第十首 しのぶれど
いつぶりの更新だろうか。
【平兼盛】
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
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真冬の空気を切り裂くような、鋭いホイッスル音が美冬の耳に届いた。思わずびくりと両肩を上げ、首をめぐらせる。
高校生活二年目の、年内最後の授業が終わった日だった。明日からは短い冬休みだ。来年の同じ日には、「明日も午前授業で模試だ」とげんなりしながら帰宅することだろう。年末年始にのんびり羽根を伸ばせる冬休みも、高校生活では今年までということだ。
美冬が足を止めたのは、グラウンドのすぐ横だった。ユニフォームやジャージを着込んだ生徒たちが、白い息を吐きながら練習に勤しんでいたのだ。こんな寒空の下でお疲れさまです――美冬は誰をねぎらうわけでもなく、フェンスに向かって小さく頭を下げた。
「何だなんだ。こんな寒い中で彼氏でも待ち伏せしているのかな」
軽快な声が後ろから飛んできた。ひょろりと背の高い、ジャージ姿の男がへらへらした笑みを浮かべながら美冬に近づくところだった。
「田所先生。それ、セクハラですか」
「何だよ、今時の子はちょっとからかっただけですぐにセクハラだ何やら言いがかりをつける。先生の心臓はいくらあっても持たないよ」
ひょいと肩を竦め、田所はふさふさの髪を掻いた。口元には吸いかけの煙草を挟み、ジャージの胸元に灰がぱらぱらと落ちる。
「先生、校内は禁煙厳守のはずですが」
「あ、やべ」
「やべ、じゃないですよ。立場が逆ですよね、普通は煙草を隠れて吸っている生徒を、教師が見つけて指導するものです」
「煙草を隠れて吸う生徒がいる前提なのかよ」
田所はからりと笑って、携帯式の灰皿に吸殻をねじ込んだ。灰皿は懐中時計のような丸い形で、メタリックなデザインは常時とぼけたような表情の田所にはどこか不釣合いだった。蓋の表面に刻まれたローマ字に、美冬はふと目を留める。
「先生。その灰皿の表面の英字、どういう意味なんですか」
「うん? よくこれが灰皿って分かったな――ああ、この“XL”な。何だと思う」
いたずら小僧のような笑みを見せる田所。美冬が難しい顔で「分からない」と降参するのを期待しているような表情だ。その期待に応えるわけではないが、美冬にはとんと検討がつかなかった。洋服のサイズ表記くらいしか思い浮かばないが、そんなものを携帯灰皿の表面に刻む意味なんてない。素直に首を横に振って、「分かりません」と告げた。田所はにやと片方の口角を持ち上げると、
「これはな、ローマ数字で“四十”を表すんだ」
「四十? なんで四十なんですか。あ、先生今年で四十歳になるとか」
「なんだと! どうして分かった」
「え、本当ですか」
田所は両目をこれでもかというほど見開くと、続いてがっくりと肩を落とした。
「俺、そんなに老けて見えるかな」
「いえ、今のはてきとうに言ってみだたけで。むしろ意外でしたよ」
実際、サッカー部の生徒(田所は男子サッカー部の顧問なのだ)と意地の張り合いみたいに試合をしているときの田所は、大学生程度に見えなくもないくらいの若さを保っていた。スーツでビシリと決め込むよりも、ジャージ姿でグラウンドを駆け回るほうがお似合いなのだ。
「いいよ、お世辞なんて。きみたちから見れば俺なんてどうせおっさんなんだから」
「お世辞じゃないですって。というか、私の一言くらいでそこまで落ち込まないでください」
「励ましなんていらないさ。そうだよな、現役のあいつらと比べりゃ体力もずっと劣るしな。もう人生の折り返し地点だ――ああ、俺も若いときにもっと青春しとけばよかった」
「勝手に過去の余韻に浸らないでください」
「いいや、これは俺からの教訓だぞ。お前も勉強勉強って顔を鬼みたいにするより、部活や恋や趣味に時間を割くんだ。勉強なんてじじいになってからでもできるんだから」
「私の場合はおばあちゃんですけどね。というか、何だか先生の青春時代が淋しかったみたいに聞こえますよ」
田所は唇を尖らせ、フェンスの向こうでかけ声を上げる生徒たちをぼんやりと見つめる。
「お前、あそこに気になる奴でもいんのか」
「何ですか、藪から棒に」
「ここでぼんやり立ち止まっていたからさ。サッカー部か、それとも陸上か。いや、意外とテニス部だったりしてな。だがテニス部は気をつけろ。チャラチャラした連中の集団だともっぱら評判なんだ」
「詳しいですね、さすが運動部の顧問」
「お前みたいなもの静かな文化系の子たちは、ああいう一見きらきらな野郎に騙されがちだからな。俺の忠告をありがたく受け取れ」
「そんなきらきらな野郎が所属する部活の顧問をなさっているのは、どこのどなたでしょうか」
皮肉混じりの美冬の言葉に、サッカー部顧問の男はへそを曲げたように不機嫌な顔になる。喜怒哀楽の表情がころころと移り変わる様は、まるで子どもだった。美冬は一人で含み笑いを洩らす。そして肩にかけた通学鞄をしょい直すと、
「ご心配には及びません。私、チャラ男は嫌いですから」
「そうか、なら良いんだ」
田所は咳払いを一つすると、右手に持っていたファイルで美冬の頭をぽんと叩く。
「じゃ、気をつけて帰れよ。それから、良いお年を」
美冬が言葉を返さないうちに、ジャージの背中はまたたく間に小さくなっていく。程なくしてグラウンドに田所の姿が現れ、「よお、精が出るなお前ら!」と通りの良い声があたりに響き渡った。四十とは思えぬほどの見事な足裁きでボールを操る田所をしばらく眺めたあと、美冬はくるりとフェンスに背を向ける。
「人を子ども扱いして」
田所に聞こえたはずもない。だが、美冬はたしかに彼に対してそう呟いた。
サッカー部の生徒を目にして「田所先生の部活だ」と咄嗟に考えたことも、煙草の匂いで田所が近づいていると気付いたことも、身を切るような寒さの中で与太話に付き合ってくれたことも、去り際に出席簿のファイルがそっと頭に乗せられたことも。本当は全部が嬉しかったなんて、当人に伝えられるはずもない。「俺はもう四十で、若くない」と、彼自身嘆いていた。彼が若者に希望を託しているように、美冬も微かではあったが、田所に抱いていた――何を?
「ばっかみたい」
気付いているはずもない。気付かれるはずもない。美冬はいつだってポーカーフェイスで、「名前に劣らない、まるで氷の女王のようだ」とクラスメイトに揶揄されることもあるほどだ。触れれば解けてしまいそうな恋心は、心の奥底に忍ばせている。誰も触れられないほど深いところに。氷の蓋を被せて。
文芸部に所属する美冬の脳裏に、不意にある和歌が浮かんだ。そういえば、あの歌はたしか――
学校の門をくぐりながら、美冬の唇が詠んだ。
「しのぶれど、色に出でにけり、わが恋は――」
「――ものや思ふと、人の問ふまで」
雪雲か雨雲が判別しがたい灰色の空を見上げながら、田所は口ずさんでいた。
今回取り上げた歌は、百人一首の中で四十番目に収録されています。