第二首 春過ぎて
【持統天皇】
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
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「もう、夏が来るわねえ」
彼女の隣を歩いていた彼女の母親が、ふいにぽつりと呟いた。
「どうして、そう思うの?」
たずねた彼女に、母親はふわりと微笑みかける。
「ほら、あそこに洗濯物を干しているのが見えるでしょう。真っ白な布を干している」
言われて、彼女は遥か前方にそびえる青々とした緑の山に目を凝らす。そのふもとに、確かに白い布らしきものがはためいているのが見えた。
「あれを見て、どうして夏だって感じるの?」
「小倉百人一首は、知っているかい? そう、百個の和歌が収められている歌集だよ。その中にね、こんな歌があるんだよ――春過ぎて、夏来にけらし、白妙の、衣干すてふ、天の香具山」
「聞いたことがあるわ。でも、どういう意味なの?」
「いつの間にか、春が過ぎて夏がやって来たようだ。夏になると、真っ白な衣を干す天の香具山に、衣が翻っているのが見えるからだ。そんな意味だよ」
「その、天の香具山に白い衣が干されると、夏だって感じるのかしら」
「あの山と、ふもとの白い洗濯物を見てごらん。青々とした山の緑と、はっとするような布の白さ。そのコントラストがとても美しいんだよ。白さがよく映えているだろう」
母親の言葉を受け、再び前方に目を向ける。若草色に萌える山の緑に、洗い立てのパリッとした白い布がはためいている。確かに、山の緑が純白の布を際立たせているし、その白さがあるからこそ、山々の青さもまた、より一層引き立てられているように見える。
「あの山の青々とした緑が、夏の気配を感じさせるのね」
「そういうことさ」
「洗濯物で季節を感じるなんて、今までは考えたこともなかったわ」
「現代に生きる者は、日々に忙殺されてのんびりと周囲を見渡すことができなくなる。でも、全てを放り出してゆっくりと回りを眺めると、日常のあちらこちらに、四季折々の素敵な風景が広がっているものなんだよ」
「もう少し早くに、気が付きたかったわ」
「次の時のために、覚えておくといいよ」
言って、母親はしわくちゃの手を彼女の頭に置いた。四十代辺りまでは優に母親を越えていた彼女の背丈も、七十代に突入した今では九十代の母とそう変わらなくなってしまった。けれど、彼女の頭によく手を置くその仕草は、今も昔も同じだった。
「私たち、どこまで行けばいいのかしら」
「さあねえ。とりあえずは、あの天の香具山を目指せばいいんじゃないのかい」
白い衣の映える山を指し、母親は顔中をしわくちゃにして笑った。死してなお、最愛の娘と共にいられることが、とても嬉しいと言わんばかりに。
そうね。じゃあ、あの天の香具山を目指しましょうか。その山が果たして天国なのか、それともまた別の世界なのかも分からないまま、彼女と彼女の母親は、互いに皺だらけの手と手を取り合い、ゆったりとした足取りで遥か彼方の山を目指す。穏やかな初夏の風が、一組の母と娘の歩く草原を静かに吹き抜けた。