息をもらす。何も、朝霧に不安を抱いているわけではないことは、自分でもわかっていた。自らの行いに、言い知れぬ戸惑いや後悔の念が湧いているのであった。
「ところで、こんな朝方にどちらに御用ですか」
「え――ああ、ちょっと、ね」
「何かい、後ろめたいことでもあるんですかい」
「別に、そういう訳じゃ」
まあ、何でもいいですがね。無骨な口調の船頭はそう言ったきり、再び舵取りに集中し始めたようだった。彼に心情を見透かされたようで、お露は着物の袖を強く握る。
霧は、未だ晴れる気配がない。
時刻は、寅三つ時(現代の午前四時から四時三十分の頃)ほどだろうか。まだ日の出には早く、辺りは薄暗い。その暗さと辺りを包む濃霧が、お露の一念の不安を掻き立てる。船頭との間に降りた沈黙が、やけに重く感じられた。
「船頭さんは、もう長いこと船を漕いでいらっしゃるの」
耐え兼ねて、お露は彼の背中に声をかける。
「そうですねえ。もう、二十年近くになりますか。十七の頃から、舟漕ぎやってるんでね」
「それは、頼もしいわね」
「――不安ですかい」
「え?」
目の前の船頭が、一瞬お露に顔を向けたように見えた。頭に被った笠が、僅かに動いたように思えたのだ。
「ご安心を。ここいらは、もう何度も行き来していますから。目を瞑ってでも、お客の目的地にたどり着く自信がありますよ。あと四半刻(現代の三十分を表す)もしないうちに着くでしょうよ」
彼のはっきりとした口ぶりに、お露はひとまずほっと息をついた。無事に着いてもらわねば困る。少しの遅れも、きっと許されないのだから。たどり着く先の待ち人を想い、着物の襟元を無意識に整える。
「時々、歌を思い出します」
「え?」
唐突な船頭の言葉に、お露はつい呆けたような声を出してしまった。いや、今の言葉が船頭の発したものかすら、瞬時判別できなかった。
「歌、というのは?」
「和歌です。平安のころに歌われた」
「どんな歌なのですか」
「舟人のね、出てくる歌なんですよ――由良の門を、渡る舟人、かぢをたえ、行くへも知らぬ、恋の道かな。恋歌の一首です。私にゃ縁のないものなんですがね」
物静かな男に見えたが、船頭は案外饒舌だった。口ぶりこそ穏やかだが、まさか彼の口から恋の一首が発せらせるとは、お露は思いもしなかった。同時に、彼女は何一つ語っていないにも関わらず、彼はまるで、お露の逢瀬を見透いているかのような話をするのだった。
「その歌は、どういう情景を表しているのかしら」
「由良の門、というのは、丹後の国(現在の京都府)を流れる由良川の河口のことでしてね。まあ、河と海が接する潮目あたりは、流れも複雑で櫂を取られやすいんですよ。櫂を取られた舟は、その流れにまかされるまま、まるで川に浮かべた木の葉のように、行方もわからず進んでいく。それがちょうど、行く末も見えず翻弄される自身の恋のようだ、と歌っているわけです」
「よくご存じですね」
まるで、私のことを詠っているみたいに。皆までは言わず、お露はその言葉を飲み込んだ。その歌、この先で待つ彼に一つ聞かせてあげようかしら。寝物語にというには遅いのかもしれないけれど。
「話がすぎましたね。目的地まで、あと一息というところですよ」
船頭は、それきり口を閉ざした。お露は、彼の告げた句をまるで戒めの言葉のように、心の中で反芻する。由良の門で櫂を失った舟は、どこへと向かって行くのだろうか。
霧は、未だ晴れる気配がない。船頭の動かす櫂が水面を切る音だけが、一艘の舟が浮かぶ朝早い湖に響き渡っていた。
第五首は、ちょっと遡ってだいだい江戸時代辺りの話だと思ってください。文体や人物の口調までは、ちょっと昔感は出せませんでした。