第四首 人はいさ
【紀貫之】
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
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「このあたりも、だいぶ変わってしまったのね」
円花の言葉に、カウンター越しでコーヒーを注いでいたマスターは顔を上げる。
「こちらのご出身なのですか」
「実家が割と近所なの。ここにも、何度か来たことがあったわ」
昔の話だけど。呟いて、マスターが差し出したカップに口をつける。あの頃は苦々しさしか感じなかったコーヒーも、今ではすっかり慣れ親しんだ味になっていた。
「町並みも、ええ確かに、昔とはだいぶ変わってしまったのかもしれません」
「マスターは、あまり変わっていないように見えるけれど」
「褒め言葉、という受け取り方でよろしいのでしょうか」
軽口をたたいた円花に、パリッとした白シャツを着こなしたマスターは微笑みを返す。歳は、おそらく五十を過ぎたあたりだろう。顔や手の皺は年相応ながらに、まだ黒々とした髪やスラリとした体躯は若々しさを感じさせる。
「そう言えば、あそこの花も変わらないのね」
首を後ろに回し、出入り口を示す円花。
「ああ。外の花壇のことですか」
「ええ。確か、春辺りに毎年咲いていた記憶があるわ。何ていう花なのかは知らないけれど」
「あれは、スターチスという名前の花ですよ」
「スターチス?」
初めて聞くその名称に、円花は首を傾げる。「円花、なんて名前だから、花が好きなんじゃないの」と昔から常々言われていた彼女であるが、残念ながら円花には花の知識などほぼ皆無といって等しかった。
「あなたの言った通り、スターチスとは三月から五月あたりの春にかけて咲く花です。リモニウムの別名でもありますね。スターチスは乾燥させても色落ちがないことから、ドライフラワーによく用いられているそうです」
「お詳しい。マスターが植えられたの?」
「植えたのは、確かここの初代のマスターだということです。彼のお気に入りの花だったようで、代々引き継がれているのです。今は、私があの花のお世話をしています」
「何だか、素敵な話」
「先代のマスターから聞いたのですが、スターチスには“変わらぬ心”、“途絶えぬ記憶”といった花言葉があるそうです」
「それは、スターチスの、その色が変わらないっていう性質からなのかしら」
「それも一つあるのかもしれませんね。一説によると、ギリシア語の“止める”という意味の言葉に由来しているそうです」
「へえ」
マスターの花言葉講座を耳にしながら、円花は皺の刻まれた彼の左手をちらりと見やる。かつてその薬指にはめられていた指輪は、今はついていない。そのことについて言及したい思いを抑え、円花はふっ、と息をついた。
昔と変わらない、と言ったのは何も容姿のことに限らなかった。聞いていてどこかほっとする深く低い声も、ふいに笑ったときに目元にできる笑い皺も、彼の淹れるコーヒーの香りも。彼は昔と何も変わらない。そして、円花が密かに彼に寄せている想いも。
円花が初めてここを訪れたのは、十歳の春だった。そのときのマスターは、確か二十代後半。まだ雇われマスターの頃だった。幼心ながらに、彼に恋焦がれる自分がそこにいた。彼の左手薬指に光る指輪の意味も、ろくに知らないまま。
あれから、もう二十二年の月日が過ぎた。奇しくも、このカフェの入り口の花壇に咲くスターチスの花言葉のように、円花が彼に寄せる想いが変わることはなかった。今までも、そしておそらくこれからも。だが、彼は彼女の秘めた恋心に気づいてはいまい。中学卒業とともにこの街を離れるまで密かに店に通い詰めていた彼女も、彼にとっては単なる常連の一人にすぎなかっただろう。それでいいのだと思う一方、叶わないだろう片思いを続ける自分を寂しく思う気持ちも、ないと言ったら嘘になる。
「ごちそうさま」
注文した分の料金をカウンターに置き、円花は席を立つ。「またお越しくださいませ」という決まりきった彼の営業文句を聞きながら、外に続くドアへと向かう。ノブに手をかけドアを押すと、来たとき同様、ドアベルがちりんと軽やかな音を鳴らした。
「――貴女のほうも、お変わりないようで」
はっ、と後ろを振り返る。同時に、店のドアはぱたりと閉じられた。「オープン」という掛札のかかったドアをしばらく見つめながら、円花はふいに泣きたくなるような気持が込み上げてきた。ドアに背を向け空を見上げると、眩しいほどの日の光が目にささる。
次にここに来たときは、あのことをきいてみてもいいのかもしれない。昔彼の左手にはめられていた指輪のこと。果たして彼は、答えてくれるのだろうか。
口元に微かな笑みを湛え、円花は一歩踏み出した。花壇に咲いた鮮やかなピンク色のスターチスは、昔と変わらずそこに咲き誇っていた。
店のドアを開けた久幸は、小さくなる彼女の後姿を見送ると、足元の花壇に目を落とす。彼女が昔ここを訪れていたときと変わらないスターチスが、黙って彼を見上げているようだった。花壇の土にささっている小さな白のプレートをそっと抜き、彼はそこに書かれた文字を目で追う。
「変わらなかった。昔のままだったよ、彼女は」
呟き、そのプレートを再び花壇に戻す。踵を返した久幸は、店の中へと姿を消した。彼の手にしていたプレートには、初代のマスターが不変を象徴する花に込めた想いが綴られていた。
――人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける――
第三首、第四首と、花続きで書いてみました。変わりゆくものと、変わらないもの。同じ花を用いても、対象のキーワードをもつ物語ができたなと思いました。